スポイト
落ちながら身体がぐるぐると回転した感覚はあったのだが、幸いにして頭から落下することは防げた。だがなんとか両脚で着地し、ほっと一息目を開けた瞬間には、既に四方から銃口を突き付けられていた。到着した僕らを出迎えるように銃火器を手にし、ビジネススーツを着たガタイの良い男たちが強面を崩さないまま口を開く。
「ご用件は」
「……綿津見真司だ。〈守り手〉ら以下九名、召喚に応じ馳せ参じた。呼びつけたのはそちらだろう、銃を下ろしてくれ」
「失礼しました、綿津見様。晴明様がお待ちです」
銃口が退けられ、スーツの男たちはさっと二列に並んで道を作る。僕らはおそるおそる会釈すると、重厚な造りの扉に向かった。凝った意匠が施されているが、何の模様かはわからない。
綿津見が勢いよく扉を開くと、そのすぐ奥にもう一層ふすまがあった。そのまま取っ手に手をかけようとすると、まるで子供をしかりつけるような、女性の声が鳴り響く。
「待て。そう急くでない」
ハッと手を引き、綿津見はそのまま数歩後ずさる。
「霧隠と白取姉妹、それと野上だけ部屋に入ってくるがよろしい。その他には別室にて、担当の者が話をしよう」
「……こちらへどうぞ、綿津見様」
スーツの男たちの中から初老の男性が進み出ると、静かに声を上げた。綿津見はしばらくその男性とふすまの奥を交互に見ていたが、やがてため息をついて納得した。
「なるほど。話がしたいのは魔術師とだけッて訳だな。先に言ってくれればいいものを…………まあいい。じゃあ移動しようか」
綿津見に代わってヤイバと理恵、黒猫と森賀さんが前に進み出て、ふすまの前で膝を立てた。彼らは魔術の血を引く者。案内に従って別室へ向かう僕や綿津見やミツたちとは、一旦ここで別れることとなるようだ。
「…………おお、そういえばそうじゃ。黒乃朔馬、貴殿も入ってくると良い。別個に話がある」
と思った矢先、ふすまの奥の声が僕の名前を呼びつけた。
「え、ぼ、僕ですか?」
「私の横が空いてます。ほら座りなさいな」
森賀さんが手招きしてくれた。魔術師のみという話との矛盾に一瞬困惑したものの、素直に応じることにした。
「それじゃ朔馬、またあとでな」
遼と別れを告げた僕が彼女らを真似て片膝を立てると、ふすまはひとりでに動き出す。
**
ふすまの奥は宴会場のように広かった。縦長の部屋の奥の奥には豪華な椅子が置いてあり、そこに金髪の女性が座っている。かか、と笑って手招きする彼女に向かって、僕たちはゆっくりと部屋の中を進んだ。
彼女は少女のようだった。年齢で言うならば小学校高学年くらいだろうか。彼女は側近と思われる男性と会話していたが、僕たちが十分に近づいたことを確認すると、座りなおしてこちらを見据えた。
「わざわざ呼びつけてすまないな。遠方よりの来訪、心より感謝申し上げる」
少女の会釈に応じ、僕らも頭を下げる。返事をしたのは理恵だった。
「晴明様、お元気そうで何よりです」
「こらこら、思ってもないことを言わなくてもよろしい。社交辞令が性に合う訳でもないだろうに」
晴明の鋭い眼光が理恵を射抜いた。やっぱりバレてますよね、と理恵は気まずそうに呟く。
「敬意が無いわけじゃないんですけど…………」
「安心せい、それはわかっておる…………おや、そちらは霧隠か、大きゅうなったなァ」
「去年会ったばかりじゃないですか」
「そうじゃったな。いやはや、なにせ妾はそなたが赤ン坊の頃から知っているのでな」
懐から一枚の写真を取り出した晴明は、それをこちらへ投げてよこした。黒猫が空中で掴んだそこには、毛布にくるまれた赤ちゃんが写っている。
「なにこの子、可愛い~!」
「おい待てまさかこの写真ッ…………なんでアンタが俺の写真を持ってんだよ!」
「出産のときに自分で撮影したのじゃ。立ち会っていた」
「ちょ、ちょっと待って、晴明さん年いくつなんですか!?」
堪えきれず口を挟んだ。容姿はどう見ても僕よりも年下だ。でもヤイバの出産に立ち会っているというのは、つまり…………。
