なにもない日に、君は
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些細なことでも、気にし始めると止まらなくなることがある。
それは別に特段騒ぎ立てるようなことでもないし、放っておいたところで誰になんの害があるわけでもなく。それがきっかけで世界が滅ぶこともなければ、平和になる要因にもなりはしない……ひどくささやかで些細で些末なことなのだが。
そういうものほど、一度目にとまると無性に気になってしまうものであって。
「……気になるな」
「はい?」
とある日の三時のティータイム中に、それはノワールの目にとまったのだ。それは、
「……なにが、気になるのでしょうか?」
「いや、なんといおうか……その、髪というか、横のところがな」
「髪、でしょうか? ……あ」
そっとノワールが指差し、リリィベルが細い指先で摘むように引っ張って見せた、それ。さらりと流れるような金色の髪の中で、不自然な自己主張。ぴょんっと跳ねた、その髪の毛。それが、たまらなくノワールは、
「き、気になるな……」
どうにも気になってしまって、しょうがなくて。そんなノワールの悶々とした気持ちが伝わったのか、リリィベルは指で梳くように撫で下ろしてみせる。なんとか直そうとしているのか、数度それを繰り返したところで。髪の流れにそいつは消えうせて。
「これで、どうでしょうか?」
「うむ、いい感じにまとま、」
――ぴょんっ、と。
「って、ないな」
「……どうしましょう、戻りません」
引っ込んだかと思えば、どうやら相当に根性のあるやつらしく。何度リリィベルが指先で押さえようがなにをしようが頑なに跳ねて主張してみせて……ああ、気になる。すごく気になる。私、気になります……ノワールはさらに悶々としてきてしまって。もう、だめだ。バッと立ち上がり。
「少し待っていたまえ」
「はい、舞っていればいいのですね」
なぜか同じく立ち上がり、特に表情が変わることもなくいつものぽやーんとした顔のままくるりくるりと回ってみせるリリィベル。可愛い、なにをしているかは知らないが、なにをしていても可愛い。ただ可愛い……ムービーに収めたい気持ちを堪えつつも、そんなリリィベルのためにノワールは部屋にある化粧台の方へと向かって。
「……これだ」
そこに置かれたブラシを手にとって、回るリリィベルの傍へ戻って。
「……ほら、ちょっと座って」
「はい……?」
その華奢な肩に手を添えて、そっと椅子に座らせて。不思議そうに少し振り返りながら首を傾げるリリィベルの、シルクのような手触りの金髪へ触れて。跳ねた部分から手のひらで優しくまとめながら、持ってきたブラシを通してみせれば。
「……ほわあ」
なんとも気持ちのよさそうな声をリリィベルはあげてみせて。大佐さん、これきもちいいです。通すたびにうっとり瞼を落として、ふあっ……これ好きです。とも言ってきて。その愛苦し過ぎる反応にノワールは……
「そうか……ふ、ふふふ」
……見えないからよかったものの、またいつぞや添い寝をしたときと同じく顔が緩みっぱなしで。吊り上りそうになる口元にぐっと力を込めながら、しかし指先は極めて優しく触れるようにしてみせて――さぞ今の自分は、奇妙な姿でブラッシングしていることだろうと思って。
ああ、でもこの手触りの良さはなんなのだろうか? 指の隙間をくすぐる様に細い髪が零れていって、しっとりと吸い付くような滑らかな感触が手のひらに広がって。はらりはらりとなんともいえない心地よさに、うっとりしてしまいそうで……はっ!? 最大級に顔が緩んだところで我に返って。
「はっ、いかんトリップするところだった……こほん。ん、しかし君は、本当に綺麗な髪をしているな」
「そう、でしょうか? なんだかそう言われると、嬉しい反面、少し恥ずかしいですね」
このままではこの髪の心地よさに蕩けてしまいかねないので、ブラッシングをしながらもノワールは口を動かすことにする。するとリリィベルは頭を少しもたれさせながら、なされるがままになって返事を返してくる。
そして、
「……でも、大佐さんの髪も綺麗だと思います。すごく深くて、綺麗な黒色だと思います」
「そうか? ……あまり言われたことはないな。黒色の髪を物珍しがられることはあっても、褒められたのは初めてかもしれないな」
「……帝国の方は、皆さん黒いのではないのですか?」
「いや、知る限り黒は私くらいだろう。帝国ではむしろヴェルメイユのような明るい毛色のほうが、多いくらいだと思ったな」
「そう言われればワンコさんは赤いですね……大佐さんは、帝国のご出身ではないのですか?」
「……さて、な。私は自分の生まれはどこか知らないからな。だが遠い、帝国に攻め滅ぼされた島国のひとつに黒い髪の民がいたと父に聞いたことはある。……名前は、なんだったか。思い出せないな」
「……では、大佐さんはその国の方なんでしょうか?」
「ははっ、どうだろうな。気になったことがないので、調べたこともないよ」
「……そうですか。でも、大佐さんの髪の色、わたしは好きです」
「なら、知ることはそれで十分だ」
他愛ない会話のやり取り、繰り返し。ブラッシングしながらも、わたしは好きです、の部分はきちんと耳のレコーダーから脳内メモリにインプット。ノワールは今日の大いなる収穫を、忘れないように手を動かしながらも頭の中でしっかりとリピートして。
……たまには、こんなのんびりとした尋問も悪くないな、なんて考えていて。
しかし、リリィベルとの時間がそれだけで終わることはありえなくて。
「……まあ、君が褒めてくれたゆえこの黒髪も捨てがたいが、私は君のような美しい金色にも憧れるがね。どうにかして、交じり合わないものだろうか」
なんて、うっかり緩んだ口が発したこの台詞へのリリィベルの返答は。
「では、わたしと大佐さんに子供ができたら黒と金が混じった素敵な髪になりそうですね」
で、あって。すなわち、それは。
「……妄想に、殺される」
「大佐さん、どうして震えているのですか?」
いつも通りノワールが、瀕死に追い詰められたということであって……どれだけ緩やかな時間の中でさえ、彼女はノワールの妄想を止めてはくれやしないのだ。
――気になったものすべてに気を回せば、必ずなにか見失う。だから気にしないという選択肢も、時には大切なのかもしれない。