醒めてしまえば悪い夢
「ねえ良須賀さん」
突然、飯田さんが明るい声を上げた。先ほどまでの憔悴ぶりとは打って変わって、不自然なまでに落ち着きを取り戻した彼女は、にこやかに言葉を続けた。
「私、いつのまに寝ちゃったのかな。ちょっと考えてみたんだけど、やっぱりこれは夢なんだと思う」
「夢?」
「そう。だって冷静に考えて現実なわけないじゃない。学校の中に剣振り回した西洋の騎士みたいなやつに追いかけられるなんて、夢にしてもちょっと奇抜だけどね」
飯田さんは一人頷くと、なにやら呟きながら立ち上がり、僕たちのそばに歩み寄る。
「登場人物が黒乃と良須賀さんと森賀さんの三人だけっていうのも、うん、これもなかなか奇抜な組み合わせだけど、夢だと判れば納得ね。だって夢っていうのは中途半端にしかリアルじゃないんだもん」
「あー、飯田さん?」
「なによ黒乃。あ、さっきはありがとうね。でもせっかく夢の中なんだから、魔法とかそういう感じのカッコイイ撃退方法でも良かったのよ」
「は、はぁ……」
「まあ私の想像力が貧弱なのが問題なんだろうけど。魔法……魔法ねぇ……」
彼女は僕らの間に割って入ると、何見てたの、とずいっと窓の外に身を乗り出す。
「うわ、月大きいな~」
見て見て、となんだか楽しそうな飯田さんに森賀さんが相手をさせられている隙に、理恵は僕の服の袖をぐいと引っ張って距離をとる。そして飯田さん本人に聞こえないように、様子を伺いながら声を潜めた。
「都合がいいからこのままにしよう。あれこれ訊かれるより、夢だと割り切ってもらった方が何倍も楽」
「そうだね。手早く校内を見て回って、それからここから抜け出す方法を考えよう」
「アネクメーネの浮上は禁書架でも感知されているハズだから、増援来るまでここで耐えてもいいんだけど、他に巻き込まれた人もいるかもしれないし」
「おーい、二人ともなにコソコソしてるん?」
無邪気に手を振る飯田さんは底抜けに明るい。狼狽されるよりかは幾分かマシであるが、こうも明るすぎると逆に心配になってくる。突然の恐怖体験から、頭のネジがどこか外れてしまうなんてことは人間よくあることだ。彼女もそうなったのではないかと本気で心配になってしまったが、様子を見ている限りではどうやら本当に夢の中にいると思っているらしい。窓から飛び降りて空を飛びたい、なんて言い出すことはなかったのが不幸中の幸いといったところか。
「で、これからどうするよ。夢の中とはいえ剣でバッサリ斬られるのは嫌だから、あの甲冑には近寄りたくないんだけど」
「同感だ。ひとまず僕と理恵の二人で外を見回って、なにか手がかりを探してくるよ。森賀さんはここに残って、飯田さんを監視……じゃなくて待機しておくというのはどうだろう」
「賛成。そうと決まればさっさと行きましょう!」
理恵はわざとらしく大きめの声を出すと、森賀さんに目配せしながらさっそくバリケードの隙間を通りはじめた。飯田さんがなにか文句を言いだす前に、こちらの計画で動いてしまおうという魂胆だ。
「えー、私の夢なのに私が待機するの?」
「いいじゃないですか。ほら、ヒーローは遅れてやってくるものと言いますし。いえ、遅れてでもやってきたら拙いんですけど」
「そういえば私、森賀さんとちゃんと話すの久しぶりかも。前の学校の話とか聞いてもいい?」
「ええ、構いませんよ」
飯田さんの相手は森賀さんがうまく担ってくれたようだ。彼女は僕と目配せをすると、そのまま椅子を並べてなにやら話し込みはじめた。万が一怪異に襲われたとしても、森賀さんなら適切な判断をするだろう。彼女が丸腰であるのには変わりないが、飯田さんを独りにするよりマシだ。
「……なるべく急いで戻ってくる」
「できれば武器を探してきてくれると嬉しいです。私は人形か小動物でお願いします」
「僕は投擲できるもの、理恵は水源だよな。わかった。ではまた」
「じゃあ頑張ってきてね黒乃」
楽しそうに手を振る飯田さんだけが、ただ一人今の状況を理解していない。でもそれでいいのだ。理解なんてさせてはいけない。この世界は人間にとって、ただの悪い夢で終わらせるべきものなのだから。
僕は意を決すると、理恵の後を追ってバリケードの隙間を潜り抜け、扉を開けて廊下に踏み出した。
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「急いで見ていこう。もう手遅れかもしれないけど」
「そんな縁起でもないこと考えないの。各校舎は渡り廊下で繋がってるから、私は一階、朔馬はニ階を見ていきましょう。それと……」
「それと、何?」
「やっぱり、学校の怪談も確認していかない? 屋内にある奴だけでいいから」
理恵の目は至って真面目だった。見回るついでに調べておけるなら調べておきたいという彼女の意見には一理あった。
「一階が理恵でいいのか? だってこの下には……」
