机上のトロッコ
「スレイプニルだ。手早く始末するぞ」
焦りを隠さずライフルを構えた峰流馬は、狼狽した警官に視線だけを投げてよこした。
「あなたも死にたくないなら、そこの女子二人から離れないでくださいよ」
自分よりも一回りも二回りも年下の青年の、凛とした目つきに彼は戸惑う。
「な、なんなんだ君たちは……」
「それ、後にしていただけます?」
良須賀が襟をひっ捕まえると、そのまま後ろに引っ張っていく。森賀も鎌を構えると、その前に立ちはだかり壁となった。
「ええ、死人を出すわけにはいかないのです。遼、攻勢に助太刀は?」
「要らん要らん」
銃口から放たれる殺気に気付いたスレイプニルは、死角のない直線の廊下から逃げるべく、後ろを向いて高速で駆けだす。神話では神速とまで形容されるその俊足であったが、必中の弾丸の前には意味などない。魔具の呪いからは、単純な脚力だけでは逃げ切れはしないのだ。
「んじゃ、まず一発------」
遼は呼吸を止めると、瞬間その表情を無感情にして、躊躇なく引き金を引く。逃げるスレイプニルの背後を狙う弾丸は、確かにその肌を裂き肉を断ったかに見えた。そうなる筈だった。だがしかし、着弾を告げる血飛沫は上がらない。弾丸は、すっと吸い込まれるように肌に溶けて消えていった。
「なッ…………!?」
銃声に気付き、煩わしそうに立ち止まってこちらを振り向いたスレイプニルが、体の向きを変えて嘶く。するとその前に立ち塞がるように、人間が二人、すっと姿を無から出現させた。
「……黙って見ていれば、だ。主神の馬に剣を向けるとは、どういうつもりだ本の虫!」
一人は本を片手にして、こちらを指さして声を上げている。峰流馬や森賀たちに比べて、数枚多く着込んでいるところを見るに、よほどの寒がりか、ないしは北の地域からここに来たのだろう。
「…………あ、これもしかして、ちょっと距離遠いんじゃないですかね」
彼の横に立った者---声からしておそらく女性だろう---が首をかしげると、顔の前で指をつまんでは開いてを繰り返す。まるで縮尺を測るかのようなその動作と呼応するように、二人とスレイプニル、それと峰流馬たちの距離は一気に縮まった。
「それに、向けたのは剣じゃなくて銃ですけどね、先輩」
女性はニット帽を脱ぐと、ポケットに乱雑に押し込んだ。その長い髪には青色のメッシュが入っており、立ち振る舞いからも少し大人びた印象を受ける。
先輩、と呼ばれた男の方は、少し面倒そうに女性の方を睨むと、はァ、とため息をつき、彼もニット帽を脱いだ。
「そんなことは識ってる。屁理屈をうだうだ捏ねるな」
ぽりぽりと頭をかく男。彼も女性も、大学生くらいの年齢だろう。彼の髪の毛にも目を遣れば、控えめとはいえ青色のメッシュが入っている。
「お前は------」
峰流馬が言葉を漏らす。
「おやおや、誰かと思えばローマの知識神。それに四神の一角に、ケルトの戦神まで大所帯じゃないか。…………そっちの兄ちゃんは見ない顔だな」
「一般人だよ、叡掠。久しいな。さておき、何故お前が怪異をかばう。均衡を保つ機関であるお前ら〈フェンリルの牙〉が、何故」
彼らは知り合いであるようだった。峰流馬がキッと睨みつけると、一方の叡掠は吹きだすように笑い出す。ひとしきり笑った後は、真顔に戻って言葉を続ける。
「同朋意識など微塵も無いお前たちには、逆立ちしたって判るまい。我々は家族なんだよ。エッダに縁を持つ者は須らく庇護の対象となる。無論それは怪異ですらも例外ではない。我々は主神の馬をそこに見た。ならばこれより------」
彼は白馬の肌に手を当て、慣れた手つきで撫で始める。人に害為す怪異であるはずが、スレイプニルはまんざらでもなさそうに身震いした。
「------〈牙〉が、一本として迎え入れる。アネクメーネ現生のスレイプニルはヒトには懐かないのだが、これは好都合だ。主神の軍馬だぞ」
「黄泉と組んでやがったのか」
「組む、とは語弊があるな。我々は彼女から連絡を受け取った。そしてその申し出通りに、主神の馬を回収しにやって来たまでだ」
「紛いなりにも賢神を継ぐものである癖に、相手の術中に嵌っていることに気付かんのか。そもそも奴の生み出す怪異はおそらく---」
叡掠に対して言葉を畳み掛ける峰流馬の言葉を、彼岸花の波が遮った。だがその彼岸花は様子がおかしい。壁から、床から、あらゆるところから染み出した花々の色は赤色ではなく黄色である。
「おそらく……なんだい? 聞こうじゃないか、異能使いの少年」
廊下の天井から、音もなく半透明の女性の身体がするりと生えた。女性は和服の上から白衣を羽織っているが、衣服は重力に逆らって、彼女の身体にぴたりと沿っている。その声色に聞き覚えがあったのは良須賀であった。