「生まれは明治時代じゃ。それ以上詳しく聞くのは野暮じゃぞ、黒乃殿」
人差し指を唇に当て、わざとらしく笑みを浮かべた晴明。理恵たちが写真でひとしきり騒いだころを見計らって、彼女はもう一度口を開いた。
「……さて、そろそろ本題に入ろう。時に霧隠、『伝令童子』という名前に心当たりはあるな?」
「軍服を着た少年のことでしょうか。俺たちはあの少年をナイアルラと呼んでいますが…………」
「呼び方なんぞどうでも良い。あの存在に定まった呼称も容姿も存在しない以上、細かなすり合わせを行う意味はないからな。そう、奴だ。奴の話をしたい」
晴明がぱんぱんと手を叩くと、先ほどまで控えていた側近の男が音もなく前に進み出る。執事服に身を包んだ彼は両眼に眼帯を巻いていたが、足取りは迷うことなく僕たちの方を向いて進み、やがて両腕に抱えたタブレット端末の画面をこちらに向けた。
「こちらをご覧ください。先日キョート市街で撮影された映像です」
画面を指し示す側近の男の声は、思ったよりも若かった。見上げるほどの身長からてっきり年上だと思っていたが、案外近い年齢なのかもしれない。そしてもう一点、僕は彼の声色にどこか聞き覚えがあるような気がしていた。
さて画面の映像はといえば、どこかの路地裏を映す防犯カメラの映像であった。頭上に設置されたカメラを見上げ、いわくありげな笑みを浮かべる一人の少年の姿。顔こそ暗くてよく見えないが、彼の服装には見覚えがあった。カーキ色単色の軍服。彼だ。彼はその視線をカメラに向けたまま、片足で勢いよく地面を踏みつける。ぐちゃぐちゃ、と猥雑な音が響くとともに、彼の足元で何かが飛び散った。
「これとほぼ同じ映像が、先月からキョート市街の全ての防犯カメラに、1時間に1分ずつ挿入されています」
「全て?」
「全てです。エレベータ内のカメラしかり、駅のホームに設置されたものしかり、公的私的問わず全ての映像記録媒体に」
「彼が踏みつけているのはなんだ?」
「解析にかけましたが詳細はわかりません。飛び散っている液体はどうやら血液のようですが…………。それにこの映像には、他にも不可解な点がいくつもあるのです」
その件は妾から話そう、と晴明がそこでようやく話を継いだ。側近の男は短く頷くと、一歩退いてタブレットの電源を切る。
「黒乃殿もいることだ、改めて前提から話すことにする。キョートは古来よりアネクメーネとの境界が薄い土地でな。そこかしこに怪異が蠢く奇異な街じゃ。ちょうどヨコハマの治安維持をお主ら〈守り手〉が請け負っているように、我らはキョートを監視下においている。怪異絡みでない限り原則介入はせんのが掟じゃが……」
「だがこれは間違いなく怪異案件だ」
ヤイバが口を開くと、晴明は静かに頷いた。
「そもそもこれら全てのカメラには、加工された痕跡はおろか介入された痕跡すら無い。つまり技術的観点から言えば、この映像は実際に撮影されたものということになるのじゃ。1時間のうち1分間だけ、カメラの前の空間はこの謎の路地裏に変化し、また何事もなかったかのように元の街に戻る。通行人は誰も気付いていない」
「アネクメーネに該当する路地裏は無いの? 比較的深度の浅い区域なら、こういう路地ありそうだけど……」
「いや、それは調べる必要は無い。なにせここ数か月、キョート内の境界は驚くほど安定している。アネクメーネの一時的な浮上も観測されず、街はどこも表世界のままじゃ。したがってカメラがアネクメーネを映し出すということはあり得ない」
「それってつまり……」
「そう。あの童子は表側に潜んでいる。そして街中を今も血の不浄で穢し続け、その様子をこちらに見せつけておるのじゃ。これは明らかに挑戦状。我らに対する宣戦布告じゃろて」
「あ、あの……。それで、僕らに協力しろっていうのは、具体的にはどういうことなんでしょうか」
僕らを襲ったナイアルラが、どうやら今度はキョートに移動したらしいということまでは把握した。だが地理的にも四百キロ以上離れた街にいる僕らが、具体的に何をすればいいというのだろう。僕がおそるおそる問いかけると、晴明はうむ、と頷いて話を続ける。
