怪奇の目撃
峰流馬遼は来た道を全速力で引き返し、再び学校に辿り着いた。今度は荷物を置いて身軽になった代わりに、万が一のことも考えて二本のペンをポケットに忍ばせている。彼が所持する二つの魔具だ。
「アネクメーネ行は綿津見たちに任せればいい。憂慮すべきは、こちらからさらに迷い込む可能性」
黒乃以下四名はおそらく学校から直接迷い込んだものと思われる。問題はその中に、異能力者でも魔術師でもない人間が混ざっていることだ。下手をすればもっと多くの人間が向こう側に行ってしまう可能性があるし、すでに迷い込んでいることだって有り得る。
「畜生、一体いつの間に……」
「なんだ峰流馬、忘れ物か?」
手掛かりを求めて校内をさまよう彼を呼ぶ声がする。振り返るとそこには、担任である新崎の姿があった。
「ああ……まあ、そんなとこです。それより先生、黒乃達が途中下校っていう話、一体何があったんですか?」
「途中下校? いや、そんなハズはない。今日は全員終礼後に帰宅している」
「いやでも確かにあの時------」
「まあ勘違いだろ。あ、それと教室には入れんぞ。どっかの馬鹿が机と椅子をバリケードみたいに積み上げたみたいで中に入れん。まだ崩せてないんだ。明日までにしないとなぁ」
「バリケード、か。中に誰か籠ってるんです?」
「いいや、それが無人のようなんだ。外から見ると窓が割れていたから、飛び降りて教室から出たのかもしれん。だが犯人をとっ捕まえようにも、防犯カメラには誰も映ってないし…………」
「…………難儀ですね」
「ほんとまったく、今日は学校中めちゃくちゃだな。俺は今日生徒のカウンセリングに忙しいんだよ。だってのに一階の手洗い場はぶっ壊れるし、美術室や家庭科室のカギが無くなってドアが開かないらしいし、そこにきてウチのクラスの机と椅子はバリケードみたいに積まれるし…………」
新崎とは別れることにした峰流馬は、まず一階へ向かった。破損したという手洗い場に辿り着くと、すでに野次馬はほとんど姿を消していた。怪我防止のため貼られたテープを躊躇なく潜り抜けると、間近で覗き込む。
破損個所はまるで大きく鋭利な刃物で切り付けられたような傷だった。だが彼はそこよりも、シンク内に落ちている、一本のボールペンに目を付ける。
「このペン……朔馬が持っているのと同じだ」
ちょうどその時、彼の携帯電話に着信が入る。すばやく人影のないところに移動した峰流馬は、周囲を確認しつつ電話を取った。綿津見からだった。
「ちょうどいいところにかけてきてくれた綿津見。伝えたいことが------」
「悪いが後にしてくれ。不測の事態が発生している。ここからじゃそっちのアネクメーネに介入できない」
「……は?」
「そのままの意味で捉えてくれ。おそらく移動先の深度がほぼゼロに近い浅さのため、そこがアネクメーネであると判断されない。遼、学校側から直接潜り込めないか? こっちは引き続き介入を試みる。……で、そちらの要件は」
「いや……そっちの仮説とほぼ一致する話だ。アネクメーネ内で起こったと思われる事象が、現実世界でもリンクするように発生していることを確認した。朔馬たち、マジで厄介な場所に迷い込んだらしい」
極限まで現実に近いアネクメーネは、裏世界でありながら現実との結びつきが極めて強いということだろうか。峰流馬は電話を切る。次に彼が向かったのは、管理棟にある職員室であった。新崎に、確認しておきたいことができたのだ。
**
理恵が二階に上がってきたため、理科室前でひとまず彼女と合流することができた。お互いが見てきたことを話し合うと、理恵は僕の仮説に賛同した。
「七色に阻まれた七つの怪談。このアネクメーネの核はおそらくこれで間違いないとして、問題は、朔馬の仮説が正しければ、一体どこに元凶が潜んでいるのか」
「あくまで仮説だ。正しいかどうか」
