確固たる存在の下で
「野上花音として、君と話すのは……い、いつぶりだろうな。前回の、総会以来かな?」
ごそごそと腕の山を掻き分ける森賀には目を向けず、もうそこにはない腕だけを見つめてヤイバは話しかける。
「……ええ、地下一階の純喫茶で食事を摂ったきりですね。あの時はごちそうになりまして」
連盟本部の地下には世界各国のあらゆる飲食店が並ぶ食堂街がある。一年前、連盟の次期当主が集められた総会が終了した後、そこの一画にある喫茶店に立ち寄った野上は、総会には出席していなかった筈の彼に出会ったのだ。
「野上のご令嬢が、その名を名乗りたがらないというのは今でも正直驚いているけどね。君の家は現代にいたるまでその名を馳せる立派な老舗人形店だろう。家の歴史そのものだって相当古い。イマドキの女子高生は、名家のお嬢様なんて称号はお気に召さないのかい?」
「ヒトひとりの身で背負いきれるものには限界があるのですよ。裁縫の腕が私より上手の者なんて家の中には溢れるほどいますし、下手に社長令嬢だなんて名乗ってしまった暁には、プライべートの対人関係まで苦労することになります。偏見に塗れた学生生活なんて御免ですよ。土御門家の紅碧姉妹なんて、同い年とは思えない気苦労ぶりですよ」
「それでも野上家当代には君が推薦されたのは事実だろう。それにはそれなりの理由があるはずだ。君が本家の長女だからかい? それともやっぱり、君も魔術師でありながら異能使いだから……」
野上はぴたりと手を止めると、じろりとヤイバを睨んで言葉を遮った。その目線は無言を携えながらも威圧を放っている。
「あぁ……すまない。不躾だったな」
「家の話は極めてプライヴェートな問題だということは貴方も判っている筈です。心に土足で踏み入るのは……」
「わかったわかった。俺が悪かった」
彼女はまだ怒っているようだった。むすっと表情を曇らせて、ヤイバには顔を向けようとしない。しばらく、二人の間に無言の時間が流れていった。
「なぁ野上」
「なんです」
「腕がさ、俺の腕がさ……」
「私の義肢で代用します。治癒魔術により傷口は今のところ塞がっていますから、心配することは……」
「違う、違うんだよ。腕、無くなっちゃったのに痛いんだよ。左の腕が、すっごく痛いんだ」
野上はかける言葉が見つからなかった。彼女はその痛みに対してなにもしてあげられない。だから逃げるように、彼女は話題を元の軸に戻した。
「……総会に出ていた霧隠家の当主代理、あの少女は誰ですか?」
露骨な話題転換に驚いたのか、ヤイバはその視線を腕から外し、ぼんやりと野上を見つめた。彼の注意が移ったことを確認すると、彼女はさらに言葉を続けた。
「あの総会で、彼女は私と黒猫の二人に執拗に視線を向けていました。あの子と貴方は、どういったご関係で?」
あんな年端も行かない少女が次期当主なのですかと問うた野上に、ヤイバはため息をつくと、力なく呵呵と笑い声をあげた。
「君もなかなか土足で踏み荒らすじゃないか」
「お互い様ですよ」
「あれはだな……俺の、妹だ。元の名前をサヤというが、今は当代の霧隠才蔵を継ぎ、その名を名乗っている」
刃に鞘。霧隠家のイミナは刀に関する名前らしい。
「俺の家はな、最も優れた者が才蔵の名を継ぐんだ。ほら、霧隠才蔵は創作された忍術使いだろう。でも俺の家は霧隠を名乗るんだ。そのコンプレックスみたいなものが、より本物に近い霧隠才蔵の完成を切望させる。俺はそういう家に生まれた。一族は常に競い合い、いがみ合い、場合によっちゃ殺し合う。家というより一種の共同体だ」
野上は黙って聞いていた。針の付け根を咥え、スライドさせて糸全体に少し唾液を含ませる。ほのかに糸が発光し始めたのを確認すると、選んだ腕を彼の関節にあてがう。
