白い花は、手折れないのです。
***
――思い出すだけで死んでしまいたくなるようなことが、この世にあるとはノワールは思いもしなかった。まるで頭痛でも起こしているみたいに自室のデスクで頭を抱えて迎えた翌日の朝。
たっぷりの、ため息。もう何度目か知らない、それを吐いたところで。
「……なんだ、あの可愛いものに我を忘れて浮かれていたり、キザな台詞をつらつら並べてキザな振る舞いしまくっていた男は。あげくあんな少女を、敵を抱き締めたりしていた男は誰だ……誰だ、私だ。ああ、私さ!」
思い出すのは、昨日のリリィベルとのやり取り。醜態、あるいは痴態とでも呼ぶのがぴったりなあの悪夢のような己の姿で――ぐあああああっ!? 勢いよく立ち上がり、ノワールは吼える。
「はっっっずかしい! なんだ、アホなのか私は!?」
と。もんどりうってもがく様に顔を隠してグネグネとしてみせて……あー、なにこれ死にたい。すごく死にたい。いますぐ死にたい。誰か殺してくれないだろうか。頭に銃を突きつけて、躊躇いなく引き金絞ってひと思いに殺ってくれないだろうか。そう願う、が叶うはずもなく。
ペシャア……ッ、とデスクに落ちて……うーあーあー、と醜態に次ぐ醜態の重ね技。これが人生において失敗などしたことのないエリートゆえの心の弱さ、というやつか。さらけ出し、ノワールは心がポッキリ折れてしまって。しかし、
「っつ……いかん、これではいかんぞノワール。気をしっかり保て! なにをあんな少女ひとりに惑わされているのだ!」
負けるものか! と。ガバッと顔を上げて、得意の自分から自分への励まし開始。そうだ、私はノワール! 帝国の大佐にして冷徹にして冷酷なる悪鬼とまで呼ばれた男! それが、それが! ――高らかに言い放ちながらもそっと手帳を取り出す、開く、眺めるの三ステップは流れるように。
「……次は、白もいいが黒のドレスも用意してみるか――って、違う! なぜ私は彼女の写真を眺めているのだ!」
スパアン! 手帳を放り投げて、はあはあはあ……肩で息をして数秒。冷静な顔で、すっと自分で投げて自分で拾いなおして。
「……くっ! 写真にすら強力な依存性の毒が! これでは手放せない!」
悔しそうに顔をしかめながら、よし写真に汚れはないな……確認して胸ポケットへと大事そうに戻して。そこまでやったところで。
「大佐、失礼します」
ガチャッと音を立てて、聞こえたのは女性の声。ノック数回、そのままドアが開いて……「っ!?」ノワールは気付くや否やすぐさまに。コンマ数秒の間に。
「突然申し訳ありません、少しよろしいでしょうか」
「ふっ、どうしたのだ中尉。なにか報告か?」
大きなデスクチェアにゆったりと腰を埋め、脚を組み余裕のすまし顔。まるで清流の如き落ち着き払った態度と声で、いつもの見下すような笑みまで浮かべてみせて――あっぶなかった。たとえ内心は、心臓バクバクの冷や汗ダラッダラだったとしても、だ。取り繕ってみせて。
「いえ、報告、ではないのですが」
「ふむ……まあいい、座りたまえ」
「はっ! 失礼します!」
あと瞬きひとつの刹那でも入って来られるのが速かったなら、危なかった。が、どうやらさっきまでの姿は見られてはいないようだ。ノワールは秘かに胸を撫で下ろしながらも、入ってきた相手を促しながら見やる。
彼女は自身の副官で、帝国軍での階級は中尉。長い白髪を編みこみ一纏めにし、すらりとした細身の体躯に端正な顔立ち、ほんのり赤い瞳が目を引く女性。名を、ブランシュという。その姿は軍服こそ着ておれど、とても軍に所属する人間とは思えない儚げな見目した軍人であって。
……いや、正確には軍人であって軍人ではない、が正しいか。なぜなら彼女は、
「……いえ、このままで結構です」
「無理をするな、ブランシュ中尉……身体に障るぞ。私は君の頭脳をまだ失いたくはない」
「……すみません、ではお言葉に甘えて」
銃を持ち戦場を駆ける兵士ではなく、机上にてその兵を動かす頭脳。つまりは、戦略家。そしてノワールが率いる隊の作戦参謀であって、その頭脳は紛れもなく帝国一だろう。が、同時に彼女にはある問題もあって。
「すみません、では座らせて、いた、だ、き……」
「お、おい……」
ふらっ、と。ブランシュは座る仕草をしたかと思えばよろけて、
「……ます! 大丈夫です、いつもの軽い立ちくらみですから。急に動くと、すぐになるので」
かと思えばなんとか持ち直してみせて。だがすでに、顔色は少し青ざめていて……ノワールは、いつも、しみじみと思う。問題だろ、と思っていて。
ようは、彼女の抱えた問題は。
「……よく、この部屋にたどり着けたな。紙以下の耐久力しかない君が」
「部屋の前まで、部下に運んでもらいましたから。頑張りました」
「あ、そう……うん、頑張ったのだな……君の部下が」
この、軍人としては致命的な程の虚弱さであって。たぶん、ノワールが軽く小突いたら死ぬ。下手したら息を吹きかけても死ぬ。それくらいに弱い、弱すぎることで。……この原因は病気、というわけではないのだが。まあ、それは後々話す機会もあるとして。
いま、話題の中心にすべき事柄は。
「それで、いったいなんの用なのだ?」
「はい、今日伺ったのは……こほん、失礼ながら」
彼女が、ここに来た理由、それが。それこそが。
「……大佐、最近ちょっと捕虜にべったりすぎませんか?」
「ぐっ……?」
……なによりも最悪な事柄に他ならない、ということに間違いないはずだ。
――流れ弾に気をつけなければいけないのは、戦場も日常も同じだと忘れていた。