残ったもの
これは後から知ったことだが、アドゥムブラリという神話生物は少々特異な移動方法を持つらしい。というのも、彼らは水平方向にしか移動できず、地面に対して垂直な行動を取ることはできないのだ。それは彼らが二次元世界の住人だからだとされているが、実際のところはどうかわからない。というのも、僕らがアドゥムブラリと戦った時、彼はたしかに僕らの目の前に立ちはだかったからだ。それには高さがあった。その背には落ちる影があった。だから僕にとっては、それはまさに同じ次元の存在だった。
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「澪は周辺の工作と安全確認! 一般人への被害を絶対に出すなッ!!」
綿津見が声を張り上げ指示を出す。佐口さんはすぐに小さく頷くと、振り返って校舎に向かって駆け出した。彼女に気付いたアドゥムブラリは、その触手をコンクリートに叩きつけるように突き刺し、妨害を図った。鋭い先端部は地面にめり込み、直後、走る彼女の足元を追いかけるように幾つもの裂け目が生じた。
「避けろッ!」
「ちッ……」
走りながら首だけ振り返る彼女の片目が、もう一度燃え上がる。
「ここッ!」
佐口さんがぴたりと足を止める。彼女の周囲の裂け目から、黒い槍が突き上がったのはその直後だった。彼女を串刺しにせんと、数十本の鋭利な穂先は天高く夕陽に曝された。だが果たして、その中の一本たりとも、血で濡れることは無かった。攻撃範囲のかすかな余白を、彼女は見抜いていた。
「んじゃ、また後で!」
彼女はそのまま足を止めず、無事校舎内に消えていった。
「敗走者は許さない……と言いたいところですが、この学園の敷地内なら許しましょう。エリアを十分に確保してこそ、データは価値を持つ」
ナイアルラはそう呟くと空中を舞い上がり、校舎の屋上に腰かけた。帽子を手に取り、指でくるくると回して遊ぶその様子を見るに、戦いに関しては傍観を決め込むようだ。自分では直接手を出さず、あくまで手先の駒を用いる。彼がこの戦いに何を求めているかは僕の知るところではないが、彼が唯一、全体を俯瞰している存在であるのは間違いないだろう。
「朔馬、余所見厳禁!」
キィン、と金属が擦れる様な音が耳をつんざく。弾かれるように視線を前方に戻すと、アドゥムブラリが突き出した触手が、真っ赤な鎖によって絡め取られている所だった。穂先は前進を続けようともがき、鎖と擦れてぎちぎちと音を立てている。
「貸し一つよ」
理恵が手をくいっと捻ると、血液の鎖は蛇の様にのたうち、触手を取り囲みながら巻きついて本体へと迫る。だがアドゥムブラリの性質は実体の無い影。身体に巻き付こうとした鎖は、部分的な非物質化により束縛に失敗した。
「あァもう、ストレス溜まるわね……!」
理恵が苛立たしげに舌打ちをする。血液だって液状化と固体化を使い分けることで柔軟な動きを見せるが、概念であり完全に実体を持たない『影』には敵わない。相手がカノンであった時の様にはいかないのだ。影をまとう本体が物質であった彼女と違い、アドゥムブラリは存在自体が影そのもの。
「足元のコンクリで固めても逃げられるし、肺の中の空気を弄ろうにも、そもそもこいつに呼吸が有るのかすら不明だ。俺の異能だって大した役には立たない」
「俺なら概念の物質化は出来る。ただ、それを為すには至近まで近づく必要が有るし、そんな芸当はさっきみたいな時しか出来ない。同じ事二度やるか?」
敵さんが同じ罠にかかるとは思えないが、と遼が付け加える。疲れ切った彼らが新たな作戦を練るには、あまりに時間が切迫し過ぎている。ならば、僕がどうにか出来ないだろうか。時計を見る。腕時計は午後を指していた。
「なァ黒猫。ちょっと耳貸して」
