覆う影の主
屋内にはかすかに人の気配があった。いくつかの家では暖炉に火がついていたり、食卓の上に料理が並んだり、部屋の電気が点いたままだったり。だが肝心の人の姿はどこにも無かった。まるで皆してどこかに、集会にでも出払ってしまっているかのようだ。
「デケムにガセを掴まされたという説はないかしら? 肝心のナイアルラはおろか、人っ子一人見当たらないじゃない」
黒猫が机に乗った鍋の蓋を開ける。まだ温かい魚介スープが湯気を立てた。
「ああ、でも痕跡そのものはあるのよね。でもアネクメーネのど真ん中で、人間がマトモに生活をしてるのは不自然よ。綿津見、なんか心当たりある?」
棚の埃を指で拭っていた綿津見は、黒猫に呼びかけられて振り返った。
「いや、無い。怪異ひしめくこの地に定住するなんざ、それこそ土御門家レベルの防衛能力が必要になってくる。俺が知る限り、この深度に拠点を持つ勢力は存在しない」
「それじゃあこの食事の主は、ここに来ているっていう一般人ってところかしら。まったく、どうやってここを嗅ぎつけたのか」
扉が開く。外を見て回っていた佐口さんが戻ってきたのだ。
「何か見つけたか?」
「見つけたかですって? 探すのは得意分野なのよ。海沿いに洞窟があって、そこに向かう足跡が浜辺に残ってる」
彼女は得意げに髪をかき上げた。
「怪異の足跡か?」
「いや、革靴や裸足の跡よ。まだ新しい」
**
黒々とした海にうちつける波。空に浮かぶ月を水面にたたえ、水は静かにたたずんでいる。
「アネクメーネの海…………何がいるか想像もしたくない」
海の怪物に関する伝承は、沿岸地域ならどこでも伝えられている。ただでさえ呼吸のできない人類は、海の女神から完全に拒絶されているのだ。
「意外に数は少ないもんだぞ。海の怪異は大抵が肉食で、しかも凶暴だ。共食いや縄張り争いは日常茶飯事だし、エクメーネの海とは違って、均衡のとれた生態系なんてものは存在し得ない」
生態系のピラミッドを描けば、ひどく頭でっかちなものが出来上がるだろう。この世界は決して安定しない。そういう運命にあるのだ。
「で、そんな海辺で何してるのかしら」
「さあ、もう少し近づいてみる?」
気付かれないように回り道しながら、僕らはゆっくりと洞窟に近づいた。入り口からは炎の灯りが漏れ出し、その中を影が動き回っている。
「どうやら複数人いるらしい」
「しっ、静かに…………何か喋ってるみたいよ」
黒猫が猫の耳で音を拾ったようで、人差し指を唇に当てた。唾をのんで息を殺し、足音を立てないように先へ進む。気配を消してこっそりと中の様子を伺うと、そこに広がっていた光景に思わず息を呑んだ。そして圧倒された。それはまさしく、異様の一言に尽きるものだった。
「海底の主。我らの祖先たる神なる御身よ、おお、父なる■■■よ。永遠に渦巻き、うねり続ける命の母よ、おお、母なる■■■■よ…………」
くたびれたスーツを着た中年の男や女子高生、それに寝間着姿の老人までもが虚ろな目をして炎を囲み、意味の分からぬ言葉を呟き、回り、そして踊っている。彼らは踊りの間に注射器を自身の腕に突き刺し、血を抜き、それを炎の中に投げ込んでいる。注射器が投げ込まれるたびに炎の勢いは増し、悪魔のような唸り声を上げた。
「カルト集団か? いや、それにしては様子が妙だな。肉声に機械的なノイズが入っている」
「信仰というより洗脳のようね。一種の催眠状態にあるみたい。儀式行為としては〈血の魔術〉に似た術式があるけど、こんな狂信的なモノじゃないわ。どうする、ひっかきまわす?」
「いや、ひとまず様子を見よう。見ろ、人の輪はまだまばらだろう。追加で何人か来る予定なら、そいつらをとっ捕まえて頭の中を見た方がリスクは低い」
異様な儀式を一旦後にして、僕らは再度物影に身を潜めた。悪夢のような賛歌は耐えがたく、耳を塞いで時を稼ぐ。
