勇敢と無鉄砲
休日の学校の門はどこも閉まっていた。時間はもう夕暮れ近く。いつもと変わらず佇む門の前に立ってそこでようやく、ようやく僕は正気に返った。ここに来て僕はどうするつもりだったんだろうか。たとえばもし門が開いていて、どこかの教室にナイアルラがいたとして、それで、その後僕はどうするつもりだったのだろう。
「……朔馬、お前、せっかくの手帳を使いこなせてないな」
背後から遼の声がした。追いかけてきてくれていたようだ。彼に言われてそこでようやく、僕は自分の持つ手帳の意義を思い出した。ページを開くと、そこには何も書かれていない。今日のページは白紙のままだった。
「いてもたってもいられなくなって」
「だろうな。だが安倍晴明の言葉を思い出せよ。『為すべきことを為せ』だ。俺たちが為すべきは自殺行為なんかじゃない筈だ」
「うん、わかってる。でも……」
「わかってねェ、お前は一ミリも理解してねェんだよ朔馬!」
急に語気を強めた彼の声に驚き、僕はハッとして振り向く。
「そりゃさ」
彼の声はまた、普段のものに戻る。
「そりゃあ四回も時間遡行なんてしたら、感覚だってバグるんだろうさ。お前にとっちゃ何度も死んだハズの人間が生きて今ここにいるわけだし、命の重みに対する考えが高校生のそれからは逸脱しててもおかしくない。なんてったって、今までは追い詰められたらやり直せた。夢ん中で情報収集もできたし、それがどこか当たり前になってたんだろ」
「なって………ない」
「いいや、なってる。お前はこれ以上時間遡行を行えば、今まで溜め込んだ記憶と狂気に圧し潰されて壊れてしまうに違いない。もうやり直しは効かないんだよ。それに、記憶の送信も解除したんだろ。未来に何が起こるか判らない恐怖と引き換えに、新鮮な毎日を生きる選択をしたのはお前の自由だ。だがその分お前は、軽率な行動を戒めなけりゃならん」
「…………うん、ごめん」
「謝る相手は俺じゃないだろ。もう家に帰って頭を冷やしておけよ。ナイアルラ対策はこっちで話を進めておく」
遼は言いたいことを言い終わったようで、満足して歩き去ってしまった。校門前にはただ一人、呆然と立つことしかできない僕だけが佇んでいた。
------どうやらまだ僕は、主人公気取りのようだった。
ただただ自分が恥ずかしい。漫画やらアニメやらゲームやらの主人公はハチャメチャに好き勝手突っ走って、それでもキチンと主人公してるものなんだと勘違いしていた。違う。彼らは実力に裏打ちされているのだ。異能に振り回されるだけのただの高校生とは違って、主人公たる所以が用意されている。
「じゃあ僕は、どうすればいいんだよ」
今の僕には、何もない。
図書館へ行こうと一度は足が向いたのだが、未練が後ろ髪を引いて僕は学校を振り向いた。晴明の示した座標が正しければ、ナイアルラはたしかにここを訪れたのだ。数日後には僕を含む大勢の生徒が登校して、授業を聞いて友達と話す『日常』の象徴のようなこの場所が、今も彼の手によって歪められている------のかもしれないというのに、それでも僕には何もできない。僕に力が無いばっかりに。
「------お、黒乃」
名前を呼ばれた。振り向くと、道路を挟んで向こう側にクラスメイトの女子の一人が自転車を引いて通りかかっていた。学校を眺めて動こうとしない僕を偶然見つけて、声をかけてきたようだ。
「あ……飯田さん」
「さっきすごい不機嫌そうな峰流馬が歩いて行ったけど、喧嘩でもした? あ、あけましておめでとう」
「あけましておめでとう、今年もよろしく。いや別に、喧嘩したわけじゃないんだけど」
「あっそ。なら良いんだけど」
飯田さんの眼は僕を信じていないようだった。二車線分の距離をお互いに縮めようとしないまま、つかみどころのない会話を繰り返す。
「飯田さん、はどこに行くところだったの?」
心を見透かされている気がして、僕は急いで話題を変えた。彼女はごそごそと自転車のカゴに入れた手提げ袋に手を入れると、中から本を取り出した。表紙には色相環が描かれているのが見える。どうやら美術関係の本らしい。
「図書館に本を返しに行くの。閉まってるだろうから返却ポストに突っ込むけど。黒乃は?」
「散歩…………?」
「なんで疑問形なのよ」
「じゃあ散歩で」
「なるほど、言いたくないってわけね」
またもや僕らは無言になる。
「なんか聞くと長くなりそうだから聞かないでおくけど」
飯田さんは会話を切りあげることにしたようだ。自転車に跨るとハンドルを握りしめ、最後に一言付け加えた。
「ちゃんと相談できる相手に相談しなよ、峰流馬とかさ。はやく仲直りしなよ~」
「だから喧嘩してるわけじゃ……」
