金と青におやすみを。
***
あのブランシュの終始意味不明な妨害に続き、突然舞い込んだ緊急の、しかも割かし大事な案件の処理に追われてしまい……なんだかんだと気がつけば、もうとっくに昼前になっていて。
「くそっ……疲れた」
そしてノワールは滅多に吐かないそんな愚痴を吐きつつ、壁に手を添えながらぐったりした様子で歩いていく。正直、少し休みたい。だが、そんな暇などない、と。そうまでして向かう先は、もちろん尋問室という名のスイートホーム。なのだが――
「……なにか、甘いものでも用意すべきだった」
――不覚にも、忙しすぎてなにも用意できなかった。だが疲れたときには、誰だって甘いものが欲しくなる。疲れた体が糖分を、甘みを求めている。しかもないとわかれば、尚更で。ノワールだってそれは例外ではなく。
「とりあえず、尋問前になにか甘いものを食べよう……はあ、確か室内の冷蔵庫の中に彼女用のフルーツタルトが用意してあったはずだ」
甘いもの、甘味、甘さを私に……疲れきったノワールは、甘みを求めて尋問室の鍵を外し扉を開ける。そして、そしてそして。
「……!!」
目撃、してしまう。瞬間息が止まる。立ちすくむ。それは、
「……んん、んう……」
ふかふかとした柔らかなベットの上で、薄く開いた唇から漏れるのは微かに響く小さな吐息。伏せた睫毛は緩やかな半円を描いており、くったりと身を任せるように沈んだ身体は力なく。純白のドレス姿のままゆえか、無防備に開いた胸元。スカートから覗く真っ白な太ももが扇情的に、交差して。
――つまり、ノワールが目にしたものは。
「――お昼ね、しているだと?」
すうすうと心地よさそうな寝息を立てる可憐な天使の寝姿、そのものであって。だがそうだと理解したとたん、ノワールは。
「……ぐはっ!」
はい、耐え切れませんでした。
パリンッ、とあまりに可愛すぎるその姿に音を立てて眼鏡が弾け飛び、口から鮮血を吐き出して膝をついて――なんだ、なんなんだこの可愛い生き物は!? え、なにこれ可愛すぎて殺されそうなんですけど!? と、取り乱しまくって。
甘みが欲しい、とは思った。間違いなく求めていた。だが、これは甘すぎる、刺激が強すぎるのだ。ぐああああ……と、呻く様な声をあげながら、そのまま蹲って。数分後、
「……はあ、はあ、はあ。よ、よし!」
なんとか立ち直り、ズレた眼鏡を直してそおっと立ち上がる。そしてソロソロと忍び足、起こしてしまわぬようにベットへと近づき、眠るリリィベルの傍らへと膝をついて――チラッ、と。近くで見て。
「……かわい、すぎる」
可愛すぎます、リリィベルさん……その瞬間ノワールの中でいろいろ吹き飛んだ。爆発だ、大爆発だ、銀河誕生レベルのビッグバンだ。それくらいにかわいい、可愛い、カワイイ。なんかもう、いろいろおかしくなってしまいそうだった。
そして、そんなリビドー掻き立てられまくりな姿を見てしまったからだろうか? ……ノワールは、ふと悪いこと、を考えてしまって。
「……くくく、敵前でなんと無防備な。こんな状態では、なにをされても、文句は言えないぞ……?」
ゆっくりと、眠るリリィベルに顔を近づける。弱いと言っていた耳元の辺りまで詰め寄り、ぴたり、動きを止めて。眺めながら。
――今の私は、少々大胆なのだよ? 囁いて。というかこの寝顔のせいで頭のネジが数本吹き飛んだらしいので、歯止めが利きそうにないだけなのだが。ともかく。
これは、チャンスなのだと思うから。
だからノワールは、ずっとリリィベルにしたかったことを決行するのだ。いつか、いつかと思っていたことを、我慢し続けていたことを。するなら、いましか、ない……ノワールは寝顔を、いや潤んだ桃色の果実のような唇を。薄く開かれた、リリィベルの唇を見つめて。ごくり、息を飲み。
「い、いましか……これは神が与えてくれたチャンスなのだから」
顔を、さらに近づけていって。早鐘のように打ち続ける心臓を押さえながら……ノワールは、ノワールは。ずっとずっと、リリィベルを、ずっと。そうして触れる直前まで、近づいて。ついに――
「……リ、リリィベル、さん」
――名前で、呼んでしまった。自分は今なんと大胆なことをしてしまったのだろうか。ノワールはぶるり、自分のしたことに打ち震えて。感動、だった。
だが、眠る君の名を確かに呼んだのだ。蚊の鳴くようなか細い声、だったけれど。間違いなく言った、言ってしまったぞ! やったぞ私は! ふははははっ! 目元を手で覆い隠しながら、ノワールは天を仰いで噴出す笑みを堪え続ける。
「く、くくく……凄まじき高揚感だっ」
なんという罪悪感だろう、これは。眠る少女の名を秘かに耳元で囁くなど、まさに魔王の所業ではないか。悪人だ、私は。恐らくこんなひどい真似が出来る男など、世にはそうはいまいよ……達成感に酔いしれて、ノワールはもう止まれなくて。
「まだだ、まだいけるはずだ……っ」
勢い任せに、調子に乗ってここは――呼び捨てすら飛び越えて、もっともっと、親しみを込めて。キスすら出来そうな距離まで寄って、囁くのは。
「――リリィ」
怖いもの知らずの、愛称呼びを決行した。
……の、だが。
「はい、大佐さん。なんでしょうか?」
「ッッッッ!」
ぱちり、瞬いたのは青い瞳。眠り姫は、とうに起きていらして。そして、とてもとても丁寧にお返事してくれましたとさ。
――いろんな意味で、おしまいおしまい。