しばらく待っていると、綿津見の予想通り、ふらふらとおぼつかない足取りで砂浜を進む男が一人、現れた。年齢は三十代くらいだろうか。スーツに身を包み、だらしなくネクタイを緩めている。
男はあらぬ方角を向きながらも、まっすぐに洞窟へと向かっていく。綿津見がくいっと手を引っ張る仕草をすると、彼の足元の砂が流動し、ランニングマシンのように身体の位置を固定した。普通ならば、歩けど歩けど前に進まなくなったことにすぐ気づくだろうが、あいにく男は催眠下にある。僕らが真後ろに近寄っても尚、自分が置かれてる状況に気付かなかった。
「えいっ!」
後ろから飛び掛かった黒猫が、男の頭をむんずと掴み、砂浜に叩きつける。地面に突っ伏した彼は黒猫によって催眠を解かれ、そこで初めて僕たちの存在に気が付いた。
「な、なななんなんだお前らは、おい離せ離せ!」
「じっとしてなよオジサン。暴れたって無駄だって。大丈夫痛くしない。ちょっと頭ん中を見るだけだって…………」
「砂、砂が口ん中に…………。くッ、ここはどこなんだ! さっきまで会社にいたはずだってのに……」
綿津見も協力して男を押さえつけ、その隙に黒猫が記憶を盗み見る。行動そのものは少々荒いが、事を荒立てる前に状況を把握するべきだという判断だった。いや、事は今まさに荒立っているだが…………。
「催眠である以上、五感になにかしらの干渉がある筈よ。もうちょっと探させて……」
「おい離せ、警察を呼ぶぞ!」
「呼べるもんなら呼んでみな。ここ、電波届かないからな」
背中に座った綿津見が溜息交じりに呟く。これでは僕らがまるっきり悪者だ。
「駄目だ。特に変わったものは見当たらない。うわ、この人通勤電車の中で女子高生ばっかり見てるよ…………」
「何をぶつぶつ言ってるんだ。はやく俺を解放しろ!」
「うそでしょ、催眠の痕跡が無い、無い、お手上げよ…………」
黒猫が頭から手を放す。綿津見も腰を上げ、ようやく男は解放されるに至った。体中についた砂を恨めしそうに払って、それから僕らを睨んだ。
「なんなんだアンタら。カツアゲか? 生憎手持ちなら無いぞ」
男はその顔に怒りをたたえながら、綿津見に向かって歩み寄った。
「大体ここはどこなんだ。そもそもどうやって俺をここまで運んだんだ」
その怒りも疑問ももっともなものであったが、あいにく僕らはそれに答える術を持ち合わせていなかった。正直に話したところで信じてもらえるはずもなく、嘘をつこうにも良いものが思いつかない。
「ああもう、それじゃあそれじゃもう一回眠ってもらって……」
綿津見に至極まっとうな怒りをぶつけ始めた男に気付かれないように、黒猫が素早く後ろに回ると、首筋に人差し指を押し当てる。強く力を込めていないようだったが、彼の首は人形のようにかくんと曲がり、また虚ろな目をたたえて顔を上げた。
「元来た道を戻り給え。表に辿り着きさえすれば、夢を見ていたとでも思うのだろうさ」
素っ気なくかけた佐口さんの言葉に曖昧に頷くと、男は砂浜を引き返す。彼の背中を見送りながら、それでも僕は最後まで、声をかけはしなかった。
これはまったくの偶然のように思うが、彼は見知った顔であった。前回の世界線では、彼は怪物に襲われているところを綿津見に助けてもらっている。肉食の牛に襲われて腰を抜かしていた、あの男に違いない。
だがしかし、話しかけることになんの意味も無い。もしもし、私達はここではない世界線で貴方を助けた者ですけど、なんて言葉に意味も重みも無いのだ。
僕はあの世界線を捨てた。捨てたからには、都合よく振り返って懐かしむなんて虫が良すぎるだろう。
「…………記憶に残らない催眠なんて、そんなもの原理的にありえないのよ。催眠は記憶されるからこそ効果を持つんだから」