僕は後ずさり、後方の黒猫に耳打ちする。
「ちょっとあンた等、話なんてしてる場合じゃ……」
理恵は文句を言いつつも、集中力を削いだ僕らをカバーしてくれた。その間に僕は、思いついた作戦を黒猫に伝える。
「……乗った。私はその作戦、勝算あると思う」
「危険だが、良いのか?」
作戦を立案した手前だが、彼女には多大なリスクを背負わせることになる。
「危険も何も、前回の私は君に賭けたのよ。私は私の決断を信じるわ」
黒猫は僕の躊躇いを吹き飛ばすかのように笑うと、返事を待たずに飛び上がった。その背中で蝙蝠の翼がはためき、黄昏時の空に浮かび上がる。
「動物の身体にはよく変えるケド、幻獣に変えるのは久々だにゃア」
アドゥムブラリはその姿をその目にとめると、忌々しげに吠える。黒猫に狙いを定め、鎌首をもたげる触手の先端は無数に枝分かれしていた。対称に絡みつき、血液を吸い取るのだろう。穂先が黒猫の方向を見定めると、糸は散開し、歪な花びらを描く。
「うっわ悪趣味。そんな小細工、当たるはずが無」
迫り来る触手を華麗に避けた黒猫だったが、刹那、二本目の触手の薙ぎ払いが胸部を直撃した。一本目は、二本目を視覚的に隠すためのデコイに過ぎなかったのだ。彼女の微かな慢心に非が有るのか否か、兎も角攻撃は確かに当たった。
「かはッ……い、痛ったぁ……」
黒猫が体をくねらせる。肺に損傷が入ったのか、血の混ざった短い嗚咽を吐き出す。
「黒猫ッ!」
遼がすぐさまライフルを構え、ノールックで引き金を引いた。弾丸は彼女に襲い掛かろうとした一本目の吸血触手に命中し、どす黒い体液が飛び散った。
「でも、これで計画通りなのよ」
彼女はしっかりと触手を掴むと、鋭い爪を突き立てる。不敵な黒猫の笑みは、みるみるうちに見覚えのある形に変わっていった。鰐だ。僕が彼女に打ち明けた作戦は、彼女にまず影鰐に変身してもらうことだ。
遼も異能を用いることで、実体を持たない概念への干渉は可能だが、それ自体は攻撃や防御といった行動を伴わない動作であり、非常に危険な行為だ。だが彼女が影鰐になるなら、攻撃してくる影ごと喰らいつくことができる。
頭を影鰐に変えた黒猫は、触手を噛み千切ろうと口を大きく開ける。その様子を捉え、攻撃を回避する為、アドゥムブラリは触手を影へと変化させる。非物質化により、物理的な攻撃は効果が無い。だがそれが、アドゥムブラリの誤算だった。
黒猫は勢い良く口を閉じた。彼女が変身した影鰐は伝承の通り影を喰らう。その特性上、牙は非物質化した影をも噛み砕く。受ける筈の無い物理的な痛みを伴ったアドゥムブラリは驚愕し、戸惑いとともにまたもや体液を撒き散らした。
「そうそう、そうよその顔よ。いい顔するじゃない?」
黒猫の顔が、瞬きのうちに元に戻る。彼女はアドゥムブラリをしっかりと見据えた後、飛翔して僕のそばに着地する。
「こんなもんで如何よ?」
つう、と口元から垂れる血を袖で拭い、黒猫が僕にニヤリと笑いかけた。同時に、僕たちの居る中庭が一斉に明るくなる。下校勧告の時刻、電灯の一斉点灯だ。
「……ありがとう黒猫。記憶の操作もできた?」
「うん、バッチリ」
僕は弓をかまえると、校内の電灯から、そして傾く夕陽から光が集まり始めた。アドゥムブラリが攻撃を予感し、移動しようと身じろぎをする。もし移動されたとしても必中は約束されているのだが、他の障害物に当たって威力が落ちるのは避けたい。
だが、その巨体は動かない。まるで器具で固定されたかの様に、アドゥムブラリはその座標を変えることは無かった。そしてそれは、僕の想定通り。黒猫が得意げに吐き捨てる。
「……アンタの記憶を捏造したわ。今その場所から移動しようとすると、さっきアタシに噛まれた痛みの記憶が、何倍にも誇張されてフラッシュバックするように設定した。たとえ移動する意志があったとしても、本能がそれを拒む。バケモノといえど、怖いって思えるでしょう」