「正しいわよ。貴方たち、勘が良いのね」
僕らのものではない声が、突然僕らの会話を遮った。驚いてあたりを見回すが人影は無い。僕らは背中合わせになって警戒しながら、暗い廊下の奥に目を凝らした。
「ああ、違うわ。私はこっちよ」
女性の言葉が発せられるのと連動して、魔法陣の放つ光が波打っていることに気が付いた。目を向けると、再び言葉が発せられる。
「そうそう。うん。冴えてるね、キミ」
声の主はなんと魔法陣そのものだった。おそるおそる話しかけてみる。
「あの……貴女は?」
「ああそうか、君たちと顔を合わせるのは初めてだったね。私は黄泉、土御門家が次女だといえば、安倍晴明から聞いているかな?」
「なッ…………」
予想外の名乗りに、僕と理恵は驚きで顔を見合わせた。
「これはいきなり当たり引いたッ……?」
「黄泉さん、ここに囚われたんですか。待っててください、今助け出す方法を……」
誘拐されたという土御門家の跡取りたちを、やはりというべきか校内で発見した僕は、やや興奮気味に黄泉に話しかける。だが僕の言葉は、彼女自身の高笑いによってかき消された。
「はは、なにか勘違いしていないかい。私はここに囚われているわけではないよ」
「なにいってるんですか、現に貴女は今…………」
「待って朔馬、土御門黄泉は今、理科室の中にいるわけじゃない。そうよね?」
理恵が腕を上げて僕を制止すると、一歩前に出て魔法陣に話しかける。
「声は部屋の中からじゃなくて、魔法陣から直接聴こえるもの」
「……あら、貴女は白取家の------」
「ナイアルラが貴女をここに捕えて隠すつもりなら、内部から外側に干渉できるシステムを用意するハズがない。それにこの魔法陣が貴女の抵抗の結果なのだとしたら、魔法陣によって部屋を封鎖している事実とも矛盾する。答えなさい黄泉。貴女はそっちの側についたの?」
魔法陣は一瞬沈黙を持ったが、観念したのか、ゆっくりと話し出した。
「ええ、そうね。結果的にそういうことになった。私達はかの存在と契約を交わしたわ。ヒトを越えた存在との契約。神の魔術へ至る片道切符よ」
「一体どうしてです。相手はこの世界を滅茶苦茶にしようとしてる張本人ですよッ!」
「いいえ。かの神々は自由を望み、人類は秩序を求める。この二者は対立するものだとしても、善悪の判断は個人の感想でしょう。自由は悪。秩序は善と誰が決めたんですか?」
感情交じりに問いただした僕に、黄泉は落ち着いた様子で言い返す。言葉に詰まった僕に代わって、今度は理恵が話しかけた。
「どんな条件で契約を交わしたのかは知らないけど、ナイアルラは貴女達をきっと裏切るわよ」
「そうかもね。いや、きっとそうでしょう。でも、みすみす騙される私じゃない」
「どうして土御門家から黙って姿を消したんです。本家は上を下にの大騒ぎでしたよ」
理恵の言葉を受けて黄泉は、はははと乾いた笑い声を漏らす。
「……でもどうせ晴明様は泣いたりだとか、取り乱したりだとかはしてないでしょ」
「それは……」
「星詠みなんだから、ある程度の未来くらいは予測していたでしょうに。それでも前日までなんの干渉もしてこないんだから、あの人の底が知れる」
はぁ、とため息を漏らした魔法陣はゆっくりと輝きを失っていき、その形跡がかろうじて見えるほどになった。ノイズが混じるようになった音声で、黄泉は言葉を続けた。
「入りなさい。それ以外に貴方たちが取り得る選択肢は無いわ。後はあの見張りの騎士に切り刻まれて、死を迎えるかどちらかよ」
「…………信じろと?」
「勘違いしないでほしいのだけど、貴方たちがここに迷い込んだのはこちらの計画によるものではないわ。貴方たちが自分から勝手に迷い込んだのよ。ここでみすみす死なれてしまっては、誰の得にもなりはしない」
「…………それじゃ他の人たちも呼んでこないと」