「……これから本格的に処置を開始するわ。動かないでよ」
「わかってるって」
ヤイバは顔をしかめたが、渋々口を閉じた。針を通して糸が傷口で擦れるたび、纏っていた光が溶けていく様な錯覚を彼は覚えていた。その度、彼の痛みは少しずつ和らいでいく。
「話、続きをしても良いか?」
「貴方がしたければ、どうぞ構いませんよ。私は縫い合わせていますから、口は動かしても身体は動かさないでくださいね」
人には、どうしようもなく誰かに話を聞いてほしい時がある。彼にとっては今がその時なのかもしれない、と野上は思う。だから余計な口は突っ込まず、彼女は言葉を促した。
「俺はそんな家が嫌いだった。家という一文字に凝縮するには、抱いた願いは大きすぎたんだよな。忍術を魔術の域まで高めた他の家は、やれ服部、やれ猿飛と有名どころばかり。片やこちらは誇張されたキャラクターなんだから、劣等感が募って当然だ」
野上の記憶の中では、彼はいつも自身が魔術使いであることを誇りに思っていた。異能を持たないことを自虐気味に話すことはあれど、魔術と禁書の二つを操る者として、彼は率先して霧隠の名を口にしていたのだ。だがその態度の裏に、引き剥がしたくても剥がせないコインの裏面のように、劣等感までもが棲みついていたことは野上を驚かせた。彼女はその色をおくびにも出さずに、黙々と作業を進める。
「でも、俺が産まれたときには既に、俺のイミナはキリガクレだった。家の中で居場所を持つには、霧隠才蔵として求められることに結果を出し続けるしかない。一番以外は有象無象なんだ。俺は俺自身を見てもらうために、ひたすら自己を殺すしかなかった。そんな毎日に、たぶん疲れちゃったんだな。俺は逃げた。で、俺の妹は逃げなかった」
「…………皮肉ね。逃げた貴方はヤイバと呼ばれ、妹さんは誰からもサヤと呼ばれないなんて」
「だろ。馬鹿馬鹿しいよな、魔術って。オンリーワンを求めた者はその名を捨てなきゃならん」
「そうね、私も…………」
何かを言いかけた野上だったが、すぐさまその唇を固く閉ざした。言葉にするにはまだ早すぎる何かが、彼女の中を渦巻いては消えていったのだ。彼女の記憶と感情が、ごちゃまぜになって煮詰まる。
『御前は異能を持つている。それのみを以って特別なのだ』
『異能じゃなくて、私を見てよ』
『御前の異能は……』
『わたしを』
『魔術の腕は程々だが、貴女の異能は、それだけは正当な評価に……』
『異能持ちだからって調子に乗って……』
野上は少しずつ現実に意識を戻す。彼女にも事情は違えど、似た方向性の悩みがあった。
「……いえ、なんでもありません。個が圧し潰されてしまうのは、どんな時でも辛いものですね」
「……そうだな。だからこそ俺は、ミツや朔馬君みたいな、異能という自分の個性を憎んでしまうヒトを放っておけないのかもしれない」
「異能なんて持っても良いこと無いですよ。カミから一方的に押し付けられる、ある種の呪いみたいなものです」
「そうかい、それでも俺は羨ましいんだよ。ないものねだりをしてしまうのが、悲しき人の性って奴なのかもしれん」
ヤイバはため息をつき、視線を床に落とす。
「……なぁ野上。俺、また刀を握れるのかな」
「もちろんです。そのために、私はここにいるんですから」
「それじゃあ。またあの少年と対峙するときは、次こそあいつに負けなくてすむのかな」
「次は…………」
野上ははたとその腕を止めた。そして針糸を器用に結んで切ると、ヤイバの目をまっすぐと見て、こう続ける。
「次は全員で向かい合いましょう。貴方はもう、ここでは独りじゃないんだから」
**
「た、多少予定と違うが、構わず手はず通りに進めよう。では……武運を」
綿津見の号令を合図に、黒猫が空高く飛び上がった。背中に巨大なコウモリの翼を生やし、月光の元に影を落とす。