アドゥムブラリは何度も移動を試みているが、まるで見えない壁に阻まれているかのように、一定の距離からこちらに来ようとしない。
「でもまだだ……まだ光が足りないっ……」
既に僕の右手の先には、少しずつ細い棒状の物が形成されつつある。だがしかし、アドゥムブラリを仕留めるには威力が足りない。
「まだ……あと少し……」
あたりの電灯が点滅を始める。電力の供給を上回る勢いで光を吸収しているからだろう。だが、それでもまだ足りないのだ。
「拙いぞ朔馬、雲が出てきた」
夕陽に雲がかかり、辺りが一気に暗くなる。焦って精製を急いだその時、バチンと何かが弾ける。
「フィラメントが、切れた……」
あたりは暗闇に包まれる。僕の手の中の光は既に矢のカタチを為しているものの、撃ち込むにはまだ不安がある大きさなのだ。
後ろの方でパチパチ、と何かが弾ける音がした後、綿津見の舌打ちが聞こえた。
「空気のプラズマ化じゃ十分な光源を供給できん。校舎の電気を点けるよう澪に指示を出したから、既読が付き次第追加の電力が供給される」
彼が言い終わるか終わらないかのうちに、廊下の一部で電気がついた。そのまま順番に校舎内に灯りがともり、次々に光が手元に集まってくる。
「いいぞ…………でも多分、まだ足りない」
一旦ここで矢を撃ち込んで、隙を作って校舎まで走るか、それとも再び夕陽が雲の隙間から顔をのぞかせるのを願って待つか。僕の頭はこの二択の間で揺れていた。最後の最後で躊躇する。どちらが正解かわからないのだ。胸ポケットの手帳を参照しようにも、今は両手が塞がっている!
「…………光をご所望かい? よろしい、ならば与えよう」
途端、視界が明るくなり、眩しさに思わず目をつぶった。薄目を開けて確認するが、電灯が復旧したわけではないようだった。その代わり、視界のいたる所で、なんと雷が迸っている。
「雷を自在に操るのは、やっぱり浪漫だろ。なあ、朔馬君」
声と共に足跡が近づいてくる。この声は。
「ヤイバ、無事だったのか!」
弓を引き絞る僕の横でヤイバが立ちどまると、左手をぽんと僕の肩に乗せる。彼に左手があることに気付いた僕は、驚きから指を離しそうになる。
「ヤイバ、う、腕は……!?」
「ああ、おかげさまで元通りだ。そろそろ追い付くはずだけど」
ヤイバがちらりと後ろを振り向くと、走って中庭に入ってくる人影が見えた。森賀さんだ。
「病み上がりが出す速度じゃないですよ。こっちは走りにくい服装なんですから」
「わざわざ和服なんかに着替えるからだろ」
「連盟のクローゼットには和服しか置いてないんですよ!」
ようやく立ち止まり、袖をまくって呼吸を整える森賀さんが、顔を上げて僕を見る。
「お待たせしました。これで全員、そろいました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。だがその目には、言葉以上の何かが籠っていた。それは多分、ようやくここまで漕ぎつけたという安堵であり、それを共有することの確認であるように思える。
「ははは、素晴らしいじゃないですか。良いですよ、面白くなってきました」
屋上でナイアルラが、手を叩いて無邪気に喜んでいる。余計な茶々だ。
「ほらほら、相手さんは準備が出来たようですよ。まったく、いつまで過去に囚われているんですか」
ナイアルラが冷たい視線とともに、アドゥムブラリに声をかける。するとその身体が少しずつもがき始めた。ナイアルラの機嫌を損なうと、過去のトラウマよりも多くの恐怖が与えられるとでも言わんばかりに、アドゥムブラリは理性で本能を無理やり押し潰す。
「うそ、動いた……」
