扇動放送
すぐに踵を返す。この魔方陣を破る手段は今のところ無い。それこそ黄泉の時と同じように、これを張った張本人に招き入れられでもしない限りは。
走りながら、それでも流れ続ける放送に耳を傾ける。放送室の使い方を理解したのか、バックグラウンドにクラシックが流れはじめた。
『------さて、ここで諸君が抱いている質問に答えよう。早くも僕の元には、たくさんの質問や意見が寄せられている。これに応えていくとしよう。なにせ僕は、君たちの自発的な協力が欲しい。理解を深めることは君たちにとっても、悪い話ではあるまい。…………では最初に、仮アザナ、おれんじ君より』
こちらの反応を待つかのように、一拍置く放送。
『内容は------お前は誰、とな。おや、そういえば自己紹介がまだだったな。僕の名前は土御…………』
声の主はそこで不意に言葉を区切ると、途端に声色を変える。
『ああ、いや……、違うんだ、えっと……うん、もちろん覚えているとも。わかった。わかってる。わかったよ全くもう……』
少し狼狽えるような声で、誰かと話しているのだろうか。それは明らかに、誰か個人に向けられたものであった。
『はァ、じゃあこうしよう。僕のことはムラサキと、そう呼んでくれ。うん。これなら兄さんも納得だろう』
声はまた、元に戻った。
「ムラサキってなんだよ、偉そうな顔して中二病か?」
すれ違う生徒の嘲笑が聞こえる。至極全うな意見であろう。この放送に真剣に耳を傾けている人間など、この学園の中で片手の指の数もいやしない。すれ違う教師たちの目も笑ってはいない。生徒の悪ふざけだと決めつけている。だが僕は、その片手の指の一本だ。今彼が言いかけた名前は、間違いなく土御門なのだから。
『では気を取り直して、次だ。仮アザナよっしー君から。------その王政とやらを、教師が許すはずないじゃないか、とのことだ。これも良い疑問だな。答えよう』
閉めきられている放送室には、現在進行形で質問が届いているらしい。どういうことだろうか。
『その答えは……否。否だ。許す許さざるにかかわらず、結果として王政は遂行される。何故かって? それはその目で見れば------といってもこれは放送だからな。その耳で聞くと良い。一年C組と中継を繋ごう』
廊下を走る。中継先だという一年C組の札はもうすぐそこだ。あと、すこし……。
放送で名指しされたからだろうか、C組前の廊下には近くのクラスからあふれ出た人たちでいっぱいになっている。それをかき分け、なんとか扉に辿り着いた。勢いよく手をかけ、力任せに引っ張る……が、びくともしない。窓から中の様子を伺おうとしたが、何も見えない。内側から紙か何かが貼られているようだ。
「おいおいどうなってんだよー」
「王政ってなになに、政治経済の公開授業?」
廊下前もさすがに騒がしい。その声が、少し遅れてスピーカーから聞こえてきた。一年C組教室で音が拾われているらしい。ムラサキが言った通り、中継が始まったのだ。
『…………罰だ。今まで、散々…………』
誰かの声が流れ出す。それが聞き取りづらいのは、なにもノイズのひどさだけではない。他にも音が聞こえる。誰かがすすり泣く声やうめき声。そして、次第に小さくなる悲鳴。それはどれも、教室で聞こえて然るべきものではない。僕は、意を決した。
「歯車を刻みし審判の神よ、その力を貸し給う」
僕は扉に手を当てると、呼吸を整える。扉は本来移動するものだ。たとえ誰がどんな妨害をしてこようとも、強制の名を冠する僕の異能によって、移動できない道理があるだろうか。
無い。
機械仕掛けの神の幻が廊下の天井に張り付き、その歯車を回転させる。不可視の糸は高速で手繰り寄せられ、幕はおのずと開かれる。非常に強い反動を感じるが、それでも扉は開く。
「おい、朔馬以外は下がってろ!」
