来訪は、メロンと共に
佐口さんの眼から、ほろほろと炎の残滓が零れ落ちる。視線の先の森賀さんは微動だにせず、魂の抜けた人形のように横たわっている。
翌日、僕らは再び禁書区域に集まっていた。
「……綿津見」
その焔の目は、瞬きを経て黒に戻る。
「病院に連絡して、個室ひとつ確保して。この子をそっちに移すわ。可及的、速やかに」
「話が通じる医者の方がいいか?」
佐口さんは一瞬言い淀む。
「できれば…………いえ、その方が好ましい」
「了解」
綿津見は短く返事をすると、素早く部屋から出て行った。扉がバタンと閉まる音でふと息をつくと、森賀さんにそっとブランケットをかける。
「まッたく…………勝手な行動は慎むようにと、いつも言っているだろう」
向き直った佐口さんの眼には、今度は静かな怒気が宿っていた。
「どうして私や綿津見が帰還するのを待たなかった。何かあってからじゃ遅いんだぞ。…………まぁ、今回は命に別状は無いというのが、不幸中の幸いといったところだが」
怒られてしゅんとなっているのは主に遼だが、満身創痍の理恵も隣で、申し訳なさそうに俯いている。
「とはいえ、上がった報告書の内容は興味深い。〈牙〉の二本もヨコハマに来ている、と?」
「……ああ。ラグナロクだかなんだか、向こうには向こうの事情もあるようで」
「壊劫、か。ああ、それについてはまた後ほど話をしよう。……それで、二人のうち一人はミーミルの異能力者だったな」
「叡掠だ。相も変わらず頭の固い野郎だった。連れの女性の方は知らん。そいつの異能で花音がああなったわけだが」
彼はすぐに目を逸らした。責任を感じているのか、尻すぼみになった台詞は理恵が後を継いだ。
「たぶん、私、聞いたことあると思う。だいぶ前のことだけど、幻術系統の異能力者について話をしていたのところに通りかかったことがあって。たしか〈牙〉の最古参に、歌狩っていう女がいるって話だった」
ウタガリ、その文字列に佐口さんも覚えがあるようだ。
「ああ、それは私も聞いたことがある。直接会ったことはないが、なんでも対象に選んだ相手の感覚情報を、意のままに変換することができるとかなんとか」
聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、その全てが彼女の前では信用を失うという。
「自分の容姿に絶対な自信があるが故に、それだけは決して異能で手を加えないという話も聞いたな。なんとも自信家だ。……まあいい。で、花音はこれを受けて、恐怖を体験した。というか、今もし続けている。合っているな? 遼」
「ああ。見せられたのは地面へ向かって墜落する幻。決して偽物だとは見破れない、現実よりも現実味を帯びた虚像だそうだ。残された逃げの手が唯一、感情を受け取るというメカニズムそのものの切除となったのも、頷けよう」
「そうか。……その点なんだが、ひとつ不可解な点があってだな……」
遼と佐口さんを中心に、時折理恵を交えながら会話が進む。そこに混ざるに混ざれず、残された僕と黒猫は手持ち無沙汰になってしまった。二人で顔を見合わせて肩をすくめたら、することはもう見当たらない。黒猫は森賀さんの隣に座り、眠っていようなその顔をぼうっと眺め始めた。
「すいませーん」
「…………はィ!?」
突然聞こえた声に、素っ頓狂な声をあげたのは僕だけであった。話し込んでいる三人はそもそも僕の声にすら気付いていない。唯一黒猫だけが、なんだなんだと顔を上げて僕を見た。
「どしたの」
「あ、いや…………いま、なんか誰か喋りかけてきたような」
「気のせいでしょ。なんにも聞こえなかったよ」
「すいませーん、これ、図書館の中に拠点があるってことですか? 館内までは普通に入れるんですよね、ここ……見た感じ、普通の市立図書館だし」
黒猫は僕の顔を見て首を傾げている。でもこれはたぶん空耳じゃないと思う。
「ちょっと、見てくる」