アドゥムブラリはとうとう動き出した。小細工なしに、ただひたすらに転がって迫ってくる。足が止まっても身体は止まらないように。途中で息絶えても、そのまま転がって僕らを道連れにするためだろうか。どちらにせよ覚悟を決めたのだろう。
「じゃあ……受けて立とうか」
右手の矢が光り輝く。雷を纏った光の矢の感触をしっかりと指で確かめて、弓につがえた。ノーコンティニュー縛りの死にゲーで、やっとの思いで辿り着いた最終ボスに似ている。最後まで気を抜くな、ミスるな、落ち着いてやればできる。
「四度死んだ僕自身に捧げよう、この矢を外させ給うな異能力!」
一閃が頬をかすめ、輝きながら豪速で飛ぶ。影を貫き闇を祓い、その心の臓を穿たんと、金の弓から放たれた降魔の矢。
**
矢の直撃と同時に、理恵が血液で蜘蛛の巣状のネットを形成した。弾力を持った糸に絡められ、巨体は最後の一矢も報いることを阻まれたのだ。アドゥムブラリの減速を確認すると、理恵はネットを液化する。
「まったく、最後までヒヤヒヤものね」
触手は無防備に投げ出され、だらしなく開いた垂直方向の口は、その中心に空いた大穴によって奇怪な形に歪んでいた。さすがの生ける影でも、光そのものからはダメージを受けていた。
「おお……お見事です。満点ですよ朔馬さん」
静寂を破る声。僕らの最大の懸案事項、アドゥムブラリの生死が確認される前に、そんな結果など微塵も興味がないかのように這いよる混沌のものだった。腰掛けていた屋上から浮き上がり、アドゥムブラリの頭上にすぅと優雅に移動する。
「……さて、チャンスは二度与えません。次に課すのはペナルティです。貴方はもう我々の神話には相応しくない。その神性を、剥奪します」
ナイアルラがそう呟くと、空に浮く彼から伸びる長い影が蛇のようにうねり、アドゥムブラリの影に溶けるように混ざり合う。するとアドゥムブラリ自身の表面にも光沢が戻り、傷も癒えていった。折れていた何本もの牙も下から生え替わり、古いものがぼとぼとと落ちていく。
「ただの生物に成り下がるのも、存外悪くないかもしれないですよ。なにせ栄光たる神性と引き換えとはいえ、貴方は望み通り、やっと地に足がつく存在になるのですから。忘れられて消えてしまう恐怖に怯える必要はなく、独立した存在として生きていくのです。ただし------」
光矢の致命傷も影で埋め尽くされ、瞬時に修復される。半開きで虚ろを向いていた目は何度か瞬きすると、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
「それ以上でもそれ以下でもなく、可能性も未来すらもない肉塊として、ですがね」
吐き捨てるように言い放った彼の影は元に戻った。為すべきことは為したと言わんばかりに、彼は少しずつ自分の影に沈んでいく。足元からずぶずぶと、まるで地下へと続く沼地に飲み込まれるかのようだった。
「おい待て逃げる気か、腕の礼はキッチリ返させてもらうぞ!」
走り出したヤイバの手元に、一本の日本刀が呼び出される。霧隠家の所有する刀が一つ、鎌倉期から続く粟田口の品。藤四郎が鞘から引き抜かれた。
短い吐息と共に斬撃が飛ぶ。形容ではなく、彼の斬撃は衝撃波を生み出したのだ。対面した相手に斬る真似をするだけで肉を断ち、骨さえも蝕むとされる薙刀直し刀。不動明王の刻まれた、骨喰藤四郎の一閃。
斬撃は果たして、地に沈まんとするナイアルラの身体を確かに捉えた。首部に直撃し、柔肌に一筋の赤い線を引く。つう、と線から糸が垂れ、少年の首は横にぽろりと落ちた。そしてその頭を、彼は片手でしっかりと受け止める。
「はは、良い太刀筋です。貴方も十分に注視しておく必要があるようですね、紛い物の魔術師よ」
とぷん、と音無き音を立て、少年は生首を抱えたまま、頭のてっぺんまで沼に沈み込んだ。