「だがあの男は、実際に自我を失っていただろう。原理を究明する必要があるな。やはり彼が向かっていたあの儀式にガサを入れた方が…………」
「私は反対。それこそ『クトゥルーの呼び声』のルグラース警部みたいじゃない。奇妙な偶像とかが見つかるのがオチよ。いえ、でも本当にあるなら回収すべきよね…………」
黒猫と佐口さんが先の男について考察を深めている。まだ時間がかかりそうだったので、僕と綿津見は海辺を歩きまわることにした。幸い、今回の捜索には差し迫った時間の制約がないのだ。
「突入しないんですか?」
僕は単純な疑問を口にした。綿津見は目を逸らし、少し言い淀む。
「都合が悪い。できることなら、したくない」
「どういう意味です?」
彼は今更ながらに、声を潜めて説明を付した。
「デケムも言ってたろ。俺たちの目標はあくまで事情の把握に過ぎない。俺たちが介入したという事実を、特にあのナイアルラに嗅ぎつけられるわけにはいかん。もし本当にナイアルラが関わっているのなら、の話だが」
「儀式に干渉しない限り、僕らがここにいることは気付かれないんですね」
「そうだ。ともかく今は情報が欲しい。すこしは秘密裏に手の内を暴いておかないと、いざという時戦況はひっくり返せんだろ。頭から全部潰していくだけが戦術じゃない」
「でももしあの儀式が危険なものだったら……」
もし危険なものならば、あの人たちを見殺しにしてしまうかもしれない。結果ナイアルラに勘付かれたとしても、今突入すれば、何人かは助けることが出来るかもしれない。
その可能性を、綿津見が想定していない筈は無いだろう。彼はゆっくりと僕の方を見た。その目は同調とも諦めともつかない、迷いの色をしている。
「いまここでトロッコ問題を議論し合うか? 無意味だろう。あの問題に解は出せても正解は出せない」
「でも……」
「さっきの小屋に生活痕があっただろ。催眠下とはいえ命は保障されている筈だ」
その時、綿津見の言葉を遮るように、つんざく女性の絶叫が響き渡った。
「朔馬、綿津見ッ!」
黒猫が緊張を交えた声で呼んでいる。僕らは一瞬顔を見合わせて、走り出した。
「ぐけっ、きゅ…………けけけ」
洞窟の中には変わらず炎が巻き上がり、その周りには祈りを捧げる人の群れがあった。だがその中の、一人の女子高生が、奇声を上げながらのたうち回っていた。周りはそれを気に留める様子もなく、ただ先ほどと同じ文句を吐き出し続けている。
「おいおい、あれは本当にヒトか?」
綿津見の言葉通り、女子高生がのたうち回っていたとは正しい表現では無かった。ソレは確かに先ほどまでは人間であったのだろうし、身体にまとった衣服により、それがかつて女子高生であったことは間違いない。だが今のソレは違った。皮膚には魚類のもののような鱗が生え揃い、両目は大きく膨らみながら左右に寄っていた。首は水死体のように肥大化し、鼻はみるみるうちに平らになっていく。そう。今まさに、ヒトがヒトならざる者に急速に変化している瞬間であった。
「元人間よ、攻撃しないで!」
佐口さんが燃える瞳を曇らせる。僕らが一瞬ためらったその隙を突いて、ソレは洞窟の外に駆け抜けて行った。慌てて視線で後を追い、躊躇いもなく海中に飛び込んでいく後姿をなんとか視界に収める。
「今、一体なにが……」
「半魚人の住む寂れた漁村…………ここはまさか、インスマスか?」
インスマス。綿津見がその言葉を口にしたその瞬間、今まで僕らに無関心であった他の信者たちが一斉にこちらを見た。その瞳は虚ろのまま、僕たちの姿を捉えてはいない。だが-------。
「「「「「「ああ、見えますよ朔馬さん。それと、神の名を穢す愚か者が三人」」」」」」
信者は一斉に口を開く。その声色は不気味に重なり合った。
「「「「「「その場に僕がいないことを残念に思いますよ。ヒトの目、ヒトの口を通しての会話は便利ですが、如何せん臨場感が無い」」」」」」
