黄色い絵の具
背後から青銅の翼に抱かれた峰流馬は、叡掠のみぞおちを狙って鋭く蹴り上げる。一方の叡掠は素早く肘を落として防御すると、後ろに勢いよく飛び退いた。あまりに勢いが付きすぎていたからか、彼は着地の際に少しよろめく。
峰流馬が駆け出すと、背中の翼は大きく展開した。強化された脚でジャンプした彼はそのまま飛翔し、叡掠の頭に強烈な追撃を叩きこむ。
「痛ッたァ………まったく手荒だなぁ。お前も俺も、前線で殴る蹴るが得意なクチじゃない癖に」
「この程度で死ぬお前でもないだろ。ほら、立てよ」
一方、叡掠の身体もまた、装甲に包まれていた。装甲と言っても彼のものは布製の衣服であり、防御力などあるようには見えない。ただ随所に刻まれた淡く光るルーンが、そこに神智の防御をもたらしていることを示唆している。
その頭にも同じように、なけなしの防具と言わんばかりにヘルメットが着用されていた。だが先ほどの一撃を喰らったせいか、その首はあらぬ方向にねじ曲がってしまっている。
「これ折れてると思うんだけど。どうかな」
「折れてますね。生きてますか?」
連れの女性の肩を借りて立ち上がると、叡掠は自分の首に手を当てる。そしてなんと、そのまま頭を取り外した。
「生きてる生きてる。この装甲神格、既存の身体構造も改変できるらしい。待てよ……」
手に持ったヘルメットを横の女性に押し付けると、彼はマントを翻した。露わになった彼のベルトには、スペアの頭部がいくつもぶら下がっている。
「叡智を詰め込む本体は、どうやら頭部だけらしい。これも俺の異能の起源が故か……」
瞬間、峰流馬が距離を詰め、もう一度追撃を加える。だが今度は手ごたえが無い。それはまるで、さきほどスレイプニルを撃った時と同じ。彼の飛び膝蹴りは空を切った。叡掠の姿は、蜃気楼のように消え去っていく。
「……出しゃばるなよ。先輩の首はおもちゃじゃないんだ」
吐き捨てるような声が響くと、揺らめいていた残像はふっと消失する。
峰流馬は標的を見失うと構えを解いた。胴体を覆っていた青銅の翼は変形し、今度は彼の頭をマスクのように取り囲む。
「幻術使いね、デケムの手の者か」
「デケム?…………ああ、あんなクソダサ野郎と一緒にしないで」
「…………そこかッ!」
峰流馬は一歩後ずさると、予備動作無しに回し蹴りを放つ。彼のつま先が、虚空の中で何かにかする。
「喋り過ぎは感心しないな」
「…………ちッ。分不相応なアタマしてる癖に、アマデウスで更に拡張されたと見た。最初から聴覚も濁しておくんだった……」
ざざざ、と機械的なノイズが辺りに満ちはじめる。
「悪いけど私も先輩に賛成で、トロッコは一人を轢き殺すべきだと思うの。ま、今回はブレーキついてるんだけど……」
声の発生源はまったく特定できない。そこで峰流馬は、そもそも彼らの目的は誰でもなくあの警官であることを思い出す。急いで森賀たちの元に引き返すが、もう遅い。走れど走れど、その距離はいつまでも縮まらない。
峰流馬が敵の策中に嵌ったことに、良須賀は素早く勘付く。身に纏った水をすばやく血液に変え、足元に勢いよくぶちまけた。これで上を歩く者は跡を残すことになる。
「…………!」
だがその努力もむなしく、次の瞬間、彼女の身体が廊下の奥に吹き飛ばされる。緋色の水面は、波紋一つなく穏やかなままだ。
「かはっ……」
壁に激突し、四肢は力なく崩れ去った。
「理恵ッ…………きゃっ!」
気を逸らされた森賀も、不可視の何かに突き飛ばされて体勢を崩す。転がりながら彼女もアマデウスを取り出そうとしたが、今度は手元に攻撃が入り、注入器は廊下をからからと転がっていく。
「ルルイエの浮上を阻止したからって、正義のヒーローぶってるんじゃないわよ。世界の危機を阻止しているのは、アンタたちだけじゃない」