「では次の仕込みがありますので、僕はこれで失礼しますよ。魂が再び、僕たちを導くその日まで……」
ナイアルラの声があたりに反響し、次第に遠ざかっていく。彼が退去を表明するのはこれで二度目だが、一度目で奇襲を受けたことが頭をよぎり、彼の言葉を完全に信じ切ることはできなかった。だがその潜伏を疑うより先に、視界の中で動くものがあった。アドゥムブラリだ。再びその身体を身じろぎさせ、眼球の全てがこちらを見据える。
「うそでしょ、三連戦はキツイ……」
「仕方ねえだろ、つまらん茶々はこれっきりにしてほしいが……」
「ロクに休憩もできてないし、これじゃジリ貧だっての!」
黒猫がかがむと、すんでのところで黒い槍が空を切った。さきほどまで胴体があった場所を目がけて、正確に射出されたジャベリン。背後の校舎の壁に突き刺さり、ぱらぱらと土を零した。
「仕方ない。ここは一時撤退して、体勢を立て直そうか………」
声を張り上げる。このままみんなを誘導して、一度仕切り直しを図ろうと思った、その瞬間だった。
「待って。大丈夫、活路は私が見出した!」
凛とした声が響く。女性の声、佐口さんだ。声の発生源は上だった。見上げると、先ほどまでナイアルラが居た屋上に、今度は彼女の姿が見えた。彼女は異能で燃え上がった片眼を通して、僕らがいる中庭を見下ろす。
「たった今、全ての役者がここに集ったの。今こそ全てを終わらせるときよ!」
彼女の言葉は僕らの耳に届いた。だがその意味するところが理解できない。
「何言ってるんだ?」
「わからん、ともかく合流して詳しく聞こう……」
再度ジャベリンが僕と綿津見を狙った。圧縮空気の壁はそれを寸前で受け止める。
「……おい、こりゃただの棘だぞ。影はどこ行った」
他方、叩きつけられた触手を寸前で避けた理恵は、肉断ち包丁でそれを両断する。
「およ、何か固いものに……」
のたうつ触手を押さえつけ、体液を浴びながら断面から何かを引き抜く。金属質のその加工物の正体は、はたして鎌であった。そして髑髏があしらわれたそれに、彼女は見覚えがあった。
「草薙剣かっての…………ほら森賀、あんたのでしょ!」
理恵は何度か柄を握りなおして感触を確かめると、森賀さんに向かって鎌を投げつける。その鋭利な刃は前進しながら回転し、森賀さんの背後に忍び寄っていた一本の触手に深々と突き刺さった。
「まったく荒っぽいんですから」
やれやれとため息をついた森賀さんは、後ろ手で鎌を引き抜いてもう一度切り刻む。
「そんなにこの魔具を乱暴に扱うのは、貴女とそれと、カノンだけ……」
そこで何かに気付いたのか、突然彼女はふふっ、と笑いはじめた。
「そうです、すっかり忘れていました。最後の一人は私じゃなかったのですね。ああもう聞こえているのでしょう。さっさと出てきなさい!!」
森賀さんは大きく鎌を振りかぶると、ちょうど背を向けていたアドゥムブラリに勢いよく投げつけた。その身体に深々と突き刺さった〈宵闇の嘆き〉の根元から、返り血の代わりに黒い水が飛び散った。
「癪ですが仕方ありません。森賀花音からカノンへ、魔具使用権を正式に貸与します。持っていきなさいこの泥棒が!」
彼女の怒声に呼応するかのように、アドゥムブラリの背部が弾け飛んだ。バン、と醜い音を立て、肉片がそこかしこに散らばる。そしてその爆発の中心から、ゆっくりとなにかが身体をおこした。永い眠りにつくはずだったところを無理やりに起こされて、それは怨嗟を喉に溜めて絶叫する。
「この身体、返してもらうッッッッ!!」
決意を震わせるような力強い声が響いたかと思うと、アドゥムブラリは体勢を崩して倒れ伏した。ずぅん、と重い音を立て、触手の根元、背中が露わになる。そこにあったのは奇妙な異物------いや。外見通りそれはヒトの上半身------それも、カノンの上半身だ。アドゥムブラリの傷口からカノンが上体を起こしている……というよりも、むしろ身体が変身する前の人形の姿に戻ろうとしている様に。蠢く触手のうちの数本が、カノンの元に集まり、彼女の身体が再生成されている。
