同じ月の光
目的地を見失った僕たちに逃げ場はなかった。宇宙空間内には遮蔽物も無い。
「やるしかねえか……!」
僕は片手で弓を肩から外して、持ち手を強く握り締める。ミツも短刀を抜き取った。その刀がただの刀ではないことを僕はもう知っている。神話ではヘルメスが所持しており、メドゥーサなど多くの怪物を屠った湾曲刀の魔具だ。
「ちょっとでも近づいてみなさい、その首を斬り落とすですよ!」
流星は生物ではない。不死を殺すという矛盾を叶える魔具でも、生きていないモノを殺すことは出来ない。だがナイアルラなら間違いなく生きているだろう。彼が至近まで近づいてくるリスクは彼女にカバーしてもらい、僕は流星に集中しよう。
大きく息を吐き出して呼吸を整える。燃え盛る流星は今もぐんぐんと迫ってきている。次第に明瞭に見えるようになっていく岩肌の凹凸は、その全てがヒトの顔だ。いや違う。それは僕の恐怖心の具現化だ。僕に向かって墜ちる流れ星に過ぎない。流れ星なら願いを手向ければ応えてくれるだろう。
右手をぐいと後ろに向ける。弦はあるが矢は無い。だがこれで良いのだ。デケムが先ほど使用した通り、この弓は周辺の光を凝縮し、標的を穿つ矢を精製する。この場に光ある限り、この弓は無尽の矢筒を持っているのと同じ。
「僕らに当たりませんように」
僕の指に少しずつ、何かをつまんでいる感覚が芽生え始める。四方から迫る流星が纏う炎が手元にあつまり、一本の太矢を形作っていたのだ。弓道の経験などない。だがこの弓を扱うのには、そんなものは必要ない。
「ブラフマダッタから放たれる炎の矢ですか、神話の再現ですね、いいですよ黒乃さん。あなたの舞台はまさしく、新たな神話の礎に相応しい!」
頭上はるかで、少年が高らかに僕を褒める。その真意を探る暇は僕には無い。
「南無八幡大菩薩、この弓外させることなかれ」
平家物語の台詞はうろ覚えだった。でも今の僕には、自分を那須与一に重ねるだけの余裕はあった。僕には謎の確信があったのだ。ここで死ぬはずがない。こんなところで、文字通り道中で、倒れるような僕じゃない。たとえ立ち塞がる相手が神だろうと流星だろうと、僕は終幕へ必ず辿り着く。
放つ矢を操作するのは八幡菩薩ではなくデウスエクスマキナだ。僕が本来祈るべきなのはそちらのカミであるはずなのかもしれない。だが僕が南無八幡云々と粋がったのにも理由があった。デウスエクスマキナは舞台装置だ。どの叙事詩にも登場しない存在でありながら、現代の作品に至るまでその姿を見出すことができるシステムそのものだ。そのシステムを神と見なせるのなら、見なしたのなら、その存在は神であり、同時にどの神でもない。あらゆる神々がデウスエクスマキナたりえるのではないか。
「八幡神に奉る。《強制反実移動》!」
僕は指を離した。本来の弓術ならばわずかな手のブレも弓の軌道に大きく影響を及ぼすのだろうが、あいにく僕には関係がない。八幡神という舞台装置の加護を願った弓矢は空中で分岐すると、迫りくる全ての流星を貫通した。纏う炎はその温度を著しく上昇させ、岩石そのものを融解させていく。
「ちッ……!」
分岐した矛先の一つはナイアルラにも向いていた。彼は空中で華麗に身をひるがえしたが、必中の弓からは逃れることは出来ない。彼の心臓を貫いた矢はその場で大きく炎を上げ、少年の身体を包み込んだ。
「倒した?」
「いや、たぶん駄目だ」
炎は空中にしばらく浮かんでいたが、突然黒い水の滝が空から降り注いで火は鎮まった。水が完全に下に落ち切ると、彼は元と同じ場所で、同じ服を着て、忌々し気に僕を見つめていた。
「熱い」
「知ってるとも。断っておくが、先に手を出してきたのはそっちだぞ」
「ねえ朔馬さん、今ので月が……」
ミツが小声で耳打ちしてきた。ハッとして辺りを見渡すと、ちょうど左手に月が浮かんでいるのが見えた。ナイアルラによる妨害は今の攻撃で剥がれたようだ。
「よし、走るぞ」
ミツと無言で頷きあうと、僕らはナイアルラに構うことなく、月めがけて走り出した。今彼を倒すことが目的ではない。一刻も早くここから逃げ出し、月を経由して綿津見や遼たちと合流するのだ。
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ちょうど同時刻。峰流馬が異能を発動し、結果アドゥムブラリは真の姿へと形を変えた。
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「……目が覚めましたか、ヤイバ」
ヤイバは見知らぬベッドの上で目を覚ました。知らない布団、知らない部屋、知らない天井。
「ここは連盟の医療室……だそうです。一命をとりとめて本当によかった」
彼のそばには森賀がいた。ヤイバは少し混乱しているようだったが、すぐに何かを思い出したように身体を起こすと、手をついてベッドから出ようとした。そしてそこで、彼は大きく体勢を崩した。
「無理しないでください。肘から先の左腕がないんじゃバランスを取るのも難しいでしょ」
「ミツは、なあミツはどうした、大丈夫なのか!?」
彼はよろめきながら、なんとか森賀の腕を掴む。それは先ほどまで死にそうだった人間の手とは思えないほど力強かった。森賀は優しくその手に自分の手をかぶせて、ゆっくりとほどかせる。
「怪我人の第一声とは思えませんが……。ええ、無事だそうですよ。現在朔馬さんと一緒に綿津見達と合流中とのこと」
ヤイバはその言葉を聞くと、一気に脱力してベッドに倒れ込んだ。そしてゆっくりと左肩をもたげて、そこにあったはずの腕を見る。
「腕、ないな」
「ええ。このままだと刀も振れません」
「それは拙い。まだアイツには、俺がそばにいてやらんとッ……」
「判ってますよ。そのために私が呼ばれたんです。生身の肉体は可塑的ですが、だからといって貴方の腕という概念までが消え去ったわけではないのよヤイバ。魔術も科学技術も、最初からそれをアテにすると取り返しのつかないことになるのは自明です。でも起こってしまった現実をよりよくするために、力は存在する」
森賀は足元に置いていたアタッシュケースを重そうに持ち上げると、ベッドの上に勢いよく乗せる。慣れた手つきで彼女がそれを開け、身体を起こしたヤイバの目に飛び込んできたもの。それは。
「これでも名門野上家の系譜を継いでいるのです。貴方のために、貴方のよりよい生活のために、私の努力の結晶を捧げましょう」
それは、中を埋め尽くさんばかりの腕だった。腕、腕、腕。そのどれもが本物と見間違うような、一つ一つが細部まで異なった腕の数々が、ヤイバの前に提示された。
「どれも一癖も二癖もある機能付きよ。さあ、貴方にはまだやるべき使命があるんだから」
森賀の言葉の純粋な励ましを受け取り、ヤイバの目には再び闘志が宿った。




