紫の空
本を手にした綿津見。それに遼、理恵とともに扉を開けると、そこに広がっていたのは図書室ではなく、紫の空が広がる街だった。その異様さは、異界と呼んでも差し支えないだろう。
まず目につく不自然は空だ。灰色の雲が広がり、真紅の月が空を彩っている。地上には住み慣れた町並みと同じものが広がっているが、建物やアスファルトなどの人工には爪痕のような傷が目立つ。
電線は千切れ、電柱も倒れたり、途中で千切れているものさえある。
この景色にどこか懐かしいものを感じつつも、日常の世界に混ざる異質さに不気味さを感じ、目を見開く。
「驚いたかい? 君は知らなかっただろうが、世界なんていうものは見方次第でどうにでも変わるものさ。非日常は日常のすぐ裏に」
横に並んだ綿津見は左手にバールのようなものを持っていた。
先端は尖ってはおらず、どう見ても『武器』として使えそうなものではない。
「これかい? これは武器じゃないよ。これ自体はね」
そう言って手の中でバールをくるくると回している。
理恵と遼は特に何も持っておらず、ポケットに手を突っ込んでいたり髪の毛をいじっていたり。
この状況を驚いている様子はない。
突如、上空を黒い影が覆った。
一瞬のうちに見えたのは、翼、角。そして翡翠のように輝く羽。
その『バケモノ』は、前方の3階建ほどのビルの屋上に着地してこちらを睨み、一声、鳴いた。
「ギャアアあアアあああ!!!!」
叫びとも、雄叫びとも似つかないその咆哮を聞いて、思わず身がすくむ。一体なんだ、なんなんだ、あれは。
その化け物は、鹿の様相を為していた。ただし、厳密に鹿というわけでもない。
まずその巨大さ。普通の鹿とは比べ物にならないほどの巨体は、その大きさからも圧倒的な威圧感を放っている。だが、異質さはそこだけではないのだ。その背中には緑に輝く翼が付いており、その体も翡翠のように輝いている。身体中を覆う羽毛、それ自体が翡翠色。
目は紅く、口の中からのぞかせる牙は血で赤く染まっている。口もとは笑っているかのように歪み、細長い舌が見え隠れする。
「ペリュトン−−−−−−朔馬君、名前を聞いたことは?」
綿津見が笑う。無い、と答えるとすぐさま、彼は当然だ、と返した。
「ボルヘス著『幻獣辞典』以外に詳しい記述は無いからな、知ってる方がおかしい。まあでも、知名度は低いとはいえ、記述があるなら立派な魔獣。ここはそういう世界だ。『幻獣辞典』は1959年の文献と比較的新しい部類だが、それによるとアレクサンドリア図書館の蔵書に起源を持ち、群をなしてローマ帝国を滅ぼすと予言されたとの記載がある。おおこわ」
魔獣、彼のその非現実的な言葉からも、身に迫ろうとしている危険を感じ取ることができた。
「朔馬、俺か理恵の後ろにいれば基本的には安全だ。下手に動くなよ」
そう言って前に出る遼。手には、胸ポケットから取り出した一本のペンが握られている。
「まああくまで、基本的にはだが」
ぽつ、ぽつ。ぽつり。雨、だ。
ざぁぁぁ、という音がアスファルトを撃つ。雨が降り出した。
「さて、朔馬クンの職業見学の始まりだ」
綿津見の声が、雨に吸い込まれる。
「では私が−−−−−−行きます」
そう言ってさらに前に踏み出した理恵が指を鳴らすと、足元の道路を満たしていた雨水が赤く染まった。
驚き、思わず足を上げる。
「これは、血−−−−−!?」
微弱ながらもねっとりとした感触が靴裏にへばりつく。
「ええ。あ、でも別にだれかが怪我をしているとはそういう訳では無くて」
そう言い放つ理恵の手に当たる雨水が、どんどんと赤く染まっていく。
ほう、と息を吐き、理恵はコートに血塗れの手を入れる。
ポケットからマッチを取り出し火をつけた理恵は、いつの間にか持っていた棒……いや線香のような細い棒にマッチを近づける。
