なにも、うまくいかないのです。
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――いいことばかりでないのが人生だ。そして、悪いことというのはいつだって幸せなときを見計らってやってくるものなのだ。
とある日、帰り道。ノワールはその日、基地をブランシュに任せてヴェルメイユと共に帝国軍本部で行われた出たくもない軍事会議へと出席していたのだ。その帰路に着く車内でのこと。
それは後部座席に隣りあわせで座ったヴェルメイユの、こんな一言から始まった。
「リリィちゃんとの尋問のほうは順調なのか、ノワール」
と、世間話でもするような軽いノリ。そうヴェルメイユに訊かれたことで、ノワールはふむ? と顎に手を添えて考えてみる。
その質問に対して返すうまい言葉が見当たらないが、うまくいっているということは間違いなく。ただその自分の中にある満足感というか、充足感というか。そういった類のものを表す適当な言葉が見あたらない場合。
つまり、この頃リリィベルとの距離がぐっと縮まった……ような気がしなくもない今の場合に用いるべき言葉ってやつは。
「そうだな、最近は……なんだかいい感じな気がするのだ」
「へえ、そうなのかノワール」
「ああ、本当に」
いい感じ、なのだ。これが一番、しっくりくるとノワールは思う。なぜかといえば、
「最初は、手に触れただけで意識を吹き飛ばされたものさ。だが、どうだ。いまではあの美しい金糸のような髪に触れるところまできてしまった。最近では、彼女は毎日私に髪の手入れを委ねるようになったほどだ」
「それはすごいな!」
「ふふふ、もう彼女は私無しでは生きてはいけまいよ……なにせ衣食住、すべてが私の手のひらの上というわけだからな」
このところリリィベルとの仲はなんだか急接近中、なのであって。軍務以外のほとんどの時間はすべて彼女との尋問に割き、一日の大半はリリィベルと過ごすようになっているわけで。つまり、これはもう。
「流石だなノワール、すでに彼女の支配権は君のものになったということか」
「そう言っても過言ではないな」
なんて、鼻息をふふふんっと鳴らしながら言い切れてしまうほどノワールとしては思えていて。
「くくく、なにせ……彼女とはすでに一夜を共にしたゆえ」
「な、なんだって!?」
つい、こんないらんことまで口からぽろり零れてしまうほどであって……でも本当、最近はうまくいっている気がするのだ。だから、だから今日だって出るつもりもなかった中身のないあのくだらない軍事会議にだって参加したのだ。
というのも、今回ノワールがわざわざ基地の管理をあの変態白髪妖精に任せてまで、断ろうと思えば断る口実などいくらでも捏造できたのにも関わらず出たのにはちゃんと理由があって。それは、それは。
「……どちらにせよ支配するしないは別にしても。彼女は、私が捕らえた捕虜だからな。誰にも渡すつもりはないさ」
「しかしなるほど、だからか。今日の会議で君がいきなり将軍閣下に私的奴隷の話を持ち出したのは。つまりはそういうことなのだろう?」
ピッ、と指を指してヴェルメイユが笑ってみせて――ヴェルメイユの言葉通り、だった。
否定するようにその指を払いながらも、その実は大正解。ノワールは、リリィベルを再三の『情報源としての価値なし』と報告をしたうえで、その上で殺すという選択肢ではなく『私的奴隷』、つまりは戦利品として彼女を手に入れることに決めた、というわけで。
……だがなにも突然決めた、というわけではない。これはずっと、ずっと考えていたことなのだから。ノワールは車窓から外へと視線を逃がす。帝国の街並みが流れてゆくのをただ見つめて……そんな街並みを抜ければ、あとに続くのは荒れ果てた荒野と戦いの傷跡ばかりで。そう、ずっと前から、考えていたことなのだ。ただ、踏ん切りがつかなかっただけのことなのだ。
でも、それでも。
「……どう、だろうな」
口ではこう言いながら、この前彼女の髪に触れて、触れるほど親密になれたと思えたとき。そのときにノワールは考えたのだ。それこそあんな少女とすら敵と味方で区分されてしまうような世の中なんだから。こんな、戦火にまみれたご時世なのだから。
ほんの些細な迷いが、誰かを殺す世界なのだ。だからリリィベルが捕虜である以上は、敵である以上は、いつ上層部から始末しろと言われるかはわかったものではない。だったら、
「……ただ、私の家の家訓に従うならば。すべてを奪ってでも監禁してでも愛でる。屁理屈こじつけてでも手放さない、とあってな……言うなれば、それに従ったまでのことさ」
少しだけ、ノワールは笑みを浮かべる。そうだ、手の内にあるうちにすべてを手に入れてしまう。そして二度と手放しはしない。手段など、選ばずに。そう決めた。それだけの、ことであって。
そして本日、無事にその承認は下り。晴れて彼女は、リリィベルはノワールの所有物ということになったわけで――思わず、満足感に酔いしれる。でもこれはあくまで家訓に従い大切なものを、みすみす失わないために、だ。しかしそう決めたほどのこの強い感情の正体は、いまだ謎のままだとしても、だが。と、そんなことをノワールが考えていたときだった。
「ノワール!」
「……っつ!?」
突然、ヴェルメイユが声を上げる。ガッと肩を掴まれ揺さぶられ、何事かと見やれば隣のヴェルメイユが乗り出すように運転席側へと顔を寄せて。
「あれを見ろ、君の基地が!」
そう叫び、押しのけるようにノワールもまた運転席のほうへ身を乗り出して前方を見やれば――そこには、
「……なっ!?」
まだ少し遠く、だがはっきりと見えたのは……もうもうと高く伸びるいくつもの黒煙をあげた自分の基地の姿であって。
「ノワールの基地が、破壊されているのか……? はっ、ブランシュ中尉!」
「お、おいヴェルメイユ!」
急ブレーキをした車から飛び出して、ヴェルメイユは一目散に基地へと駆けていってしまって――なんだ、なにが起きたのだ? なんで、なんで……こんなタイミングで? ノワールは事態が飲み込めないながらも、最悪のタイミングで「よくない事」が起きた、それだけはわかって。
「……くそっ」
乱暴に窓ガラスに拳を叩き付け、前髪をぐしゃり握り締めて……歪めた顔、先に駆け出したヴェルメイユの後をノワールは追っていくのだった。
――思い通りにいかないのは、そのほうが神様ってやつが楽しめるからだそうなのだ。だとしたら自分は、いま間違いなく神様ってやつを殺したいと願うばかりだ。