声はこの部屋の外から聞こえてくるような気がした。とりあえず部屋を出て、ひとまず図書館入口へ向かう。声は図書館に入るかどうか迷っていたから、いるとしたらそこだ。
入口前には案の定、男女二人組の姿があった。
「相手が一般の人だったらどうするんだよ」
「その時はその時ですって。あ、こっち来ましたよ」
どちらも僕より少し年上といった風貌で、女性の方は僕に気付くや否や、片手をあげて手招きした。目に留まる青色のメッシュが、風ではらりと揺れる。
「こんにちは。えっと、君は……」
女性は僕の頭からつま先まで、さっと視線を這わせる。
「そうだな、アネクメーネって、知ってる?」
直感する。これは、同業者かどうかの確認作業だ。そして僕が聴いた言葉が、僕にしか聴こえなかった理由も同時に、理解する。
「もしかして、歌狩さん…………ですか?」
「よし、一発で当たり引きましたよ先輩。えっと、こちら、つまらないものですが……」
彼女の言葉に合わせて、付き添いの男---彼も同じく、青色のメッシュが入っている---が包みを差し出した。僕が一瞬身構えると、歌狩はすごい勢いで頭を下げた。
「お見舞いに参りましたッ! ほんと、すみませんしたッッ!!」
叡掠さんも、続いてぺこりと頭を下げる。図書館を利用しに来た他の一般客から、なんだなんだと視線が集まっているのを感じて、僕は急いで返事をした。
「と、とりあえず上がってください。ここじゃなんですし」
訪問販売への対応か何かか? と我ながら心の中で突っ込んだ。
**
「と、いうわけで」
かつて僕が座った来客用のソファには、コートを脱いだ男女が二人、申し訳なさそうに座っている。
「メロン、頂きました」
「朔馬、それ冷蔵庫で冷やしといて。後で食べよう」
「了解っす」
冷蔵庫は小型のものだが、各自が持ち込んだ飲み物を冷やしておくのに使っている。この部屋はもちろん飲食禁止だ。
僕が冷蔵庫の中のスペースづくりと格闘している間に、佐口さんによる尋問がさっそく始まった。
「言いたいことは山のようにある。まず第一に、どの面下げて来やがったという件」
「それはその、本当に…………」
「第二に、何故たった一日で心境が変化したのか、という件。話によると、遼たちには随分と高圧的に接したそうじゃないか」
畳み掛ける佐口さん。返事すら待たず、口からは次々に問いが流れ出る。その口調からは明らかな怒りが汲み取れた。先ほど遼に向けたものとは本質的に違う怒りだ。
「第三、花音に何をしたのか、詳しく教えなさい。第四に、壊劫の現状についても」
佐口さんに気圧されて、今や二人は黙って頷いている。
「そして最後に。黄泉は一体、貴方たちに何をした?」
黄泉という言葉が佐口さんの口から発されたその瞬間、歌狩さんの肩がびくっと震えたのを僕は見逃さなかった。
「えっと、まず最初の質問なんですが……ほんと、すいません」
「謝って済む問題じゃないわ。わたしたち〈守り手〉と〈牙〉の間の関係性をも揺るがしかねないし、実際、もう揺らいでいる」
「その件だが、第二の質問への回答はそれだ」
歌狩の代わりに口を開いたのは、叡掠だった。
「今回のスレイプニル回収は俺と歌狩の独断だった。正直に言うと、この話が上がった時の俺の判断は、あくまで主神の馬を優先するというものだった。それほどまでに壊劫勃発の緊急性が高まっているということは理解してもらいたいし、それは第四の問いへは答えで別途説明しようと思う」
「えらく協力的だな。らしくもない」
遼が嫌味を挟んだが、叡掠さんは意に介さない。
「ああ。これは理由の一つだが、ウチの主神サマが相当お怒りでな。主神のお言葉は絶対なんで、こうして伺わせてもらった」
「主神……オーディンの異能力者か」
首を縦に振り、肯定の意を示した叡掠。
「ボスがそう言うのなら、俺たちに拒否権は無い。あらゆる手段を以って謝罪の意を示そう」
「……理由の一つ、と言ったな。他の理由は?」
佐口さんは言葉尻も逃さなかった。ああ、と言葉を濁しつつ、叡掠が答える。
