自分じゃ気づけないものです
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別に、隠そうと思ったわけではなかった。庇うつもりでもなかった。
なぜなら相手は敵なのだから。排除すべき対象なのだから。利用するだけ利用して、必要な情報を引き出し終えたそのときには――物言わぬ人形にでも成り果ててもらうつもり、だった。そう、心に決めて望んだ尋問だった。
けれど、それでも。
「初めて彼女に会った瞬間に、私は」
それまで考えたすべてを掻き消された。だから出来なかった、守りたくなってしまった……一目見た、その瞬間には。もう。
「頭の天辺からつま先まで、落雷が落ちたような感覚に襲われました。身体が痺れ、目の前が真っ白になったような感覚だったんです」
轟音を鳴り響かせて落ちてきたそれに、ノワールは激しく震えたのを覚えている。さらには。
「続けて胸の内側に、堪えようもない熱を感じたんです。ドクドクと鼓動が強くなり、彼女の顔を見るだけでその熱は全身へと伝播して……まるで逃げ場を探すみたいに、焼け焦げるほどに頬が熱くなったんです」
ドクン、ドクン、と。呼吸すら困難になりそうな程の圧迫感。うるさいくらいに鳴り響く、自分の心臓の疎ましさ。思い出し、ノワールは顔を俯け自分の胸をきつく握り締める。
「まるで見えない彼女の手でこの心臓を握り締められるよう、でした。そして気づけばいまはもう彼女の瞳が瞬く度に締め上がり、彼女の涼やかでゆったりとした声色を聞くだけでもまた締め上げられ、なによりも」
なによりも、なによりも。ノワールは、静かに立ち上がり。眼鏡の奥の瞼を伏せる、息を、大きく吐き出して。
「……彼女の笑顔がこの瞳に映る度に、私は苦しむのです。狂いそうなほどに、掻き乱されるんです」
なによりも、なにもかもを。彼女のすべてが、ノワールのすべてを書き換えていくみたいな。
……まるでそれは、この身を打ち砕く雷鳴の魔法のように。この心を焦がす灼熱の魔法のように。惑わされ、狂わされ、すべてを支配されていくような感覚。だから彼女を、そんな不思議な力でノワールを苦しめるリリィベルだからこそ、魔法使いなのだと揶揄したのだ。
だけど、事実はどうなのか、それはわからない。だから魔法でもかけられたようにおかしくなった自分がわからなくて、こうなってしまった自分がこれからどうなってしまうのか、それすらもノワールはわからなくて。
だから、なにも報告できなかった。出来るはずがなかった。
――だってこんなにも、狂おしいほどに渦巻く感情をいったい、どうやって説明すればいいのだ。ノワールは、わからなくて。
こんな気持ちにさせられる捕虜への尋問なんて、いや、違うか。こんなにも気持ちを揺さぶられるような女性に出会った経験などなくって……だから。
「すみません、取り止めがない話を聞かせてしまって……けれど、うまく言葉に出来ないのです。一目見たあの瞬間に、私は、私は――」
生まれて初めてのこの感情のせいで、彼女の、リリィベルのせいでノワールはきっと。
「――私は、壊れてしまったのかもしれません」
自分自身を制御するための舵を、操縦桿を、手綱を、なんだっていい。ともかくうまくやるために絶対に壊してはいけないなにかを、ノワールは壊してしまった気がして……いや、壊された、が正しいかもしれないが。と、ともかくだ。
「だから、私はいま自分がどうなっているのかを説明できないのです。……父上は、これがなんなのかわかりますか? 私には、皆目、です」
そこまで話して、ノワールは再びソファへと腰を落とす。糸の切れたように、力なく沈み込んで……しかし言い終えてみれば、我が事ながらなんと無様な報告だろう。と、ノワールは自己嫌悪に頭を抱えるしかない。
するとそんなノワールの姿を見て、ここまでただじっとなにも言わずにいたグレイッシュは神妙な顔で「ふーむ?」と唸ってみせたと思えば、なにやら顎鬚をさすりながら考える仕草をして数秒――突然。
「ああなるほどそうか、ふあはははははっ!」
「……!?」
豪快に手を叩き、流れるように膝も叩き、大声上げて笑い出して。そうか、そうなのか息子よ! ひとりごちて納得したように叫んでみせて立ち上がり。
「そうか、ついにおまえもか! そうかそうか、かかってしまったか、わずらってしまったか。ふあはははは! 一生無縁かと思ったが、そうか!」
「なんのこと、でしょう?」
わずらう……? それは、患う、つまり病にかかった、ということか……? 父の言葉に、ノワールが不思議そうな顔を浮かべれば、
「なにを不思議がることがある、愛しい息子よ。なんのことはない、いまの貴様の状態なぞ簡単なことよ」
「ご存知、なのですか!?」
ああ、と頷いてグレイッシュはニヤリ、口角を吊り上げてみせて、一言。
「ノワールよ、それは不治の病ぞ」
――それは一度でも患えば、煩えば。二度とは治らぬ不治の病。その名を世界は、なんと呼ぶ?