「……黄泉ね」
「ああ、顔を合わせるのは初めてか。……さておき、そこの少年の推理を聞きたいと思う。君たちも------逃げてゆかないで聞いて行き給えよ。こうして接点を持った時点で、まったく無関係な話では無いのだから」
黄泉が半透明の手を差し出すと、歩き去ろうとしていた叡掠ら二人の前に濃霧の壁が立ちはだかった。前に進もうにも、数センチ先すらまったく見通せない。二人が舌打ちをして諦めたのを確認すると、峰流馬にどうぞと続きを促した。
「……七つの色に染まった七つの魔法陣と、学校にまつわる七不思議。お前ら七人はそれぞれ一色ずつ担当を決め、七不思議を媒介にして校内に侵食した。おそらくナイアルラの手助けあって」
「…………」
「七不思議は、所詮はただの迷信だ。だが生徒も教師もその存在を知っているし、信じている人間だって何人かいる。信ずる者がある限り怪異が生まれ落ちるなら、学校は格好の実験場となっただろう」
峰流馬は窓の鍵を開けた。外からは冷え切った風が流れ込む。
「学校は基本的に明るい空間だが、だからこそ時折生まれ出づる死が際立つ。巣から落ちたツバメ、寿命を迎えた鯉、踏みつぶされた蛙だっていてもおかしくない」
窓の淵には虫の死骸があった。彼はそれに一瞥をくれると、無表情のまま窓を閉める。
「それらを見つけた生徒たちは、死の匂いを忌み嫌うだろう。自分がその死を引き起こしたか否かに関わらず、ただ見てしまっただけで。否、関わってしまっただけで、死を悼み、理由の判らぬ罪悪感を抱く。そこの警官さんと同じように、死体への一方的な感情を抱くわけだ。そうなれば------」
「------そこまでだ」
黙って聞いていた黄泉が、不機嫌そうに、強引に彼の言葉を遮った。
「お前、すこし勘が良すぎるな。餓鬼の遠吠え程度に侮っていたが、認識は改めさせてもらおう。邪魔される前に手早く計画を進めることにする」
黄泉がさっと手を振ると、濃霧の壁は凝固して巨大な岩となった。
「現世と常世を区切る千曳の岩だ。すまないがお二人も、簡単に帰すわけにはいかない。帰りたければ、異界化の元凶を殺すがいい」
「スレイプニルか?」
「はたまた、それを生み出した張本人を」
黄泉の言葉で、皆の注目は森賀、否、その後ろで挙動不審に立っていた警官に集まった。このアネクメーネの核は確かにスレイプニルだが、単なる馬の死体にそれを見出したのは他でもない彼自身。
「…………だ、そうだ。退けよ」
叡掠が片手で払いのける仕草をする。
「断る。人間よりも怪異の命を優先することはできん」
動かない峰流馬。その隣に、無言のまま良須賀も並び立った。
「大義のための犠牲だ。戦力不足のままラグナロクを迎えることの方が憂慮すべきだと俺は思うがな。ラグナロクはアネクメーネだけに留まる戦争ではないんだよ。魔術連盟の試算でも、神話と同じように数多の世界へと戦火は広がることが示唆されてる。ヨルムンガンドが表世界を喰い尽くして良いのなら------」
「本当に起こるかどうかすら怪しいモノのために、目先の人間を犠牲にはできんと言ってるんだ」
「事後対応だけで世界が救えるのなら、誰も苦労はしない」
叡掠と峰流馬の問答は続く。頭上では、黄泉が口元を袖で抑えてけらけらと笑っている。
「巻き込まれてしまったのは哀れだと思うが、本来アネクメーネとはそういう場所だ。違うか?」
叡掠の言葉に、峰流馬は大きくため息をつく。そして内ポケットから取り出した〈楔打ち〉を自らの腕に押し当てる。
直後、銃声と血飛沫が飛び散った。傷口は一瞬で修復し、腕は何事もなかったかのように生成される。彼はうめき声一つ、漏らさない。
「------違う。違う違う違う、俺たちは、そうさせないためにここにいるんだよ。理想論ばっかりで悪かったな。生憎、俺達は餓鬼なもんで」
痛みを堪えて唇を噛んだ峰流馬が、苦痛に顔をゆがめた。
まっすぐと前を見据えるその目に宿っていたのは、間違いなくある種の決意であった。かつて自害を繰り返して世界を救ったひとりの友人に敬意を払うのだ。負けてはいられない、と。
「……話は平行線だ。実力を行使する」
叡掠はポケットから銀製のケースを取り出すと、中に収められた注射器状の物体を手に取る。それは〈牙〉にも導入されたという、装甲神格そのものに違いない。峰流馬もそれにすぐに気づくと、対抗するように、彼も自身の分を取り出した。
「装甲神格、スリス=ミネルヴァ」
「装甲神格、ミーミル」
二人は宣言を合図に、出自を異とする知識を装甲として纏う。直後、外殻と化した異能同士が距離を一瞬で詰め、火花を散らす。