ツケの清算
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくね、朔馬」
年に一度だけ、誰もおはようを言わない日がやってきた。あくびをしながら向かった食卓には、彩り鮮やかなおせちと雑煮がずらりと並んでいる。今まで十数回繰り返してきた正月と同じだ。日常が、ようやく再び動き出すという確信を再認識した。
「……これを望んでいたんだ。その、筈だ」
「そうそう。今年は土御門のデパ地下で買ってきたやつだけど、思った以上に豪華だね」
母さんはおせちの話だと思っているようだ。会話は噛み合っていないのだが、どこか通じてしまっている。でも土御門デパートのおせちが美味しいのは確かだ。
「朔馬、学校いつからだっけ」
「たしか……四日からだったはず。三が日は休ませてくれるという優しい配慮に涙が出るね」
「冬休みの課題は?」
「ちょちょっとやれば終わる程度だよ」
自然と出たため息は思いのほか大きかった。何気ない会話を交わしながら、僕はどこかで昨日を懐かしんでいたのだ。
人間は誰しも非日常を待ち望む生き物なのだから。平凡な毎日に辟易し、何か特別なことが起こってはくれないかと無責任に祈る日々を送るのだから、それもある意味正常と言えるのかもしれない。だが僕に襲い掛かったのは自己嫌悪であり、それは存外大きかったのだ。そんなことを望んではならないはずだと、僕のささやかな良心が囁く。
「ねえ、母さん」
「なに」
黒豆を箸で摘まむのに苦戦して、母さんはこちらに目を向けることなく相槌を打つ。もちろん相談したところで、事情を把握しない母さんがなにか素敵なヒントをくれるとは考えていなかった。それでも、言葉にせずにはいられなかった。
「正しく生きるって、どういうことなのかな」
「どうしたの急に。大学は哲学科を専攻にするの?」
「そういう意味合いじゃない」
世界の滅亡なんて望んでいないと口では言いきれても、それでもあの喧騒は、僕にとっては心地よかった。非日常の世界は魅力的で、刺激的で、本来忌避すべきそれらに僕は惹かれたのだ。
だからあの時、僕はヤイバに責められて居心地悪く感じたのだ。たとえあらぬ疑いをかけられても、結果世界が救われたのならそれでいいと笑って受け流せなかった。僕はそこまでの聖人じゃなかった。
「こうするべきだってわかってて、そうしたいという感情はあるんだ。でもそれと反する感情もあって。そっちに従っちゃいけないってわかってるんだけど、その興味を捨て去ることができない」
今まで僕がやってきた行為がほんとうに、世界を守るなんて高尚な理由によるものだったのか判らない。あの状況を楽しんでいる自分は確かに存在したのだから。
「それは……禁止への興味とかではなく? 火遊びしちゃいけませんって言われて火遊びに興味を持つみたいな、カリギュラ効果のなれの果てみたいなものとは違うのかな」
「なんというか、そうではない……。仕事が無いのが一番良い筈のクレーム対応の席で、電話が鳴るのをどこかで望んでいるみたいな。電話が鳴れば、少なくともぼうっと天井を眺める作業からは脱却できるから」
電話は鳴らない方が良いに決まっている。でも永遠に鳴らない日々にも飽きてしまった。無為の時間から引きずり出され、あわただしく受話器を取る感覚を味わってしまったから、それは尚のことだった。
「……なんか難しい話っぽいから、この返事が答えになるのか分からないけど」
母さんは今度はお雑煮に苦戦していた。
「なかなか噛み切れない」
「唇で千切ろうとせずに、おとなしく歯を使ってくれ」
「なるほろね……で、さっきの話だけど」
今度はかまぼこをめくっている。敢えて目を合わせようとしないのは、深刻な印象を持たせまいと、僕に気を利かせてくれているつもりだろうか。あるいはただ不器用なだけか。
「……べつに願ったって何したって良いと思うよ。頭の中で何を考えていても、結果何を行動したかでしかヒトは評価されないし、評価できないんだから」
「それは、頭ではわかってる」
「なら良いじゃない。陽明学にのっとれば、行動した時点で良知は備わってるのよ」
母さんは箸で摘まんだかまぼこを、まだ口にせずにぼうっと眺めている。
「……そうでも考えなきゃ、人は簡単に、自分の良心に殺されるんだから」
その真剣な声色を感じ取り、僕は言葉に詰まる。返事ができず困っていたところに、ちょうどよく通知音が鳴ったのは幸運だったともいえる。画面に表示されたチャットは遼からのもので、極めて簡素なものだ。
『次の指示がある。今すぐ図書館に来てくれ』
少しの間返事に困り、既読を付けようか思案していると、続けてまた一言だけ送られてくる。それは明らかに僕の機嫌を意識したもので、お世辞にも自然なフォローとは言えないものだったのだが。
『誰もお前を責めていない』
母さんは夜まで仕事らしいので、夕方ごろに家に帰れば何も問題は無いだろう。一度逃げた場所にのこのこと戻るのは恥ずかしいが、逃げてばっかりもいられない。悪いことをなんてしていないと、堂々と胸を張っていればいい。
**
「あけまして……おめでとう……ございます」