老若男女は一斉に同じ動きをして、同じように笑い、同じように口を動かす。まるで同じ棒から垂れた糸で操られた人形さながら、信者たちは言葉を続けた。その目は一斉に、僕の方を向いていた。
「「「「「「それで、ここをインスマスだと言ったのは誰です?」」」」」」
「…………俺だ」
綿津見が僕らに目配せをし、後ずさりながらゆっくりと答える。信者の注意が一斉に逸れた。
「「「「「「海神の切れ端か。これは妙なる偶然だね。異国の海の神の残滓が、我らが司祭を嗅ぎつける。これは良いシナリオだ」」」」」」
信者たちはぶるりと大きく身震いすると、一人を残してその場に倒れ込んだ。唯一立ち上がったままの老婆は、しわがれた声でけらけらと笑った。
「では最後の締めを始めましょう。底知れぬ海の奥に恐怖したな。未知なる儀式に恐怖したな。その恐怖を核として、ここはこれを以ってインスマスとする。ああ、父なる■■■と母なる■■■■に感謝し給え、ヒトよ」
老婆の声に共鳴して、大地が大きく鳴動した。洞窟の天井はぱらぱらと砂をこぼし、僕らは体勢を大きく崩した。炎の上に鎮座する像がかたかたかたと揺れると、燃え盛る炎に落下する。
老婆も突然の地震に耐えられず、地面に倒れていた。だが起き上がろうとする素振りも見せないまま、その目と口だけを動かす。
「血液と魔術を交換し、その純度を高める術式とな。ヒトが考えることは面白い。血を捨て、代わりにここの水を飲むことによって、深き海の底に都市の夢を見ることができるのだから」
けけけけけ、と老婆はまた笑う。
「崩れるぞ、おい朔馬早く!」
綿津見に引っ張られるようにして、僕は急いで洞窟から駆け出した。直後、轟音と共に崩落する。
**
洞窟内に生存者はいなかった。失意のうちに来た道をたどる僕たちであったが、唯一、海が荒れ狂っていることを除いて、道中には何の障害も無かった。民家の中の料理は完全に冷え切っており、もはやそれを食する者は帰らない。
禁書エリアに戻ってみると、そちらの方にはとある異変が生じていた。アネクメーネへ繋がる大扉は、さきほどの港町との接続をすっかり断ってしまっていたのだ。僕らはもう、直接あの場所へ赴くことはできないようだった。
「インスマスって、『覆う影』の、あのインスマス?」
こちら側に待機していた筈の遼や森賀さん達の姿は見えなかったが、彼らを探す気力は僕らには残っていなかった。唯一綿津見だけが、熱心に保管された文献を漁っている。ラヴクラフト全集や、ペリシテ人の神話に関する古い文献だ。
「クトゥルフ神話に登場する架空の地名。そこに住まう者は、歳をとるごとに半魚人のような見た目に変化していくという。父なるダゴンと母なるハイドラ、二柱の海の神を祀る呪われた町。俺はヒトが半魚人に変化するあの瞬間を見て、それを連想せざるを得なかった。みんなもそうだろう?」
半魚人のような見た目の人間を、それを揶揄する言葉として「インスマス面」というものがある。たしかに僕も、あの女子高生の姿を見た時、その言葉が頭に浮かんだのは事実だ。
だがインスマスは架空の神を祀る、架空の地名のはずだった。だがナイアルラは、それがあの町であると、そう宣言した。名付けたのは…………僕たち自身だ。僕たちがあの場所を訪れ、そこで恐怖し、まだ名前を持たなかった寂れた港町をインスマスと名付けたから------。
「僕たちはまんまと嵌められた…………のかもしれない」
それこそが、ナイアルラの目的だったのではないか。一瞬顔を上げた綿津見の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいた。僕の言葉に短く頷くと、袖で拭うことなくまた資料に目を戻す。
創作物に過ぎない筈の。小説家の与太話に過ぎない筈のかの神話が、着実に迫りくる足音が聞こえていた。