「貴方たちがこの部屋に入りさえすれば、この世界は一旦現実と合流する。夜にはまた合流するだろうから、手早く逃げてしまいなさい。まあ厳密にはその前に一つ、プロセスがあるけど」
黄泉に急かされた僕たちは、結果彼女の言葉を信じることにした。僕らが縦に頷くのを確認すると、黄泉は嬉しそうに独り笑った。
「七分の一を引き当てたのが私だったのは、まさしく幸運だったわ。それに相手が君たちというのもね。それでは、どうぞ入り給え。そしてはじまりを目撃せよ」
彼女の意味深な言葉と共に、扉はひとりでに開かれた。理恵にばかり先を行かせるのも申し訳ないので、先行は僕がすることにする。一列になって、僕らは理科室に足を踏み入れた。
廊下には光が漏れていなかったのにもかかわらず、部屋には電気がついていた。細めた目の先あったのは、静かな教室の真ん中に佇んだ人体模型。
片側は筋肉。もう片側は臓器を説明するようにむき出しになった人体模型は、首をぎぎぎとぎこちなく動かしてこちらを向く。おそるおそる近づくと、勢いよく音をたてて扉は閉まり、僕らは理科室の中に閉じ込められる。
「びっくりした、心臓が止まるかと------」
前を向く。いつのまにかこちらをまっすぐと見つめていた人体模型は弾かれたように両腕を持ち上げると、こちらに向かってどたどたと駆け寄り------。
そして音もなく消えた。僕の身体に触れるか触れないかというところで人体模型は消え去り、目の前から姿を消したのだ。わずか数十秒間の出来事だった。理恵は幸運にも、僕の身体が邪魔になって、その一部始終を見ずに済んでいたよう。心配して僕の顔を覗き込む。
「朔馬…………どうしたの、何か見た?」
「うん。人間…………極限まで驚くと声って出ないんだな…………。黄泉、これは一体」
返事を待ったが、彼女の言葉が聞こえてくることはなかった。どうやら本当に、彼女はこの部屋の中にいるわけではないようだ。教室の空気は冷え切っている。誰か他の人間がいる気配はない。
さっそく動き出したいところではあるが、まだ心臓がバクバクしている。僕は後ずさって足から力なく崩れ落ちると、扉を背にするようにもたれかかった。ゆっくりと深呼吸して、平静を取り戻す。
「学校の、怪談、まじでこわいな……」
皮膚を求めて彷徨う人体模型じゃなかったのか。さまようどころか襲い掛かられたぞ。驚かす形のホラーは勘弁してほしい……。
**
「鍵が無くなったのは放送室、美術室、体育倉庫、家庭科室、それと理科室で全部ですね。発覚の経緯は」
「さっき生物部の生徒がやってきて、職員室の鍵棚に鍵が無いから教室が開けられないとか騒ぎ出してな。でもどうして解決に協力してくれるんだ? 鍵の紛失くらい、そう珍しいことでもないだろうに」
「いやまぁ、こっちの都合で」
峰流馬遼は担任の新崎と共に、管理棟の廊下を進む。時刻は夕暮れ。傾いた陽も落ちようかという頃、彼らは理科室の前に辿り着いた。
「電気が点いてる。電気代が勿体ないですね」
「まったくだ」
開かないと分かっていても、とりあえず開くか試してみるのが人間というもの。だが峰流馬が引き戸の取っ手にてをかけると、予想に反して扉は抵抗など一切なく、するすると開いていった。
「なんだ先生、開いてるじゃん…………ッて」
教室の中には二人の人影があった。二人とも目を丸くして、峰流馬たちを声もなく見つめている。新崎も首を覗き込み、二人に目を止めた。
「なんだ良須賀、黒乃、ここにいたのか。ん? 密室で男女が二人…………いやはや、何も言うまい」
「密室も何も、そもそも鍵がかかってなかったぞ。おい二人とも、ここで何してる。てっきり俺はその-------裏の方に行ったのかと」
良須賀と黒乃は目を見合わせると、一斉に大きなため息をついた。それは純粋な安堵からくるものであった。
「話せば、長くなるよ」