良須賀の足元でも血液に変わった水面が泡立つと、大きな腕が川辺にせり出した。血液の波から顔を覗かせる、巨大な頭部は虫のそれだ。吸血忌が翅を振るわせて飛び立つのを確認すると、彼女は足元から二本の大槍を引きずり出した。血液を凝固して作られたそれらのうち、一本は上空の黒猫の手元へと射出され、黒猫はそれを両手で掴み取った。
そして、射出されたもう一本は、吸血忌の腹部を貫通した。それはちょうど、その六本の脚がアドゥムブラリの蠢く体躯を鷲掴みにするのと同時だった。突き刺さった槍には良須賀の手元へと伸びるチューブが繋がっており、その中へ、過剰な量の血液が送り込まれる。
「Bang!!」
理恵が指鉄砲を撃つと、吸血忌の身体が急激に膨張し、四散した。至近距離で破裂した血液風船はアドゥムブラリの身体をすべて血で濡らすと、次の瞬間には体のパーツが繋ぎ合わされて元のカタチに戻る。吸血忌は生物のカタチをとってはいるものの生物ではない。魔具の産物であるそれは言わば概念の一種であり、それに死という属性が付与されることは無い。
「綿津見ィ、準備できたよ」
「……はいよッ」
綿津見は今度は良須賀から合図を受け取ると、アドゥムブラリの体表を隙間なく覆う血液を全て凝固させる。多少粘り気が纏わりついていただけだったその身体は、一瞬で巨大なオブジェとなった。
「スロープに誘導は無しだ。このまま一気に押し切るぞ!」
峰流馬が覗き込むライフルが、その照準を合わせる。途端オブジェの一部が崩れ、自由になった触手が一本、高速で接近して峰流馬の狙撃位置に迫った。だがその切っ先が彼の身体を貫く前に、急降下した黒猫が槍を突き刺して彼を守った。仲間を信じていたのか、微動だにしなかった彼は呼吸を止め、引き金にかけた指に力を籠める。
軽快な発砲音と共に放たれた弾丸は、血液の装甲に唯一空いたさきほどの穴めがけて螺旋を描く。未知の物質で構成された体内組織を破壊しながら減速し、貫通する事なく体内に留まった綿津見お手製の弾丸は、次の瞬間気体へと変化した。体積が千倍近く膨れ上がると、身体の内部から修復不可能な風穴を開ける。
**
重力に引っ張られる。
「ッて……おおおお落ちてる落ちてる落ちてる落ちてる!!!」
視界は大きく開け、ただ荒野が目に映る。かつてヴリトラに遭遇したあの荒野だ。そしてここが、ナイアルラと初めて出会った荒野であることに気付き、奇妙な因果を感じずにはいられなかった。
幸いにもナイアルラを足止めした後、すぐに僕らはまばゆい月光に包まれ、月に辿り着くことができた。だが僕の五感が外界を感知したときは、すでに僕らは月面上にはいなかった。月はあくまで中継地点、というデケムの言葉はまさしく真だったのだ。僕らは気付かぬうちに中継を終え、今まさに、綿津見たちの元に向かって落ちている。
「あれは……何と戦っているんだ?」
激しい風圧に煽られながら、スカイダイビング中の僕たちは不可思議な物体を視界に収めた。真っ赤な巨大なバケモノが触手を四方に伸ばしているが、その姿は彫像のように動かない。
「新手の怪異かな。さすがにこの不幸は私の所為じゃ……」
「判ってる。誰も君の所為になんかしていないって」
僕らが話しているその間に、まず銃声が鳴り響いた。それに気を取られているうちに、今後は視覚的な変化も起こった。その弾丸が着弾したのであろう箇所に、目を見張るほどの風穴が空いたのだ。一瞬のうちに、化け物の質量が半分ほどになる。
「ミツ、これ着地どうする?」
「どうするもなにも、何かしないと私たちペチャンコ」
「そ、それじゃ僕が……」
空中で互いの腕を掴み合ったことを確認する。二点設定、軸を仮固定。とりあえず減速減速減速!!