女性の姿は未だに見えず、その声だけがただ響く。
「だからって、わざとブレーキを切らないのは直接手にかけるのと同じ……」
「ええ、そうだね」
女性の声のトーンが一段と低くなると、彼女は森賀の目の前にその姿を現した。その隣では、新しく頭部を付け直したらしい叡掠が目を逸らしている。この世で最も軽蔑するものを見下すような視線を投げかけながら、女性はその手を森賀に伸ばす。
「だから、餓鬼だって言ってんのよ」
指が髪に触れる。
「《欺罔》」
**
「《欺罔》」
乱入者の女が、言葉と共にこちらに手を伸ばしてくる。この女の正体は一体なんなのだ。明確な敵意を感じるにもかかわらず、一切の殺意を感じさせることなくこちらに触れる。
森賀の思考が答えに辿り着くその前に、その細い指がそっと髪に触れた。直後、廊下の床が大きな音をたて、端から崩れていく。
「な、なによ……?」
手を払いのけ、慌てて立ち上がった。抜けた床の下には青空が広がっていて、床の破片は下に下に落ちていっている。どういう構造になっているか判らないが、ただ一つだけ判ることがあった。このままでは------
「私も墜ちるっ…………」
護衛対象の警官に注意を促そうと振り返ったが、なんとそこには誰もいない。先ほどまで立ち尽くしていた筈の警官は、視界のどこにを探しても見当たらなかった。再び前を向くと、あの女の姿さえも消えている。
直後、無音のまま足裏の感覚が消え去り、森賀の身体は重力に従って落下していく。そう、床など最初からなかったかのように。
「…………は?」
どこまでも、どこまでも落ちていく。
**
「お前、何をしたッ!」
峰流馬が吠える。その視線の先では、床に寝そべったまま、際限なく悲鳴を上げる彼女の姿があった。怪我もなく、ただ触れられただけで、彼女は無限の恐怖の中にいる。強力な重力で床に縛り付けられているように、そこから一歩も動こうとしない。
「さァ」
女はつまらなそうにあくびをすると、自らの服にさっと手を払う。埃を退けるようなその仕草をするたびに、彼女の服装はセーラー服、水着、和服と変化を繰り返す。
「------どこまでもどこまでも、下へ下へと落ちていく。追突するであろう地面には未だ辿り着かないけど、落ちている以上いつかはその時が来る。パラシュートも、命綱も勿論無い」
「は?」
「そういう幻覚を見てもらってるのよ。外界からのあらゆる五感情報を遮断したから、私が異能を解かない限り、自分が幻を見ていると気付くことは絶対に無い。勿論勝手に失神するなんて許さないから、そのうち失禁でもするんじゃないかな」
「……やはり幻術系か。だが単に幻を見せるだけというわけでもないな。距離感覚を狂わせようと、確かに前に進んでいる筈の俺が一ミリも動けない理由にはならない、なにより視覚を惑わせようと、必中の呪いを退けた説明がつかん」
そこでいったん言葉を区切ると、峰流馬はぐりんと首を上に向け、沈黙を保ったままの黄泉に話しかけた。
「または最初からスレイプニルが生きていなかった、とかな。この魔具は生者のみを喰らう呪いだから」
「怪異に生も死も無い。ただそこに在るか、無いか、その二択だろう」
呆れたように肩をすくめる黄泉。その動作を峰流馬も真似た。
「おいおい、聞いたかよ叡掠。お前さん方が後生大事に庇っているソイツ、死んでは無いが生きてもいないらしいぞ。そんなモンを掴まされて殺人の片棒担がされて、自称正義の味方はそれでいいのか?」
叡掠は何か言いたげにヘルメットをコツコツと叩いたが、結局言葉に出来ずに苛立ちだけを表明しする。やがてようやく何かを口にしようとしたが、その瞬間、彼の注意は他に移った。
「……なぁ歌狩。モリガンの子、気絶したんじゃないか?」
