勝手な凋落
我慢できなくなって、外の空気を吸ってくるとだけ告げて僕は図書館を飛び出した。行くあては当然ないのだが、ともかくあの場にいつづけることも出来なかった。どうせもう監視とやらは始まっているのだろうが、やましいことなど一つもないのだ。好きにすればいい。
だが単に、不満だった。
「アイツ、一体なんのつもりなんだ……?」
アイツとはもちろんナイアルラのことである。僕に疑いの目が向けられるような発言を残して姿を消した彼だが、その真意は依然掴めないままである。いま思えば彼が真っ先にコンタクトを取ったのは僕だったし、その後も事あるごとに僕を気にかけるようなそぶりを見せていた。わざと誤解を生ませているとしか思えない。ハッキリ言って、甚だ迷惑だ。
とはいえ行くあてがあるわけでもないので、ふらふらと街を歩く。喫茶店にも公園にも通りにも人影は少ない。そもそもこんな日に外出している人間がそもそも少ないのだ。歩けど歩けど街から疎外される。
いてもたってもいられなくなり、僕は道を外れて鳥居をくぐった。
たぶん名のある神社ではない。そこに鳥居があることくらいは知っていたが、それ以上のことは知らない。
そんな程度の認識だったが、あのまま白日にさらされるよりかは幾分かマシだった。狭い境内は全体が木陰になっていて、朱色に美しく塗られた鳥居が十本ほど続いた先には、こぢんまりとしたお社がちょこんと建っていた。
手水鉢もない、本当に小さなお社だったが、鳥居をくぐると空気が変わった。そこでようやく呼吸を整える。
突然、ザッと地面が擦れる音がして振り返る。誰かが背後に立ったのかと一瞬身構えたが、そこには誰もいなかった。代わりにそこには、一匹の狐がちょこんと座っていた。入り口に突っ立っている僕に、後ろがつっかえていると言わんばかりにニャーニャーと鳴いた。狐はコンコンと鳴くのではなかったか。
「……こんな都会に狐なんて、珍しい……」
しゃがみ込んで目線を合わせる。狐はにゃーにゃーきゃーきゃー騒ぎながらすたすたと歩き、お社の周りをどたどたと回っている。しきりに見上げている様子を見るに、どうやらお社に登りたいようだ。
「罰当たるかな……まあでも狐だし、ここお稲荷さんだしなあ……」
入り口脇にある狐の彫像をちらりと見やる。狐が神の使いなら、多少の無礼は許されるだろう。
「ほら来な、乗っけてやる」
僕は片手を伸ばして手招きする。狐はしばらく首をかしげていたが、意図を理解したのかこちらに歩み寄ってきた。
「おおよしよし、いい子だいい子だ」
野良猫を相手にする時のように、僕は狐を抱きかかえた。もふもふの毛玉が腕の中でぐるぐると動いている。かわいい。
両手を伸ばして社の屋根に乗せてあげようとしたが、狐は手の中で突然暴れだし、抵抗の意を見せた。どうやら屋根に上りたいのではないようだ。
「もう少し下です」
「あ、はい…………ッてお前今喋った!!??」
狐は何食わぬ顔で僕に鼻先を近づけると、つぶらな瞳をまっすぐに向けてくる。疲れが災いして幻聴を聞いたのではない限り、この狐はヒトの言葉を喋ったのだ。まさか、これがウワサの狐に化かされるとかいう……?
「社の上に登りたいのではなく、社の中に入りたいので」
「え……………………は、はい。わかりました……?」
狐はもう一度喋った。一度目も二度目も、懇切丁寧な口調で接してきたので、こちらも自然と丁寧口調になる。
腕を持っていく位置を変えた。狐を社の扉に掲げると、鍵が自然に外れて扉があく。奥にごちゃごちゃと詰め込まれているはずの神棚はそこにはなく、ただただ真っ暗な穴が空いているばかりだった。
「降ろして頂けると幸いです。ここから先は自力で帰れますので」
「え、あ、あの、はい……そうですか、それでは僕はこれで……?」
「はい。貴方の親切は好意的に報告させていただきます、黒乃朔馬様。それではまたいずれ、星が正しい位置に就くときに……」
狐を穴の淵にそっと着地させる。狐は丁寧にお辞儀をすると、扉の奥に繋がる暗い暗い穴に向かってまっすぐ飛び込んだ。狐の尻尾が完全に暗闇に飲み込まれるや否や扉はひとりでにぱたんと閉まり、また境内には静寂が戻る。
「なんでどいつもこいつも、僕の名前を知ってるんだよ……」
僕がこの神社に立ち寄ったのは、完全に僕の気まぐれによるものだった。その気まぐれの結果、しゃべる狐なんて怪異の類に------しかも僕の名前を知っている狐にだ!------遭遇してしまうなんて、いったいどんな確率だというのだろう。あの狐に害意は無いようであったが、彼との出会いは偶然だったのか、はたまた誰かが意図的に仕組んだのか、そこが僕は不安で仕方なかった。
…………だめだ。もし僕の行動が偶然ではないなんて発想をしてしまったら、僕は僕自身の自由意思にまで懐疑の念を抱かざるを得なくなってしまう。それぞ誰かに操られていて、僕は僕自身が気付かぬうちに、自由を取り上げられてしまっているような------。
「ナイアルラか……?」
かつてのカノンのように、僕は何かに乗っ取られていたりして------。
いや、それはさすがに穿った考えすぎるだろう。疑り深くなっているのはヤイバだけでなく、僕も一緒かもしれない。だが間違いなく縋りつくべきものを急速に失いつつあったのも確かだった。僕は頼みの綱といわんばかりに、ポケットを探って手帳を取り出した。もう次に何をするのか、それさえ自分では決められやしなかったのだ。
「教えてくれ。僕は次に、何をすればいい」
手帳はひとりでに僕の手から離れ、ぱらぱらと白紙のページがめくられていく。その後開かれたページの上部には今日の日付が記されている。そしてその下部には、僕が未来に影響を与える選択肢が刻まれている。
「………………何もなし、か」
そのページも、また白紙だったのだ。
それが意味するところはただ一つ。僕の行動は何の影響も及ぼさない。
昨日まで僕は英雄だった。少なくとも英雄気取りだったのは間違いない。退屈な日常から一変した世界を知って、一躍世界の主人公になったような気がしていたのだ。でも今の僕は、世界にも自分自身の人生にさえも影響を与えない。ただの一般人の、その中の一人に戻っていた。




