危機への警鐘
「そう、暗闇ね」
同調する理恵。
「でもね朔馬、それは電気がついてないからよ」
パチッという音とともに電気がついた。
電気をつけた理恵の口元が少し緩んでいる。いやに臭い言葉を嘲笑気味に受け流され、僕は顔が赤くなるのを感じる。非日常へ一歩踏み込んだはずが、ここはまだまだ俗世のうちだ。それにしても恥ずかしい。穴があったら入りたい、とはまさにこの事だろう。
気を取り直して辺りを見回す。閉ざされていた扉の奥の部屋は一見して、典型的なオフィスのような印象を受けた。仕事用のデスクが並べられた無機質な部屋を、所々に置かれた観葉植物だけが彩っている。入り口が取り付けられている壁と真向いの壁にはもうひとつ扉があり、さらに奥にも空間が続いているようだ。
だが、歩き回りながら注意深く観察していると、違和感を覚えるところを二点、容易に見つけることが出来た。
一つ目は、書庫スペースがあることだ。机が並べられているスペースから少し離れた位置に、大量の棚が並んでおり、その中には本がギッシリと詰まっている。さっと目を通しただけだが、どれも、タイトルすら見たことも聞いたこともないような、古めかしい本ばかりだ。
二つ目。並んだ机のほとんどに、本が1冊ずつ乗っている。僕は近くに歩み寄り、その題名を覗き込んだ。装丁に年季が入ったものが多く、題名すら何語で書かれてあるかもわからない。近くにあった一冊の本に手を伸ばそうとすると、突然、理恵が鋭い声で制止した。
「そっちには触れちゃダメ。盗難対策の呪いがかけてある」
『呪い』という聴き慣れない単語が耳に飛び込み、僕はすぐさま手を引っ込めた。
「ここは一体何の部屋なんだよ。呪いって……」
「順番に説明しよう。丁度良い、お前が触れようとした本、触らないように気を付けて、よく観察してみろ」
遼に促されて、僕は今度は顔だけ近づけて観察してみた。本は閉じて置かれているため、見える部分のほとんどは革製の装丁だ。表紙に刻まれた文字は読めない。
さらに深く観察していくと、その革は乱雑に作られてあるのがわかった。毛のようなものがところどころ付着したままだ。
「それは〈水神クタアト〉。内容の異端さもさることながら、特徴的なのはその装丁だ。現存する三部には記述内容に違いはあれど、その装丁の材質だけは共通している」
「牛とか?」
「いいや、ヒトだ」
ヒト。ヒトの皮。その言葉を聞いた瞬間、僕は思わず大きくのけぞった。煌々と輝き心を落ち着かせてくれるはずの蛍光灯が、無機質な光によって逆に不気味さに拍車をかけている。
「一つ目の質問に答えよう。呪いとは、それは言葉通り呪詛のことだ。貴重な本だからな。保険のためにかけておくのがセオリーだ」
「何言ってるのか…………全然わからない」
思考が追いつかないのは僕だけじゃない筈だ。推測するに、遼と僕では、そもそも前提となる知識ラインが異なっている。彼はそう、中心となる情報を意図的に隠しているのだ。
「わからない、か。それは朔馬の質問の仕方が悪いからだ。自分が何を理解していなくて、自分が何を知りたいのか冷静に把握しなければ、有効な情報は手に入らない。いつも言ってるだろう」
遼はいつもこうだ。簡単に何かを教えてくれることはない。勉強の質問をする時もそう。質問に対してのみ返答を送ってきて、追加の情報はその都度質問にしなければ手に入らない。おかげで僕は、自分の無知を自覚する訓練を否応なしに積まされていた。
「……遼、ここは何のために作られた?」
それは良い質問だ、と彼は嬉しそうに手を叩いた。
「これでおそらく、ある程度の前提が理解できるはずだ。答えよう。ここは拠点だ。俺たちの平穏な日常に侵食する非日常と戦い、それらを遠ざけるため、俺たちはここに集っている」
理恵の顔を見る。彼女の顔も真剣で、遼の言葉に頷き、僕をまっすぐ見つめている。
「朔馬、〈クタアト〉を見てみて」
言われるがままに机の上を見る。だがしかし、そこには先ほどまであった人皮装丁の本はどこにも無かった。僕は驚いて机を手で叩く。無い。無い。どこにも無い。
「こっちだよこっち。そうか、君が件の操り人形か」
新たな声が僕を呼ぶ。声の先を見やると、先ほどまで誰もいなかったはずの来客用の椅子に、見知らぬ男性が座っていた。そして彼が掲げた手の中には、先ほどの人皮の本、〈水神クタアト〉が収まっていた。
「まぁ座ってくれ。ほら、理恵と遼も」
彼に促され、僕たちは空いた残りの椅子に腰掛ける。正面に座る彼は、僕を品定めするように見回すと、隣に座った遼に話しかけた。
「この子が例の『夢の子』かい?」
遼は頷くと、僕に向かって頭を下げた。
「すまない朔馬、お前が夢の話を広めたがらないのは承知の上だったが、綿津見達とは共有させてもらった」
「ああ……構わないとも。遼が考えなしに行動するとは思えないし、何か理由があるんだろう?」
僕は遼に頭を上げるよう促すと、綿津見と呼ばれた男に向き直った。年齢は二十代後半、といったところだろうか。
「はじめまして、黒乃朔馬と申します。遼と理恵の友人です」
「おや、丁寧にどうもありがとう朔馬君。それに君は……うん、遼をよく信頼していると見える。良いね、過度の友情は学生の特権だ。大事にし給え」
「どうも……?」
「綿津見真司だ。綿津見と呼んでくれ」
「いえ、呼び捨てはちょっと……」
「いいや構わんさ。どうせ本名じゃない」
僕が怪訝な顔になったのを、彼は見逃さなかった。慌てて補足を付ける。
「ああ、名前の話もしないといけないのか。新入りは久しぶりだから、どうやら情報開示の順番を忘れてしまっているようだ。近々マニュアルでも作ろうかと思っている。じゃないと頭が混乱するだろう?」
ただでさえややこしいもの、と理恵が口を開いた。
「まずは私たちの仕事を説明しないと。一番理解しにくい話だけど、それが全ての前提じゃない」
難しいけど、頑張って理解してね、と理恵が僕の肩を叩いた。その動作も、僕が知る学校での理恵の姿と全く同じだというのに、彼女がこの意味不明な状況を理解している側の人間だということを知った瞬間、一気に距離を感じてしまった。
「君は知らなければならない事情がある。君がこの世界に足を踏み入れるのか、君の意思はその後で問おう。だがまずは−−−−−−」
ジリリリリリリリリ、と彼の言葉を遮るように、大音量のアラームが部屋に鳴り響いた。見回すと、奥の扉の上部に設置されたランプが点滅している。綿津見はため息をつくと、手に持った本の表紙を指で弾く。アラームは止まった。
「丁度いい、実際に見てもらったほうが説明が楽だ。朔馬君、俺たちについてきてくれないか?」
そう言って彼は立ち上がる。理恵と遼も腰を上げた。そして彼らは続々と、奥の扉の前に並び始める。
「百聞は一見に如かず、というだろう」