血塗れでボロボロの制服を身に纏い、その長い髪を振り乱して、かの人形は叫ぶ。
「気持ち悪い気持ち悪いああ気持ち悪いッ。はやく出ていけ異物風情がッッ! 影ひとつ、残さずにッ!!」
カノンは突き刺さった鎌を引き抜くと、何度も何度も体表に突き刺し、そのたびに黒い体液が彼女の頬を濡らす。刃物で接合部分を削り取って、アドゥムブラリから無理やり分離しようとしているかのようだった。
痛みに耐えかねたアドゥムブラリが触手を伸ばし、自らの背中に発生した異物を串刺しにせんと迫る。だがその槍の全てが、隆起したコンクリートに阻まれ、空中で完全に固定された。
「おっと危ないな、見てられん」
綿津見が指を振ると、カノンの身体にコンクリートの薄い鎧が纏わりつく。
「これは餞別だ」
彼女の上半身が灰色の鎧で覆われていく間にも、アドゥムブラリの背中はねじれ、今度はカノンの下半身が徐々に形成されていく。触手の何本かが懲りずに攻撃を仕掛けたが、鎧がその薙ぎを全ていなす。
「……感謝、するわ」
ぽつりと呟き、目元にかかった飛沫を拭うカノン。その姿、その声は間違いなく、彼女自身のものだった。
カノンはいなくなったはずであった。彼女の存在はアドゥムブラリなる別の存在に上書きされ、彼女自身は跡形もなく消え去ってしまったかのように見えたのだ。だが現実はそうではなかった。アドゥムブラリはカノンを完全に乗っ取ったわけではなかったのだ。
アドゥムブラリが神性を失った時、彼は地に足のついた存在になったとナイアルラは言っていた。その意味が今になってようやくわかる。ただの生物に成り下がったアドゥムブラリは、信仰や存在認知によって左右される神性特有の不安定さを失い、その存在概念が強化されたのだ。そしてその時に強化されたものの中には、その核となったカノンの残滓さえも含まれていた。
「ちゃんと私に返すのよ。譲渡じゃなくて貸与なのよドール18!」
森賀さんが声を張り上げると、それを見下ろすカノンは、心底可笑しそうに腹を抱えて笑い出した。
「ははは、笑いものね。まだオリジナルはドール云々言ってるのかしら。 私は私よ、貴女じゃないの。たとえ出自が貴女でも、たとえ私の存在起源が異能と魔術の合成人形の紛い物でも、私という存在は無二の唯物なのよッ。この身体は、この意志はッ!」
負けじとアドゥムブラリが咆哮し、反撃する。鋭利な触手がカノンの右腹部を穿ち、肉を抉って風穴を開けた。
「ッッこのッ、痛みは!」
だがカノンは怯まない。大きく振り上げた<宵闇の嘆き>を、真っ直ぐに巨体に突き立てた。影を操る魔性の鎌が、生ける影と正面からぶつかり合う。
アドゥムブラリとカノン。存在基盤を同一とする二人のうち、一方のみの生しか許されることはない。お互い仮初めの命であり、生存権を譲る義理などどこにもないのだ。ただ衝動のままに、己が生のみを渇望する。
「私だけのモノなのよ、この……化け物がッ……!」
血を吐き出すカノン。<宵闇の嘆き>の斬れ味は魔性のもの。たとえ相手が怪異や神話生物であろうとも、その身に致命傷を刻む死神の鎌だ。だが、アドゥムブラリはまだ耐えている。それはかつて神であった名残であるのか、単なる意地によるものか。
「不死殺しッ、いるんでしょうが!」
絶叫に近いカノンの声が響き渡る。彼女は僕と同じだ。僕と同じように、四度この世界を繰り返してきた。僕らの仲間に関することなら、彼女は痛いほどよく知っている。
「なんのための不死殺しよ、さっさとこいつに引導渡しなさい!」