雨が降っているにも関わらずなぜか線香の火は消えようとしない。煙が零れ落ちる。その様子を見かねた緑色の化け物が地面を蹴り、怒号とともにこちらに飛びかかってきた。敵は、待ってはくれない。
「理恵、危な−−−−−−−」
叫ぼうとした僕はすぐに口を閉ざした。その化け物は未だ突進しようと脚を動かしていたが、空中のある点から先は進んでいなかったからだ。まるでそこに、見えない壁でもあるかのように。そして、怪物が止まった理由は見えない壁ではないことはすぐにわかった。空中から巨大な手が伸び、怪物を押しとどめていたのだ。
やがて、何もない空中からもう一体、怪物が飛び出した。いや、ソレを『怪物』と呼ぶのにはふさわしくないのかもしれない。
その姿形は、人の血を吸う蚊を、何百倍、何千倍にも大きくしたような生き物だ。長く伸びた口と、二本のノコギリや6本の脚といった『蚊』の特徴を兼ね備えている。その点ではまさしくそれは虫。
だが、大きい。
大きさはある基準を超えると、それだけで化け物たる理由ことを、僕はこの時身をもって知ることになった。人間の脳の許容範囲は、驚くほど狭い。
その蚊は自分と同じほどの大きさの鹿の化け物を押し返し、そのままビルに向かって突き飛ばした。
ビルは大きな音をともに崩れ落ち、中から鹿の叫び声が聞こえる。蚊の化け物は羽をしまうと二本の脚で立ち、残りの四本の脚を腕のように操り、殴りかかろうとする。
だがペリュトンも負けていない。瓦礫を突き破って天高く舞い上がると、今度は急降下して蚊の化け物を踏みつけた。
蚊が悲鳴をあげ、体にできた深い傷から青緑色の液体がほとばしり、鹿に降りかかる。するとすぐさま理恵が倒れた蚊の元に駆け寄り、傷口に手を触れる。傷口はみるみるうちに癒えていった。
鹿はさらに雄叫びをあげると、体勢を立て直して掴みかかった蚊と空中でもつれ合う。理恵はといえば、元いた位置に歩いて戻ると、澄ました顔で戦況を見据えている。
「……なんなんだ、これは」
異形と異形が視界を埋め尽くす、この世のものとは思えない風景に僕は圧倒されていた。
「お答えしようか? 新入りクン」
綿津見が笑う。
「良須賀理恵。彼女がその身に宿す異能力は−−−−−−」
「私の話よ、自己紹介くらい自分でするって。私は触れた水を血液に、そして触れた血液を真水に変えることができる力があるの。それを《血掃き毒刷き》と呼ぶ」
綿津見の言葉を遮って、理恵はそう答える。
そう説明している間にも、地面のアスファルトを流れる雨は血へと、赤い液体に変わっていく。
「あれは私の異能力じゃない。私が所持を宣言するこの線香で呼び出された、この世ならざる存在よ」
そういって彼女が指差したのはあの蚊の化け物。緑に輝く鹿を一方的に攻撃している。空を飛び、尖った口で刺す。その行為に一分の躊躇も、容赦もない。
「吸血忌と呼んでるわ。鬼じゃなくて忌む方ね。吸血鬼伝説ってあるじゃない。あれの由来を蚊に求めた結果、人々が恐れた蚊の怪異よ。人間の悪意と想像力が産み出したモノ。血を捧げる限り、私はそれを使役できる」
そういって僕に先ほどの線香を見せる。雨に打たれているにも拘らず、その先端には火はついたままだ。
ズゥン、という重低音を伴う地響きとともに、地面に鹿が叩きつけられる。途中からは一方的な戦いだった。凶悪な角を携えた巨大な鹿は、だがしかし為す術もなく敗北する。身体中の切り傷から血がだくだくと流れ出て、翡翠色にきらめく体毛を赤黒く染め上げていく。
「魔を以って魔を制す。この世ならざる力を以って、この世ならざる脅威を制すのが、私たちに課せられた役目よ」
吸血忌。蚊の姿をした災厄が、血の雨に打たれる。