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ここで君染まり、ここから新たにと



   ***



 ――金が黒に染まったのか、黒が金を染めたのか。どちらにしてもこの日の出来事を、ノワールは絶対に忘れない。



 逃げ込むようにノワールが訪れたのはあの廃墟群からさらに帝都南部方向、誰も立ち入らぬ深い深い森の奥。風に揺れる木立のざわめきだけが辺りを包みこむ、どこか物寂しげな場所だった。


 そこには陽だまりに浮き上がるように、レンガ作りの一軒の大きな屋敷。ひっそりと、寂れた様にも見える。しかしそれであってなおどこか豪奢さを携えたそこは、かつてノワールの父であるグレイッシュが愛用していた別宅のひとつだった。


 そしてそこからノワールは、リリィベルが隣で見つめる中一本の電話をかけた。誰に、父にだ。大佐として将軍閣下への現状の報告と、息子として父にここを使わせて欲しいという事を伝えるために、だ。ちなみにその返答は、といえば。


「ふむ、気にせず好きに使え。それと状況はすでにブランシュ中尉、ヴェルメイユ大佐の両名から報告が上がっている。奇襲によって撤退せざる得なかったとはいえ、貴様らの反帝国思想の主要な連中、及びその首魁殲滅の功はそれ以上に大きい。……おかげで戦況は大きくこちらに傾いた。ゆえにいまは、他二名共々少し休むが良い」


 やけにあっさりとした報告の受諾と、屋敷の使用許可。それと、さりげなくブランシュとヴェルメイユが生きている、という事実の伝達であって。


「……お言葉とお気遣い、共に痛み入ります」


「気にするな。ああ、それと使用人は後ほど二名ほど送らせる。だが貴様の状況が状況ゆえに、身の回りの世話以外も必要だろう。なので頭の切れる者と腕に自信のある者、つまりボディーガードも兼任できる者を二名程送ろう」


「メイド、ですか?」


「……ふふん、貴様が望むならそうするが? まあいい、ともかくいまは身体を労われ。しかし万が一を懸念してガードは付けるものの、その場所は近しい者以外は所在を知らぬゆえ。そう易々と敵に知られることもあるまいがな」


「はっ、ありがとうございます父上」


「……父上?」


「ありがとう、パパ!」


 ともかくそんなやり取りの末にそれらすべての、父の、グレイッシュの返答にノワールは胸を撫で下ろし……よかった、とりあえずなんとかなった、らしいな。思いながらも受話器を耳から離し、そうして電話を切って――ふう、と。息を吐きながら近場のソファに腰を落として。


「ともあれこれでやっと、ひと段落と言えるか……」


「……お疲れ様です、大佐さん。あの、お茶をご用意しましょうか?」


「ん? ああ、大丈夫だ。それより君こそ座っていたまえ、お茶ならいつも通り私が用意するよ」


 心配そうにそう言ったリリィベルに手を突き出し、NOの意思表示。優しく笑って大丈夫だ、心配いらないと。それよりも君に、いまは少しでも休んで欲しいんだよ、と。疲れた身体に鞭打って立ち上がり、ティーポットが置かれたテーブルへと向かおうとした、瞬間。


「……大佐さん」


 軍服の裾を、いつかのように掴まれて。立ち止まり、振り返り。


「……どうした?」


 見ればそこには、顔を深く俯けたリリィベルの姿があって……硬く結んだ桃色の唇が、細い肩が、わずかに震えているのが見えて。気付いたノワールはしかしその理由は察せられなかったが、ともかく跪くように身を落とし、そっとその手を握ってやって。


「……本当に、どうしたのだ? ああ、もしかして今になって不安がこみ上げたのか? だとしたらすまない、配慮が足りなかったな。あんな目に会った君を、もっと気遣うべきだった」


 思いつくままに、そうであろう理由を述べてみる。


 助けるのが遅かったばかりにあんな場所にずっと独りでいさせてしまった、その後なのだから。怖かったのだろう、すごく。恐ろしかったのだろう、とても。だからこうして震えるほどに不安にさせてしまったのだろう、と。


 ノワールは、そう思った。だからこそ、小さなその手を握った。ささやかでもなんでも、ほんのわずかでも離れた間に欠けた温もりを分け与えようとするみたいに。もう大丈夫だよ、と。伝えるために。


 だけど、なぜかリリィベルは金色の髪を揺らして小さく顔を振るばかりで。


「……なら、どうして君は震えているのだ?」


 問いかけても、返ってくるのは否定するように横へと振り続ける顔ばかりであって。じゃあ、君はいったい、なぜ――? 震え続ける小さな身体が秘めた理由を、ノワールは見つけられなくて。それ以上はもう、言葉が見つからなくて。


 そのまま少しの間、ふたりに初めての沈黙が落ちる。俯けた顔を、見つめる。鼻先まで零れた金の前髪を、見つめる。下唇を噛み締めたまま、開かぬ潤んだ唇を見つめる。伏せかけの瞼から覗く、青い宝石のような瞳を見つめる……ただ、リリィベルを見つめたまま時間だけが過ぎていって。