「この状態で願いを申し出るのはおこがましいんだが……。頼みがある。今度は俺の独断ではなく、主神を含むすべての〈牙〉の総意だ。…………〈守り手〉が保有している禁書、〈スノッリのエッダ〉をお借りしたい」
「今、この状況で?」
呆れたような声を出した佐口さんだったが、叡掠は表情一つ崩さず、極めて真面目に答えた。
「ああ、今すぐにだ」
**
「歌狩の言い方は悪かったが、ラグナロク勃発の危険性は日を追うごとに増す一方なのは事実だ。君たちがルルイエ浮上の件でご活躍したのは当然耳にしているし、評価している。でもそれとこれとは話が別だ。のほほんとしてもらうのは構わないが、俺たちの邪魔だけはしないでもらいたい」
頑張ったけどメロンは冷蔵庫に入りきらなかったので、僕達は図書館内に設けられている会議室を借りて、そこに場所を移すことになった。受け入れ先の病院が見つかって、その付き添いに行ったので綿津見もここには居ない。ごめんなさい。たぶん貴方の分のメロンは余りません。
もぐもぐと頬張りながら、佐口さんの尋問は続く。僕らは長方形をかたどるように並べたテーブルに、まばらに座っている。とはいえ歌狩さんと叡掠さんは二人まとめて隣同士の席で、まとめて非難の目に晒されているわけだが。
「…………まぁ、それは認めよう。本来私たち組織は、それぞれが一つずつ、対処すべき災厄を分担するために設立されているからな。〈牙〉がラグナロク阻止に全力を尽くすのは、それそのものは一切口を挟むことはないさ」
「え、それはじめて聞いた」
隣で驚きの表情を浮かべる黒猫。
「私も知らなかった。じゃあ、私たちはルルイエ担当だったってこと?」
理恵がフォークを振りながら、佐口さんに問いかける。もう食べ終わったのか。
「まだ時期ではないので伏せておくが、今は、違う、とだけ伝えておく。……ともかく、本筋はラグナロクについてだ。具体的には何が起こるのか、聞かせてもらおうか」
叡掠さんははぁ、と大きく息を吐き出すと、おもむろに話し出した。
「判明しているのは現状たった一つ、月の消失だ。エッダに記された通り、巨人の末裔フェンリルの子が太陽と月を喰らい、そして世界は闇に包まれる。」
「それは知ってる。違う、俺たちが聞きたいのはその次だ」
「月見が出来ない。月の兎は餅をつけなくなって、月見団子はお役御免になる」
「おい、露骨に話を逸らすな」
鋭く言葉を飛ばした遼に、叡掠さんは念を押すような視線を向けた。
「これ以上の情報開示は、あんたらを巻き込むことになるんだよ。こちらとしては、何も聞かずに〈エッダ〉を貸してくれるとありがたい。これは〈牙〉が突き立てるべき問題であって、〈守り手〉がその手を広げる義務は無い。なんといっても〈守り手〉の構成員には、エッダに縁のある人はいないからな」
佐口さんはその言葉を受け、糾弾の姿勢を一旦解いたようで、長考の姿勢に入った。入れ替わるように、今度は遼が厳しく追及の声をあげはじめた。
「断る。少なくとも、俺たちにはそれを知る権利があるだろう。そもそも……」
「それを言うなら俺たちではなく、モリガンの彼女が、だろう。知りたがりから死んでいくのがこの世界だと、教えたのを忘れたか? お前は昔から、なんでもかんでも首を突っ込みすぎなんだよ。お人好しだかなんだか知らんが、ロクな結果を生まん」
叡掠さんの声色は厳しいものだった。諫めるような口調に、遼も返答に詰まる。
「はは、言えてる。一理あるね」
「…………笑うとこじゃないだろ、黒猫」
話の腰を折られた遼は、咳払いをして、再び喋り始めた。
「じゃあなんだ。俺たちは一方的に攻撃されて、それでそれを水に流した上で、かつ禁書を一冊貸してほしいと言われているわけか。それでは流石に都合が良すぎるぞ叡掠」
「そうだな。だがこちらの願いはその通りだ。他の方々は、如何だろうか」
彼はそこではじめて、まっすぐ正面に座る僕の目を見た。その視線は、おそらく僕を品定めしているように、少なくとも僕はそう感じた。気のせいだろうか。