さっきから目を背けたくなるほど叫びを続けていた森賀が、一瞬にして静かになったのだ。地面に力なく座り込んで、床を見開いた目で見つめたまま動かない。
「そんな筈は……」
歌狩。叡掠にそう呼ばれた例の女性も、それに気付いた。
「五感を強制的にダミーのものと置換してるのよ、気絶したくても脳が直接体験してるんだから恐怖からは逃げられないし、そもそも私の異能は神をも騙すという前提が……」
森賀の顎に手荒く掴みかかる。
「ほら起きなさッ------、って、え?」
歌狩が顔を上げさせる。森賀の首がだらしなく動き、無表情のまま彼女を見つめ返した。その目は焦点すら合わず、一片の感情もそこから感じられない。生気すら、感じられない。
「おい、どうした」
「……まさか恐怖のあまり死んだ、とか? そこまでするつもりは……」
「歌狩、その子は魔術連盟とも繋がってるって言っただろ。殺すのは不味いだろうが」
「だから、幻なんだから怖いだけなんだってばッ」
歌狩が動揺から一瞬、気を抜く。それがきっかけとなって、それまで彼女が創り出していた幻覚に綻びが生まれ始めた。うるさいノイズは途切れて消えていき、峰流馬にかけていた幻も解除される。
彼はその期を逃さず、前のめりになりながらも森賀に駆け寄った。一切の感情を浮かべず、人形のようにただ虚空を見つめる森賀を庇うように抱き寄せると、その事情を把握した。
「感受性ごと完全分離したんだな。お前、花音になんてことをさせたッ……」
峰流馬の鬼のような気迫に、歌狩は思わずたじろいだ。その瞬間、廊下の端から押し寄せてきた緋色の大蛇に喰われ、歌狩と叡掠は森賀たちから引きはがされる。廊下の奥には、体勢を立て直した良須賀がいた。その横には、目の前で起こった光景が信じられず、唖然としたままの警官の姿もある。無事のようだ。
「貴女、ウートガルザ=ロキの幻術使いね。北欧神話にて、神々をも騙す幻を作り出した巨人の異能力。〈牙〉に所属していると聞いたことがある」
「それが判ったところで何になるのよ、血液女。たとえ恐怖を克服したって、私の異能は五感情報の完全変換。誘導できる感情は恐怖だけじゃ-------」
血液製の大蛇は途中で目標を誤認したのか、窓を突き破って落下していった。喋りだした歌狩に対して、被せるように、峰流馬が声を出す。
「恐怖を克服したわけじゃない。感情どころか、それを感知する感受性までもを完全に切り離して、こいつは逃げているんだよ。まだ落ちている幻の中だが、怖くはない。おそらくは、本来怖いと思うべきものを、怖いと判断する能力ごと異能で切除したからだ。切除したものが返ってくる保証は無い。だのに、それを切り離す覚悟が、お前に判るか?」
「……怖く、ない?」
遼の言葉に反応したのは、意に反して黄泉だった。彼女がそっと呟く。そのまま何かを考えるような素振りを見せた彼女は、無言で手を叩いた。その音が響き渡ると、廊下を塞いでいた巨大な岩は砂となって崩れ去る。
「異能の少年、野上花音を連れて退きなさい。今撤退すれば、治療も回復も間に合うでしょう」
「どういう……風の吹き回しだ。そもそも俺たちは、そこでおとなしく突っ立ってるスレイプニルを処理しに……」
「それは諦めなさい。この馬は実験のトリガーの一つ。みすみす邪魔はさせられない」
「だが……」
そこで突然、黄泉は語気を強めた。
「だがじゃない。退け。じゃないと、最後の犠牲はあんたら三人の中から選ぶわよ」
峰流馬は少し迷っていたが、黙って頷いた。既に劣勢は劣勢なのだ。良須賀が彼のそばにかけより、二人で森賀を支えて立ち上がる。黄色の彼岸花がいくつか散っては、その花びらが風に吹かれて廊下を吹き抜けた。ついて来いと言っているように。
「……何故だ。何故、傍観者気取りのあんたが俺たちの肩を持つ」
