ただ、あなたへ届けと叫ぶのです。
***
――逃げようと思えば、それはあまりにも容易なことだった。
「……んっ」
ほんの少しだけ、薄暗い牢の中で自分の両手を繋いだ錆びた手錠に力を込めて引っ張ってみる。するとピンと張った鎖はあまりに脆く、もう少しだけでも力を入れようものならば断ち切れそうな感触が手首に伝わる。
……大丈夫、いける。リリィベルはそれだけ確認したところで、しかし実行には移しはしない。小さく息を吐いて、その両の手に込めた力をふっと抜いて。
「だめ……大佐さんに、怒られちゃいます」
ぺったりと座った石畳の冷たさに膝を寄せながらも、力の抜けた両手をそこに挟み込むように落とす。まだかな、なんて。薄暗い牢の中で不意に上げた顔へとぴちょんっ、と音を立てて頭上から落ちてくる水滴が何度となく額を打って伝って頬へと垂れる。
もう、何度目だろうか? こんなことを繰り返すのは。待ち続けるばかりが、永遠にも似た時間のように無為に過ぎ続けて。もう捕まってからどれだけ過ぎたのかすら、曖昧で。特に乱暴されるわけでもなかったが、ここにいるのはひどく不安で、寂しくて、怖くて、悲しくて。逃げ出せるものならば、すぐにでも飛び出したいような場所に、違いはなくって。
それでも逃げられるのに逃げないのは、期待の現われだからだ。なんの保障も確証もない、ただの期待。希望的観測というものであって。リリィベルは、膝を抱えるように座り、そこに顔を埋める。ぐりぐりと何度か目元をそこに擦り付けてみせて。
――これが、正しい捕虜の扱いだと、姿なのだと分かっている。なのにそれでも、思い出すのはあの人と過ごした時間ばかりで。
「……もう、ずっとお話できていません」
こんなにも、孤独なものだと知らなかった。
「……ずっと、お顔を見れていません」
こんなにも、不安なものだと知らなかった。それは、それが。
「……寂しいです」
大佐さん、と。零れた言葉は、同じく零れた涙と合わせるようで。こんなにも、こんなにも……寂しいだなんて、知りもしなかった。思いもしなかった。リリィベルは更に深く、深く濡れたを擦り付けて。
欲深い自分が、恨めしかった。こんなにも求めているくせに、それでももっと求めようとしている。下唇を噛み締める。頬が際限なく濡れてゆく。矛盾の歯がゆさに押しつぶされそうになる。
――どうしても、あの人に会いたい。そのくせ心のどこかでは、あの人が会いに来てくれることを望んでしまっている。会いたいのに、会いに来て欲しい気持ちが比例して大きくなり。
「……来てくれないからもうぜんぶ、汚れちゃいましたよ?」
言いながらもこれほど貶められたというのに、こんな状況でさえ期待は潰えない。あの人がくれたこのドレスが、こんなにもボロボロになっているというのにそれすらも心配してもらうための演出になるかもと思ってしまう。そんな自分が嫌になり、足の指をきゅっと折り曲げる。
心配は、かけたくない。でも、心配して欲しい。相反する気持ちは、際限なく。
薄暗い牢の中で、リリィベルはそんなことばかりを繰り返し、繰り返し考えていて――結局、自分というやつは、どうしようもなく。
「……会いたい、です。どうして来てくれないんですか?」
甘えたがりの、弱い人間なのだ。我侭な人間でしか、ないのだから。そしてそれに縋らねば生きていくことさえ出来ぬほどに、あの人が不幸の基準を、気付かぬうちに幸せの基準と同格にしてしまっていたから。
捕らえられることは独りになること、恐ろしいこと。そんな当たり前は、すでにリリィベルの中には存在できそうになくって。また一滴、首筋に冷たい滴。頬を伝う、滴が落ちたとき。
もう、もう、もう――
「……大佐さん」
――ただ、あなたに会いたくて。それだけで。リリィベルは、潰れそうなほどの声で囁いて。爆発、してしまいそうになって……その瞬間。
ドォン……ッ!! と。
「……っつ?」
響いたのは、滴の落ちる音……ではない鈍い轟音。顔を跳ね上げるほどの振動。ビクッ、とリリィベルが周囲を見渡せば、耳を澄ませば。遠くから、
『――リリィベル、どこにいるのだ!?』
聞きたかった声が、なによりも、他のすべての耳をつんざく音を超えてこの耳はキャッチして。リリィベルは考えるよりも先に、立ち上がって、鉄格子へと張り付いて。
「た……」
もしも、これが幻聴でないのなら。そうでないのなら。そうならば、大きく息を吸い込んで。ぎゅうっと鉄格子を握り締めて、思いっきり。喉も肺もすべて壊れてもかまわない、感情のままに精一杯に。
「大佐さんっ! ……ノワールさんっ!!」
泣き叫ぶような大声で、掻き消されそうな程の轟音の中で初めてちゃんとあの人の名前を叫んだのだった――あなたに、届くようにと。
――期待も願いも、欲し望まなければ叶うはずもない。なぜなら手を伸ばすからこそ、誰かの手はあなたに届くのだから。