「大佐さんは……」


 すると、そんな沈黙に耐えかねかけたとき。不意にそんなノワールの手を小さな手が握り返してきて。


「……どうしてそんなに、優しいのですか?」


 ぽつり、囁かれたのはそんな言葉。そこへと継いだのは、かすかな程に弱い声。それと、


「……わたし、離れてみて分かりました。求めるばかりで、貰うばかりで、なにもお返しできていません。なのにどうして……あなたはそんなにも優しくしてくれるんですか?」


 ポタポタと零れ落ちた、リリィベルの青い瞳を濡らして幾つもの透明な滴が――涙が、溢れて。眼鏡の奥の、ノワールの瞳が大きく揺れて。同時に胸に収まった心臓が、ドクン、痛いくらいに一度跳ねて。


「わたしは、大佐さんのなんなのでしょう?」


「わ、私にとって……君は……っ」


 と、なにかを言いかけようとしたしたこの口は、しかし再び言葉を見失って。答えを待つように、リリィベルは泣きながらノワールを見つめてきて。なのに、それなのに。なぜだろう。


 ――なぜ、と訊かれて。なぜ? と思い。


 いまだ自分の中で、明確に言葉にならないリリィベルへの感情の、その名前。それを知らない自分自身に、今更ながら困惑して……戦場とは裏腹に、この口はまったく機能しちゃくれなくて。


 搾り出せたのは、たったの。


「……いや、その。うまく、言葉にできそうにない」


 これだけ、でしかなくって。言葉にならない、出来ない、なのに確かな存在感を持って存在する感情を伝えられないジレンマに、身悶えそうで。気が狂いそうで。リリィベルがいま欲するものが出てこなくてノワールもまた、顔を俯けるしかなくなって。でも、でも。


「……大佐さんにとって、わたしはただの捕虜のひとりでしかありませんか?」


 でも、それだけは。頭の天辺から染みるように響いたリリィベルの言葉に、強く重ねて。


「違う、私は君をそんな風に思っていない!」


 これだけは言い切って。勢い任せ、立ち上がり。


 ともかく、なにか言わなければと。伝えなければと。必死になって胸の内側で形のないものを探す。ぐちゃぐちゃに散らかった部屋のようにあらゆるものが散乱した場所で、はいつくばって手探って。みっともなくともなんであってもとにもかくにも探し回って。


 そうして、そうして見つけたものは。


「……君は、私の物だ! それだけは間違いない! 君はもう、私が私の色に染めると決めた、たったひとりの君なのだ! もう他の誰にも渡さない、渡したくはない! それだけだ! どうだ、参ったか! ふはははは、というかなにを心配しているのだ? 関係など些末なことではないか! だが、そうも心配なら今日から君を、もっともっと私の色に染め上げてやろうではないか! 染まれ、黒に! 塗りつぶしてくれよう!」


 ふあーっはっはっはっ! 高笑い響かせて素直に言えない、こんなところで天邪鬼大爆発。自分でもなにを言っているかよくわかっちゃいないままに、言い切って。いや、もっと他に、明確にたった一言で済む言葉は浮かんでいたのだけれど……なぜか、口には出来なくて。ぜえぜえと息を切らし、チラリとリリィベルを見やれば。


「……っつ」


「あ……」


 飛び出すように、リリィベルは背を向けて駆け出していた。ノワールは息切れに負けて、手を差し伸ばすが届くはずもなく……そのまま外へと逃げられてしまって。


 ……幻滅、されたんだろうか。シンプルにそう思い、しかも精神ダメージ甚大。なじみの切符片手に久しぶりの死出の旅路へと向かい、ゴトリ、倒れてブラックアウト。


 そして――それからどれだけ経ったか知らないが、身体が波間を揺れるような感覚がして目を開いたときには。


「……大佐さん、大佐さん」


「……ん」


 ぼんやりとした視界、リリィベルの声がして。頭を押さえながら起き上がり、何度か首を振って曖昧な頭と視界がクリアになった果てに見えたものは、それはリリィベルの長く揺れる金色の髪――


「……く、黒っ?」


 ――では、なくて。濡れたように艶めく、美しい黒髪がそこにはあって。


「な、なん、なんで?」


 唖然としたノワールに、リリィベルは黒に染まった髪を、その毛先をちょんっと摘んでみせて。ふふっ、と少しだけ微笑んでみせて。


「……不安、だったから。この髪を大佐さんは好きって言ってくれました。けれど――これだけはできたから、これくらいしかできないから。だから自分から染められ、ちゃいました」


 ……悲しいような、照れたような。そんなふたつが混じるような眼差しで、彼女はまた微笑むのだった。



 ――そこに躊躇いも後悔もない。なのに満たされつつも失った気持ちになるのは、自分が欲張りなのだからだろうか?

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