すれ違いざまに峰流馬が問うた。歩き去る背中に、黄泉が振り返ることなく答える。
「大衆と同じ価値観なんて退屈なものだと思われがちだけど、私はそうは思わない。むしろ大事なものよ。私もひとつ失くしちゃって、それを今では後悔してるのよ。だから許せないのよね、無理やりにでも、他人の感性を捻じ曲げるような人間が」
砂だらけの廊下を抜け、人形のように腑抜けてしまった森賀と、未だ放心状態の警官を連れて峰流馬たちが歩き去る。彼らが通り終わると、砂はまたもとの巨岩に戻った。
黄泉が半透明の目で睨んだ先は、血に塗れた歌狩。黄泉は天井からするりと抜け出すと、地面に降り立ち、次第に透明度を下げていく。実体を、持っていく。
「------本当は、功に焦った〈守り手〉を贄とするつもりだったとも。欲に釣られたあんたらの方は、とはいえ無傷で帰すつもりだったさ。まあ、スレイプニルは元々渡すつもりは無かったけど。けど……もっと気が変わった。そこの異能使いの女」
歌狩の足元に、どこからともなく湧いて出た無数の蜘蛛が群がる。
「ぎゃ、先輩蜘蛛蜘蛛、蜘蛛とって!」
足踏みを繰り返すが、蜘蛛の数は夥しく、踏みつぶしても踏みつぶしてもキリがない。一方の叡掠は歌狩に服の袖につかみかかるが、彼は別の考え事に気を取られていた。
「……主神の馬をトリガーに、強欲な人間を贄にするか。七人の魔術師のうちの一人が、黄色の世界と、蜘蛛と、それから……」
「ちょっと、考え事は後にして下さいよ。ぎゃあ肌つたって登ってくるの気持ち悪いッ!」
太ももまで登った蜘蛛の群れ、否、蜘蛛の山は次の瞬間、地面から生える岩に変化した。身動きが取れなくなった歌狩の元に、先ほどまでまったく動く気配すらなかった、スレイプニルが歩み寄る。
「------そんなに欲しけりゃ、くれてやろうか?」
黄泉の憎悪の言葉を引き金に、スレイプニルの身体が液体になり、歌狩の口に流れ込んだ。驚いた叡掠がそれを阻止しようとしたが、その努力は全く無意味だ。得体のしれない何かは彼女の口から、鼻から、とめどなく侵入する。
その全てを吸い込み終わった後、歌狩の首は力なく、がくんと下を向いた。アマデウスを解除した叡掠が大声で呼ぶが、当然のように返事は無い。
「畜生だめか。異能力、《智------」
「退け」
黄泉は叡掠の肩を突き飛ばすと、場所を空けさせた。
「何をッ……」
「殺しはせん。邪魔されると余計に危ないから、お前は指でもしゃぶって待ってればいい」
歌狩の前髪を強引に引っ張ると、その顔を無理やり上げさせる。その後彼女が白衣のポケットから取り出したのは、通常のプラスチック製のスポイトとなんら変わりないもののように見える。
「…………摘出」
呆けた表情の歌狩の口に突っ込んだスポイトで、黄泉は何かを吸い込んだ。半透明のスポイトが、鮮やかな黄色で満ちていく。廊下を彩る黄色い彼岸花もどんどんと脱色され、そのたびにスポイトの中身は詰まっていく。
「それは、一体」
「これか? 私にもわからない。それに、たとえ知っていたとしても教える義理は無い」
しゃがみこむ黄泉は、振り返りもせずに、そうぶっきらぼうに答えた。嘘をついているようには見えない。
「------よし、終わった。スレイプニルが消えた以上、ここのアネクメーネも無意味な消失を待つだけだ。もう帰っていいよ」
黄泉がスポイトを丁寧にしまいこむと、立ち上がって、さっと手を振る。それを合図に彼岸花は全て消え去り、巨岩もすっかり姿を消した。様子を見るに、表世界に戻ってきたようであった。
そのままご機嫌に歩き去っていく黄泉に何も声を掛けられなかった叡掠は、依然気を失った歌狩と共に、誰もいない廊下に取り残される。
「黄色の…………あれは、絵の具?」