「この童子について更なる情報を蒐集すべく、誠に勝手ながらヨコハマへ使いを派遣させてもらった」
晴明がサッと手を振ると、先ほどの執事服の男性の身体は収縮し、変化し、しまいにはキツネの姿に変化した。
「ヨコハマではお世話になりました、黒乃様」
「あ、あの時の……。それで、なにか収穫はあったんですか」
稲荷神社で遭遇したあのキツネに違いなかった。彼の声に聞き覚えがあったのは、やはり気のせいではなかったのだ。
「あったとも、黒乃殿。童子の痕跡を辿った先で、ある奇妙な物品が回収された。現在魔術連盟に解析を依頼しているのじゃが…………」
突如、はるか頭上から受話器が降ってきた。ぎょっとして見上げると、はるか天井のタイルの一枚がずれ、その隙間から垂れ下がっているようだった。晴明はほぅと小さく呟き、受話器を手に取る。
「おや、噂をすれば連盟から内線じゃな。どれ、思ったより早く結果が出たか……」
『---ぎゃāああアアaaaああ嗚呼ああアアああああああああああアア』
その絶叫は、まさしく突然だった。
受話器の内側から張り裂けるような断末魔が、ノイズと共に部屋に充満する。スピーカー部分を耳元に当てていた晴明は、受話器を放り出しこそしなかったものの、一瞬にしてその顔色を青くした。
「…………は?」
『いや、いやだ来るな来るなァあああッ--------…………』
ぐしゃ、と何かがつぶれる音。ガシャンと何かが割れる音、バタバタと誰かが走る音、誰かの悲鳴、鳴り響く警報音。受話器の向こうから聞こえる音の全てが、まさしく地獄そのものだった。
「どうしたのじゃ、おい何が起こっている!」
晴明は受話器に向かって怒鳴り散らした。焦燥感に駆られる彼女の髪の毛は微かに波立ち、その黄金は次第にブロンズに変色する。
「おい、誰か返事せぬか!」
『あ、はい。申し申し、聞こえていますでしょうか?』
誰かが受話器を取ったようだ。その途端、あらゆる喧騒が止んだ。
「誰だ」
『やだなァ。さっきまで僕の話をしていた癖に…………おや、そちらに黒乃さんがいらっしゃるようですね』
「何故それを、お前まさか…………」
『替われ。極東の神になんぞ興味は無い』
晴明は目を見開いたまま、僕に受話器を差し出した。おそるおそる前に進み出て、受けとり、ゆっくりと耳に近付ける。
「…………もしもし」
『そういえば、貴方も名前に色が入っているんでしたね。これは面白いことになりそうだ』
「何の話をしているんだ。ナイアルラ、お前なんだろ」
『ご明察。さて、僕のスポイトは返してもらいました。これで計画の第二段階に進ませてもらう。ほら、また世界を救ってみなよ』
「計画って…………お前は何が狙いなんだ」
『何ってそりゃア、可愛いのは我が身なんですよ。それゆえ僕は、七つの色を塗り替る。白、青、赤、緑、黄、紫、そして黒』
ナイアルラが読み上げた七色は、いわゆる虹の七色とは異なるようであった。
『……ヒントは以上です。ではまた、星が正しい位置に就く時にお会いしましょう』
通話は一方的に切断された。つー、つー、と鳴るだけになった受話器から手を離すと、するするとコードが巻き取られ、天井に再度格納されていく。僕らの誰も、今起こったばかりの出来事に圧倒され、口を開けずにいた。ナイアルラの陰謀が、また動き出していることだけは事実だった。その他に関しては、断言するには情報が少なすぎる。
「晴明様!!!」
バン、と勢いよくふすまが開け放たれ、今度は外からスーツ姿の男が息を切らして入ってきた。
「ご報告申し上げます!」
男は走って部屋を突っ切ると、理恵たちの手前で止まると跪く。
「なんじゃもう、次から次へと…………」
「七分家より緊急通達。お世継ぎ七名、全員が行方不明とのことです!」
報告を受けたその瞬間、晴明の顔が更に蒼ざめる。その場にいた誰もが、その報告とナイアルラとを関連付けずにはいられなかった。