扉を開けた瞬間にそんな決意は吹き飛んだ。昨日と同じく、集まったのは僕が最後のようだった。
「おめでとう」
「おめでとう」
遼の言う通り、誰の視線にも敵意は無かったし、声色だって普通のものだった。それでもよそよそしさを感じてしまったのは、きっと僕がひがんでしまっているからだ。ああもう、ここにきて自分の感情がうまくコントロールできないなんて。
「……正月早々集まってもらって申し訳ない。夕飯時までには済む用事だから、我慢して話を聞いてほしい」
「年末年始も働かせるとは、とんだブラック企業だな」
「はやく本題に入ってよね。私と澪と理恵はこれから、優雅にショッピングの予定なんだから。あ、森賀も来る?」
「行きませんよ……。で、綿津見その用事っていうのは……」
森賀さんはため息をついて話題を切り上げると、手際よく綿津見に会話のバトンを回す。正月早々呼び出され、早く終わらせてしまいたいのは誰も同じだというわけだ。
「ありがとう森賀。用事っていうのは、つまるところただの挨拶だ。ある場所まで行って、そこの一番偉い人にこう言ってきてほしいんだ。『了解した』と、ただ一言だけね」
綿津見が机の上から摘まみ上げたのは、時代劇に出てきそうな一枚の書状だった。
「ついでに詳しい状況を聞いてきてくれ。書状一枚じゃ情報不足なんだ」
そばにいた遼が受け取ると、慣れた手つきで文面に目を通す。そして彼は読み終わらないうちに、その顔を真っ青に染めていった。
「なあこれ……文字通りに受け取っても良い奴か?」
「おそらく。彼女らは強力な力を持っているにもかかわらず、カノンの一件に救援を送る素振りさえ見せてこなかった。それは保守派よろしく静観を決め込んでいたのではなく、また別の騒動に巻き込まれていたとこの書状は言っている。そして年賀状の代わりと言わんばかりに、騒動解決の協力を要請してきたわけってわけだ。本来なら律義に応じる義理は無いはずだが、ここの末尾に記されたある一文に、俺は引っかかった」
「それを送ってきた彼女らって?」
今更かもしれないが、僕は問うた。誰もそこを問わなかったから、訊くのは僕の役目であるように思ったのだ。綿津見は黙って頷くと、書状を遼から返してもらい、その末尾に記された花押をこちらへ向ける。
毛筆で丁寧に書かれたそれは、なんととてもなじみ深いものだった。生活の端から端に至るまで、僕らはそのマークの付いた商品に囲まれて暮らしているから当然だ。
「土御門グループ…………あ、あの大企業の!?」
「そう。かの土御門家だ。彼らの中枢は魔術の者。俺たちの側の、人間だよ。なァ花音」
「なんで私に話を振るんですか。日本の魔術師なら誰だって、土御門家とは多少のコネクションがあるでしょう。私たち野上家だけじゃない」
朝に食べたおせちが、胃の中でごろりと動いた。
「この書状の最後にはこう書かれている。読むぞ。『〈守り手〉が取り溢した伝令の童子が、我らが土御門家に振りかけたる火の粉、共に取り払わんことを願う』。俺たちが取り溢したっていう伝令の少年…………心当たり、あるよな?」
誰もその名を口に出さなかったが、すぐさま思考はある存在に辿り着いていた。ナイアルラだ。
**
「で、その対価ってのはなんなんだ。俺たちだって頑張っただろ。ぽっと湧いて出た弩級の災厄をなんとか抑え込んだんだから、褒められたって良いくらいなのに」
「ところがどっこい、連中はそうは考えていない。推定ナイアルラが土御門家になんらかの被害をもたらしたことに、取り逃した俺たちにも責任があると考えているということだ。それが単なる言いがかりなのか、本当に俺たちのミスなのかは判らん。だが確かめる必要はあるだろう。少なくとも、あの少年を野放しにするわけにはいかん」
「確かめるって、具体的に何をするのよ。土御門グループ系列のどっかのお店に行って、もしもし私こういう者ですがとでも言う訳? 私達ちょうどデパート行く予定だったから、そういうことで良いなら私たちで行くけど」
理恵はとんとんとつま先を地面に打ちつけている。今日のショッピングとやらがそんなに楽しみだったのか、綿津見の長い長い話を遮るように、少し苛立たし気にまくし立てた。まあまあ落ち着けと、綿津見は片手で彼女を制する。
「もちろん土御門グループの社員すべてが土御門家の人員ではない。判ってると思うが一応釘を刺しておくと、それはまるきり無意味だ。買った洋服へのクレームならそれで事足りるが、アネクメーネに関する話は土御門家の屋敷にまで持って行かにゃなるまい」
「その屋敷って何県にあるんですか? 年末年始の帰省ラッシュでどこにいくにも混雑してますよ」
「おや、そもそもの前提が違うぜ。土御門財閥は確かに彼女らの家に連なる組織だが、魔術師である彼女ら自身は表世界に一切接点を持とうとせず、よりにもよってアネクメーネに隠居を決め込んだ。どんなバケモノレベルの集団か、もうそれだけでわかるだろ?」
アネクメーネとは人類の居住不可能区域を表す言葉だと、どこかの授業で聞いたことがある。
「それが……土御門家」
「そう。平安時代から今日に至るまで、星だけを見続けてきた日本最大の魔術コミュニティだ」