僕の弁明には耳を貸さず、彼女は宣言通り図書館の方角へ向かって自転車をこいで行ってしまった。すぐに角を曲がった彼女の姿は、すぐさま僕の視界から消えていった。
「朔馬さん」
話しかけるタイミングを見計らっていたようであった。振り向くと、今度は森賀さんの姿がそこにあった。彼女も僕の後を追いかけてきてくれていたようだった。
「理恵たちと買い物に行くんじゃなかったっけ。ついていかなくていいの?」
「魔具を回収した私は影伝いに移動できますから、多少寄り道しても合流できるんですよ。それより…………」
森賀さんはちらりと視線を逸らし、遼や飯田さんが去っていった道の奥を見つめながら口を開いた。
「遼の奴は怒ってませんよ。ただ貴方が心配なだけです」
「はいはい、どうせ僕は世話の焼けるガキですよ」
「なんでそういう返事になるんですか。誰もそうは言ってないでしょう。さっきから朔馬さん、何かヘンですよ」
「何かって、何」
「なんというか、意味もなく卑屈になってるというか。感情の制御が下手です。私の《理性》を切り離して譲渡しましょうか?」
「要らないよ……」
僕は顔を背けて歩き出した。後ろから、森賀さんがついてくる足音は聞こえない。
「いいですか、朔馬さん」
彼女は数歩後ろで僕をまっすぐと見据えたまま、真剣なまなざしで口を開いた。
「こういう仕事をやってると猶更ですが、自分自身の醜い部分を直視しないといけない場面には今後も何度も遭遇することになるでしょう。だからこれはこの世界を生きる先輩として伝えておいてあげますが------」
森賀さんの肩にカラスがとまる。その目は赤く、そして僕を感情なく見定める。
「それを乗り越えるのは、各々が独りですべき範疇です。いつまでもうじうじしているだけで、いつか周りが手を差し伸ばしてくれると思っているなら勘違いも甚だしいです。私達は寄り添うことはできても、手取り足取り面倒を見てあげられるわけじゃない」
森賀さんはそこまで言い終わると、返事を待つかのようにその場に立って僕の目を見つめていた。彼女の言葉の刺々しさの裏にはなにか意図があるようだった。僕が何か言い返そうと口を開いたその瞬間、森賀さんはもう一言付け加えた。
「貴方にも思うことはあるでしょう。気持ちの整理がついていないのも当然です。なんといっても貴方はまだ、この世界に浸ってから日が浅い」
森賀さんは一歩僕へ近づいた。動きと共にカラスはばさばさと羽音を立て、どこか遠くへ飛んで行ってしまった。
「ワクワクするような非日常を一度見てしまうと、日常が途端色褪せてしまうのも理解できる。温度差で風邪をひくような感覚。アドレナリンまみれの非日常に戻ってしまいたいと、そう」
「そんなこと思ってない」
「いいえ、誰だってそう思うの。私だって、制服着て高校に通うより、アネクメーネで怪異を狩っているときの方が何倍も生きてるって感じがするもの」
そう言うと、彼女は自分の足元から伸びる影を指さす。指示に従って目をやると、彼女の右手には鎌が携えられていた。ハッと彼女の本体を見るが、その手には何も握られていなかった。もう一度影に目を戻すと、そこにもやはり何も無い。
「でも私達は、あの世界を忌避しないといけないの。深夜の路地裏は行き止まりであるべきだし、怪異はおとぎ噺から外に飛び出してきちゃいけない。好奇心を満たすものを手放しに良いものだと捉えるのは、愚か者がすることよ」
「愚か者って……」
「愚か者よ。遼も私も、これまでそういう人たちを数えきれないほど見てきた。貴方にはそうなってほしくないのよ。私達はみんなにちやほやされる世界のヒーローになんてなってはいけない。わかるでしょ?」
僕は言葉を発することができず、代わりに首を縦に振ることで意思表示とした。わかっているとも。僕が感じた一種のワクワクの裏側では、僕以外の誰かが死んでいるのだから。僕は僕が異能力者であることを、そして好奇心から足を踏み入れたことを呪わなければならないのだと、僕はようやく認めなければならなかった。
「…………でもね朔馬さん。私達は驕ってはいけないけど卑屈になってもいけないのよ。私達のエゴのせいで失ったモノも山のようにあるけれど、守ることができたモノだって、それはそれで山のようにあるんだから」
森賀さんはそう言い放つと、すとんと落ちるように自らの影の中に融けて消えていった。慌てて辺りを見渡したが、ちょうど路地には通行人の姿はなく、彼女の行為は新たな怪談とならずに済んだようだった。
さて、ほっと胸をなでおろす僕の頭には、さっきまでそこにいた飯田さんの顔が思い浮かんでいた。もし彼女が今の場面を目撃していたら、転校生は人間じゃないなんて騒ぎ出すんだろうなんて思うと、なんだか可笑しく思えてくるのだ。