そこに、ちょうどよく駆け付けた新崎先生が声を張り上げる。彼の誘導で、人だかりは退散させられた。
「おい朔馬、どうなって……」
同じく駆け付けた遼が、息を切らして横に立った。だが彼もすぐに口を閉じる。僕の見ているものを、彼も見たからだ。
果たして教室は、何も変わりないようだった。生徒たちが泣きながら、机や椅子にしがみつくようにしているのを除けば、だが。
「なぁ、一体何が…………」
起こってるんだ、と続くはずの僕の声はかき消された。生徒の一人が、必死の叫び声をあげたからだ。
「何したって言うんだよッ! 俺は、俺はお前になにもしてないだろ。やるならあいつだけにッ!」
他の生徒が口も開かずに座っているなか、唯一声を上げた男子生徒の声は、明らかに震えていた。その理由はすぐに判った。彼がそれを言い終わった途端、ゴッと鈍い音がしたかと思うと、彼の机が消失したのだ。
「…………なッ!?」
思わず出た声を手で塞ぐ。いや、消えたというのは正しい表現ではなかろう。机は落ちて行ったのだ。今の音は、机が落下の際に膝にぶつかった音だ。
おそるおそる、机の行き先へと目を遣る。彼の足元には、黒々とどこまでも続く大穴が空いていた。それはあまりに非現実的な光景で、僕は思わず目を見開く。遼も言葉を失ってしまっている。
だが、驚くべきはそれだけではなかった。床が無いのはその一か所だけではなかった。つまり教室の全ての床が抜け、大穴へと変わっている。生徒たちはその中で、その上で、何事もないかのように理路整然と並べられた、宙に浮く机や椅子にしがみついているのだ。
「…………うっさいな」
そして再び訪れた静寂を、素っ気ない軽侮の声が裂く。そして人影がひとつ、視界をすう、と割って入る。今の今まで気づかなかったが、教壇の上に誰かがいて、そいつが動いたようだ。彼はぽっかりと空いた穴の上を音もなく滑り、例の少年の前で立ち止まる。
「友……達、だろ、なぁクラスメイトだろ!」
椅子から落ちれば奈落の底だ。だがその椅子すら浮き続けている信用はないとなれば、心の拠り所などどこにもあるまい。座りながっら必死に椅子の脚を掴んでいるが、既に腰が砕けてしまっているようだ。
「都合良い時だけ友達呼ばわりか。笑わせんなよ」
極めて冷淡に。その嘲笑は、侮蔑の色さえ籠っていた。
「何をしたか、か? 教えてやる。…………何もしなかったこと。それそのものがお前の罪だよ」
彼がつま先で椅子の脚を小突く。すると、それが死刑宣告になったように椅子は途端に浮力を失うと、音もなく落下した。あまりに突然であったからか、それとも恐怖からか、椅子に座った生徒は悲鳴すら上げることなく穴の底へと落ちていき、僕の視界から消えた。彼は落ちていく少年をじっと、ただじっと、見つめていた。
そして僕はようやく気付く。机の列には既に、不自然な空白がいくつも空いていることに。犠牲者は今の彼だけではないのだ。
ザザザ、と流れ出す放送のノイズがまた濃くなった。ムラサキの茶々が、また始まった。
『どうだろう、見えるだろうか』
途端、学校中からどよめきが起こる。聞こえてくる声は驚嘆だろうか。
『------以上。理由は単純明快だろう? 生徒も教員も関係ない。例外なく、臣民が王に逆らうことは不可能だ。王には王たる所以がある』
こほん、と咳ばらいをして、ムラサキはこう続ける。その言葉は煽るように、嘲るように謳いあげられた。
『さて繰り返すが、これは全員に関係がある話だ。全てのクラスにおいて、この王政は認められる。王たる資質を得たければ、放送室の門を叩くがいい。資質とは、すなわち彼と同じ力------』
「異能、これは罪を裁く審判の力」
少年はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「ですよね、先輩」
無邪気な笑みを浮かべた彼は------
「…………射手矢!?」