「たとえ斬られたって、私なら出血だって利用できる。大丈夫、まかせて」
彼女の気迫に圧されて、結局首を縦に振ることにした。
「……わかった。じゃあ理恵は女子トイレと放送室を頼む。僕は家庭科室と理科室、近いからあと美術室も行く。生存者を見つけたらどうする?」
「歩けるようだったらウチの教室に集めて。無理ならどこかの教室に隠れているように指示」
了解と短い言葉だけを交わすと、僕らは急ぎ足で散った。なんにせよ時間が惜しかった。校舎は表世界のものとまったく同じ構造のようで、ここがアネクメーネなのだとしても、その深度は前回街を取り込んだものと同様、そこまで深くはないようだ。
階段を駆け上がると、廊下を全速力で駆け抜ける。教室を通り過ぎるたび、横目で人の有無を確認していくが、いまのところ誰の姿も見当たらない。いままさに廊下を走っているという事実に、律義に一種の背徳感を感じている自分は、つくづくマジメな生徒なのだと思う。
高校三学年のフロアはまったくの無人であることを確認したところで、連絡通路をつたって中心部分の管理棟を先に確認することにした。授業中にトイレでも行っていない限り、授業相当時間中に廊下に出ている可能性があるのは移動教室の生徒か、もしくは業務中の教職員くらいのはずだ。アネクメーネに迷い込んでいる可能性だって十分にあると踏んだのだ。
管理棟に入ったとたん、どんよりとした空気が重苦しくのしかかってきた。廊下の電気はすべて消えていて、オレンジの夕陽だけが校舎内の光源となっている。
振り返ると、連絡通路の端のところまでは、蛍光灯は切れかかっているように明滅を繰り返している。静けさの中に響く自分の足音に怯えて、すこしかかとを浮かせて足音を減らした。
「落ち着け。大丈夫。いざとなったら教室に入ればいい」
冬だというのに頬を汗が伝う。生存者を探しに来たはいいものの、当の自分だって戦闘の手練れというわけでもないのだ。出しゃばったはいいものの、他のみんなの足を引っ張る事態は避けたい。
目を配る廊下や窓に血痕や裂傷は無い。無いということは、つまり好き勝手暴れ狂うような怪異はいないし、哀れな犠牲者もいまのところはいないのではないか。それだけで随分と気が楽になったが、だからといって気を抜くわけにもいかないのだが。
何故だかわからないが、普段閉まっているはずの扉も全て鍵がかかっていなかった。軋まないように気を付けながら一部屋ずつチェックしていくが、僕以外の人影は見当たらない。武器になるような小道具をいくつかポケットに忍ばせつつ、理恵との約束を果たすべく、家庭科室、理科室、美術室の三か所を目指すことにした。僕の記憶が正しければ、三部屋ともこの階にあるはずだ。
「なんだ、これ」
いままでは何も変化が無かった校舎だが、ここに来てようやく異変を目にした。
美術室の扉は封じられていた。絵に描いたような魔法陣があやしく黒く光り輝き、扉全体を覆っていたのだ。ためしに拾ったボールペンを投げつけてみると、ジュウと音をたててペンは融けた。直接手で触れない方がよさそうだ。
急いで他の部屋を確認してみると、家庭科室には赤い魔法陣が。そして理科室には黄色い魔法陣が行く手を阻んでいた。色とりどりの魔法陣、というところで僕の思考はある結論に行き着く。
「七色だ。土御門の七色」
消息を絶ったという七人は、もしかするとここにいるのかもしれない。だがもしこの仮説が本当なら、七人をさらった張本人も、同じくこの学校のどこかにいるということを意味するのではないだろうか。
「…………ナイアルラ、か」
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「なんなのよ、これ」
一方、甲冑から逃げた良須賀理恵も、女子トイレの入り口で佇んでいた。彼女の目の前にも魔法陣があり、まばゆい緑色の光をたたえていた。それは爽やかな緑ではなく、森林を思わせるような深緑であった。
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「は? ウチの学校にアネクメーネが浮上している、だと? ありえん」
下校すると迷わず図書館へ向かった彼は、不在であった佐口から連絡を受け取る。
「人の目が一定数ある空間でそんなことがあったら、認識の改変が行われてるはずだろう。誰も消えていないし、どこの教室も廊下も異常は無さそうだった」
「でも確かに浮上している筈なんだ。迷い込んだ生徒だっていてもおかしくない」
「有り得ないと思うが…………まあいい。理恵たちに確認してみる」
電話を切り、彼女たちの姿を探す。が、彼よりも早く途中下校したはずの良須賀、森賀、黒乃は、三人ともここにはいない。まさかと思ってそれぞれの実家に電話をかけたが、誰もまだ帰宅していないようであった。ある可能性が、彼の頭の中で導き出される。
「おい待て、まさかあいつらッ…………!」




