黒猫は天使に好かれたい
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――馬鹿馬鹿しいことで、時間の浪費をしてしまった。ノワールは眩暈でも堪えるように眉間に指を添えて、長い階段を上がっていた。
あれからしばらくは(嫌々ながらも)ブランシュに尋問をしてみたのだが、いかんせん得られたものなどなにもなく。ただ無作為に時間を消費しまっただけのやり取り、その繰り返しで。
「……やはり、直接彼女に訊くのが一番か」
それが一番確実で、手っ取り早いということで。しかし、
「……嫌われたであろう私が訊いた所で、彼女は答えてくれるものだろうか?」
そうだとわかっていたところで、それが出来ないからあんな茶番を演じていたのもまた事実であって。珍しく躊躇いがノワールの心に去来して、階段を上りきった辺り、尋問室へと向かおうとした足が止まって。
……昨日の今日で、いつも通りに会いに行ったところでなんの進展も得られるはずはない。むしろなにか、彼女の冷えた心を溶かすようなそういった決め手が必要なのでは? なんの装備もなく戦場に向かったところで、やられてしまうのがオチだろう。
そう、ノワールは考えて。帝国随一とまで言われた頭脳が、火花を散らすほどの大回転。考えろ、我が頭脳。高速で処理されていく今という戦況の、その最善手。それを導くためにこの頭脳はあれこれと解析し始めて。数分。
はっ!? と、ノワールのあらゆる戦場を勝利へと導いた頭脳がたどり着いた答えは――
「……あの、大佐さんこれは?」
「なに、ちょっとしたものだ。昨日、君に対して失礼があったその侘びとでも思ってくれればよい」
「……こんな大きな花束、初めて貰いました」
――両手で抱えるほどの、色とりどりを詰め込んだ花束と。
「それと、これも受け取るといい」
「わあ……大きなぬいぐるさんですね」
そしてこれまた巨大な、黒猫のぬいぐるみのプレゼント、で。……敵へ塩を送る、古からの戦略だこれは。友好的でない相手を篭絡させるには、時にはこういったことも必要だとの判断で――いつ用意したか、だと? なあに、私ほどの頭脳ならば、こういう時もあると事前に準備していただけのこと。
決して前々から空いた時間を利用して花屋やファンシーショップに足を運んで吟味していたわけでもなければ、好きな動物がわからない以上様々なぬいぐるみを用意しておいた、ということもない。プレゼントを渡すタイミングが掴めず、自室のクロゼットが溢れかえりそうになっていた、ということももちろんなく。
……ともかく、だ。かくしてこの作戦に効果があったかないかといえば、どうやら。
「猫さん、ですね」
「君は、猫が好きなのだろう?」
自分とほぼ同じサイズの黒猫を抱きかかえ、リリィベルはふにゃり顔を緩めてみせて。
「……はい。黒猫は、一番、好きです。モフモフしてもよろしいでしょうか」
「ああ、好きなだけモフりたまえ」
ぎゅうっ、と。華奢な腕で目いっぱいに抱き締めて、嬉しそうに頬ずりしてみせて――ああ、やばいなこれは。なんて可愛い組み合わせなのだろうか、黒猫をチョイスして正解だった。彼女のミルク色の白い肌と煌くような金色の髪が映えるのはやはりこの色しかなかった。もうなんか、このふたつごと抱き締めたい、テイクアウトしたい。だめですか? ……ではなくて。
「……あの、大佐さん」
「ん? どうした?」
今回の、この作戦の効果は。チラリ、大きな黒猫のぬいぐるみの陰からから恥ずかしそうに顔を覗かせて、もじもじとなんだか口ごもった後の、
「……昨日は、変な風になってごめんなさい。なんだか大佐さんのことばかり考えてしまって、変になってしまいました。……謝りたいと、思っていました」
「そう、か。ははっ、嫌われたかと思っていたが?」
「……そんなこと、ありません。ただ、なんと言いましょうか……」
「ただ?」
「……大佐さんのことで、胸がいっぱいになってしまってたんです。大佐さんのことしか考えられなくなって、恥ずかしくなって、おかしいですよね」
照れたように黒猫に顔を埋めてそう言った彼女の、なにを考えていたのかを話してくれたリリィベルの姿を見るに、大成功と言わざる得なくて。けどなによりも、もうノワールは。
「……大佐さんは、わたしを嫌いになってしまいましたか?」
「……いや、そんなことよりも」
「はい?」
ノワールは、ノワールは、ノワールは! 怒るも嫌いも、そんなことは二の次で、今はとにかく。
「すぐにカメラを持って来るゆえ、しばらくそのままモフッていたまえ!」
「え、あ、はい……」
その愛らしすぎる姿を、組み合わせを、一刻も早く永遠の中に閉じ込めたい。そのことで頭が一杯で。そして、もうひとつ。扉に手をかけた辺りで、振り返って。
「……ああ、そうだそれと忘れないうちに言っておく」
「はい?」
ぬいぐるみを抱き締めたままノワールを見つめるリリィベルに、言っておきたいことがあったのだ。それは、とてもシンプルに。
「君が私のことでおかしくなるというのなら、私だって同じだよ。私だっていつも君のことで頭がいっぱいで、いつだっておかしくなりそうなのだから……いや、もうすでにおかしいかもしれないが。だがそれで嫌うことは、絶対にないよ。私は、だがね」
「……え?」
「ふっ、いいじゃないか。我々はお揃いだな」
そこまで言って、かすかに笑いを浮かべてからノワールはそのままカメラを取りにいつものように自室へ向かっていって。
……けどもしもこのとき、振り向いていたならば。ノワールはきっと目撃していただろう。最高のシャッターチャンスを得ていただろう。だってそのときリリィベルが。
「……く、黒猫さんはいつだってドキドキをくれます」
そう言って床に腰からへたり込んだ、その姿を。真っ赤になって、見せたこともないような笑顔を浮かべていたその一瞬を。逃してしまったことを、ノワールはまだ、知らないのだから。
――胸の高鳴りの大きさは、誰も同じとは限らない。