「……追いつかれた」
ミツの言葉が僕の背中を逆なでする。つられて彼女の視線の先を追うと、黒色の階段が天空はるか高くから降りてきているのが見える。そしてその一段一段をゆっくりと踏みしめる人影も、月光を背にして際立って見える。
僕は背中の弓に手をかけ、空中で弦を引く。すぐさま数本の矢がナイアルラめがけて放たれた。だがそれらは影の階段こそ破壊したものの、少年自身を捉えることは無かった。
「ちッ……」
こちらから攻撃が届かなかったとはいえ、向こうから攻撃をしかけてくる気配はないのが不幸中の幸いといったところか。僕らは足をくじかないように注意しながら、ゆっくりと荒野に降り立った。すぐさま綿津見と理恵が、落下地点に駆け寄ってくる。
「やぁ二人とも。状況は?」
「順調よ。カノンに巧く致命傷を負わせることができた。このまま全員で押し切れば……」
「そっちはどうだ、朔馬君。弓は入手できたようだが、ヤイバの姿が見えないぞ」
「ああ、実は……」
僕とミツが言葉を濁しつつも情報を共有しようとしたまさにその時、あたりに轟音が鳴り響いた。同時に発生した地響きに足をとられて姿勢を崩す。
「な、なにが起こってッ------」
「拙い、避けろッ!」
声に突き動かされ、わけも判らないまま僕らは散らばった。直後に地面を薙ぎ払った漆黒の炎は僕らのいた地点を焼き払うと、そのまま巨大な深紅のオブジェの周りに群がった。
「怪我はないか?」
駆け寄ってきたのは遼だ。どうやら先ほどの警告も彼のものだったらしい。
「僕は大丈夫、ちょっと脚を擦りむいただけ」
「私たちを狙ったものじゃないみたい。それよりさっきから気になってたんだけど、あのオブジェは?」
黒い炎は残り火をあたりにまき散らしながら、ひたすらに怪物のオブジェを焼き払っていた。その赤色が少し濁るたび、炎はその勢いを増していく。
「あれは……カノンだ。かつて俺たちがそう呼んでいた存在のなれの果て。奴は自分自身をアドゥムブラリと、そう名乗っていた」
「おい遼。あの炎、血液の氷を融かしてる」
炎に煽られ、赤い雫が流れ始める。鉄の匂いが籠った蒸気が、あたりにまき散らされていくのだ。綿津見が気体化した血液の再凝固を試みたが、炎はそれを上回る速度で溶かしていく一方。
「全く、無様な姿を晒すんじゃありませんよアドゥムブラリ。貴方はもうすこし出来る仔でしょう」
少年の声がした。見上げると、炎に包まれたオブジェの頂上にナイアルラが腰かけていた。彼は興味深げにこちらを見下ろしながら、ときおりくるくると指でかき混ぜる仕草をする。すると炎もそれに合わせて、ごうごうと渦を巻いた。
「あああああああついあついあついあつい熱いィィぃいいい」
途端アドゥムブラリがその身体をよじらせる。氷の束縛から解放され、自由になった口は今度は苦痛を主張し始めたのだ。そしてその声色は、間違いなくカノンのものだった。
「……おいあの子供、アドゥムブラリの仲間じゃないのか?」
「わからない。でも敵は敵よ、間違いない」
はじめてナイアルラと出会った綿津見が述べた疑問に、ミツがこたえる。
「何故?」
「……あいつ、ヤイバの片腕の仇よ」
「なるほど……理解した」
「おや、たかが腕の一本や二本や三本や四本。失ったくらいでピーピー喚いて見苦しいですよ下等生物」
ナイアルラはせせら笑うと、ふとまじめな顔に戻って足元の怪物を見下ろした。
「貴方もです。たかが肉体の破損でギャーギャーみっともない。大人げない。ああ、僕は失望しましたよ」
氷が完全に融けきると、炎は一瞬にして姿を消した。べたついた身体のバケモノはそのバランスを崩すと倒れ、上に乗っていたナイアルラも落下する。
「チャンスは一回だけだ。朔馬さん以外は確実に殺せ。猫は特に、念入りに切り刻めよ」
怪物の身体からもう一度炎が上がった。だがその炎は身体を焼き払うことなく、むしろ身体に空いた穴を塞いでいく。傷はどんどんと癒えていき、力なく投げ出された触手は活力を取り戻してうねりはじめる。
「あああああア嗚呼熱い熱い熱い熱い熱い、ナイアルラお前一体何のつもり……だ……ッ!?」
「煩いなァ。これで少しくらいは存在が強化されたでしょうが。有り体に言えばパワーアップだ。さあ、今こそ僕たちの悲願を成就するとき」
ナイアルラが指をパチンと鳴らすと、一瞬にして荒野の景色がぶれ、変化する。ここはレンガ造りの建物に囲まれた広場だ。黄昏時の空はオレンジに輝き、日没間近の陽光は深く長い影を落としている。どことなく見覚えのある景色であり、僕はすぐにここがどこだか理解した。
ここは僕の学校、その中庭。帰って来た。帰って来させられたのだ。そして目の前には変わらず異形のバケモノと、不気味な少年の姿がある。平凡な筈の日常の中に、僕たちは異物と一緒に無理やり混入させられていた。