彼女は僕を見ていた。僕は彼女を見ていた。手帳を確認するまでもなく、それが最後のピースだという事を直感していた。
言われるままにミツが投げたのは魔具、<アダマンの湾曲刀>。その切っ先は、不死を殺すという矛盾を解決する。
短剣は正確な軌道を描いてアドゥムブラリに突き刺さる。死という概念が付与されたその瞬間、黒い巨体は負荷に耐え切れずに四散した。
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「良い気味ね……最後に残ったのは、やっぱり私よ」
僕らは集まって、地面に倒れ込んだカノンを見下ろしていた。地面には黒い液体がそこら中に飛び散っており、カノンはその中でも特に大きな水溜まりに、大の字になって寝転がっている。
「でも、結局私まで死ぬんだから、がんばって倒した、意味なんて、無かったのかも」
黒い水にどんどんと朱が混じっている。穴の開いた彼女の腹部から、とめどなく血が溢れ続けているのだ。駆け寄ろうとした理恵を、震える腕を上げて制止するカノン。力なく腕を下ろし、言葉を続ける。
「治りません、助かりません、修復不可能です。そうでしょう、野上花音」
一歩前に歩みより、しゃがみ込んでカノンの腹部をなでた森賀さんは、無言で頷いた。
「カノン、貴女の記憶データの同期が停止しています。このままだと貴女という個は、私という中枢に記憶されないまま消えてしまうことになる」
「それで、良いのよ」
「なに意地張ってるんですか。早くしないと貴女は永久にッ……」
「無理よ、私に混沌が這い寄ったあの日から、私はずっと孤独なの」
佐口さんが階段を駆け下り、校舎から飛び出してきた。中庭に、全員が集合する。
「被害者面するつもりは毛頭ありませんが、同時に謝罪をするつもりもありません。私は私自身で、それでも私の自由を謳歌する選択を取ったのですから。私の、私の……」
血が僕の靴に当たる。彼女は死の寸前になってようやく、混沌から来る悪意から解放されたのだ。
「もう喋らなくて良いよ」
「あら、朔馬さん、優しいのですね。私は今まで、何度も貴方を殺そうとしてきたというのに。無言で突っ立ってるお仲間さん方なんて、全員一回ずつはこの手で殺めたし、ルルイエだって浮上を実行したし……」
「全部阻止したよ。ルルイエも浮上しない。今回はアネクメーネが街をまるごと呑み込んだりもしない。そういう明日を迎えるんだ。だからといって君がしたことが許されるわけじゃないが、それを咎められる人間はいないんだ」
「訂正、します。残酷なのね、朔馬さん」
「君が負けただけだよ、カノン」
「それでも、それでも私は、それじゃあ何も残せないじゃないッ……」
感極まって彼女がむせると、口からも血が溢れ出す。僕は気が付くと、しゃがみ込んで彼女の手を握りしめていた。どうしてそうしようと思ったのかはわからない。彼女は完全な被害者ではないし、さっき言った通り彼女がしてきたことは、到底許されるものでもないのだから。でもどうしてだろう、何故だかお腹がじんわりと痛い。胸も痛い。頭が痛い。
繰り返したこの2日間を、何度も何度も思い返しながら、僕は妙な事を口走っていた。
「僕は君を忘れない。死ぬまで、ずっと、いつまでも」
タールのようなアドゥムブラリの体液と、カノンの鮮やかな血の海に、僕の目から涙が落ちる。ヒトのカタチをした災厄は、少し驚いた様な顔をした後、静かに笑って、そのまま動かなくなった。
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僕らの長い2日は漸く、リセットされずに次の朝日を迎えるに至った。あの時僕が彼女に抱いていた感情は恋愛感情ではなかったが、それでもあの喪失感は、失恋と形容するのが無難なのかもしれない。
今のところは。




