宇宙の中の黒の
子供のころから宇宙遊泳に興味があった。なにやら重そうな宇宙服を着ているけれど、ふわふわと気持ちよさそうに宇宙を泳ぐ宇宙飛行士の動画を見ながら、子供ながらに思ったのだ。地上の重力は重い鎖のようで、いつだって地面と僕を縛り付けて離さない。宇宙へ行けば鎖から解き放たれるのではないだろうか、と。宇宙は自由で満ちた場所なのだと。
「でも、まさかこんな殺風景な場所だったとは」
僕は今、その宇宙を歩いている。生身の身体で透明な道を一歩ずつ踏みしめて、かつての憧れの地にまさに今いるというのに。
「そりゃ殺風景でしょうよ。呼吸や体温管理に気を付けなくていいだけ良いと思わないと」
そうだ。子供のころの夢想は所詮ただの夢に過ぎない。重そうな宇宙服はただ重いだけではなく、真空環境、宇宙塵以下多くの危険から自分を守るものであるという事実は楽観的な夢想の外にある。宇宙は自由のように見えて、目に見えない鎖でがんじがらめだ。
「なあミツ。この蜂蜜酒、本当にちゃんと効いてくれるのかな」
「そこを疑っちゃだめでしょ。プラシーボ効果でもなんでもいいから、ともかく私たちが月に着くまでの間は効いてくれると信じるしかない」
アルコールが飛んでいるはずの蜂蜜酒で酔いつぶれた僕らが次に目を覚ましたのは宇宙空間だった。そしてそこでの僕らは神の名を背負う異能力者二人などではなく、だだっ広い宇宙の暗闇の無の中にぽつんと取り残された二人の人間に過ぎなかった。本来なら瞬きのうちに死んでしまっている筈の空間でもなお僕らが生きられているのは、どうやらその蜂蜜酒のおかげ、という事らしい。
「ヘルメスは旅の神でもあるんだけど、でもさすがにこの旅は予想外です……」
「予想外も何も、そもそも月まで徒歩で向かうなんて正気の沙汰じゃないと思うんだが。そもそもあと何万キロメートル歩かなきゃならないんだ? 日が暮れるどころか、辿り着く前にここで死んでしまうなんてことだって……」
「いや、さすがにそれはないんじゃないでしょうか。連盟は加盟家の構成員に召集用の蜂蜜を渡しているという話を、むかしヤイバから聞いたことがあるの。彼らにとってこの移動方法は使い慣れたものであるのは間違いないし、使用実例もあるのなら危険性は少ないはず……です」
「信じるしかないね。でも、どうやって月まで行くんだろう」
「さあ。でも目覚めたときも宇宙の真ん中だったし、旅の終わりもやっぱり宇宙の真ん中なのかもしれないです」
「詳しく教えてくれても良かったのになぁ、デケムとカフ」
ふと、そこで思考が途切れた。視界の奥に違和感を感じたのだ。ちょうど進行方向のまっすぐ向こう、真ん丸な月を背にして、小さな人影が見える。
「朔馬さんあれ……ヒト……かな?」
ミツも気付いたようだ。ということはアレは僕の幻覚ではなく、確かにそこに存在しているという事になる。二人そろって集団幻覚を見てでもいない限りは、だが。
やがて、人影が直立不動の姿勢から動いた。人影は脚さえ動かさず、すぅっと滑るようにこちらに向かってくるようだ。遠近感覚が麻痺でもしているのか、人間にあるまじき高速で迫ってきているかのように、その豆粒のような姿はみるみると大きくなっていく。そして次第に、その詳細が見えてきた。
その身を包むはカーキの軍服。同じくカーキ色で統一された軍帽のつばで陰って、顔だけがよく見えない。
「あれはッ……!」
僕が気付いた時にはもう時すでに遅かった。少年はその口を薄く歪ませると、数百メートル離れたある地点で立ち止まった。そして無言のままつま先を鳴らすと、まるで突然空いた穴に落ちるように脚から姿を消した。
「……来るッ」
僕は突如浮かんだ奇妙な第六感を信じて、ミツの腕を掴んで駆けだす。直後、僕らが先ほどまでいた地点に、上空から黒い液体が滝のように降り注いだ。
「おっとっと……あ、ありがとうです」
「感謝は後だ。デケムの言葉を忘れるなよ。道を踏み外すな」
ミツは僕の言葉に頷くと、体勢を立て直して走る。僕もその後を追った。あと何歩進まないといけないかは皆目見当がつかなかったが、進み続けなければ死ぬという事に関してのみは確信があった。
「でも、アイツはヤイバの腕の仇よ。ここで報復しないと」
ミツが減速するそぶりを見せたので、僕は無理やり彼女の腕を掴んで走り続ける。
「駄目だ。アイツは僕らだけで対処できる相手じゃない。ここは合流が最優先だって」
「私には幸運がついているのよ。アイツからうまく運を吸い取れたら……」
「違う、アレは幸運とか不運とかでどうにかできるレベルじゃない。一匹のクロアリがどれだけ幸運でも、人間を殺すことはできないのと同じだ」
「どうしてそんなことが……」
「いえ、黒乃さんが正しいです。君たち如きでは僕に傷ひとつ付けられないでしょう」
真横だ。僕のすぐ真横で、少年が僕らと並走していた。身体をこちらに向け、脚を動かさないのは変わりない。氷上を滑るかのように、音もなくついてきている。
「ほらほら、もっと速く走らないと追いつかれちゃいますよ?」
彼が指を鳴らすと、僕らのすぐ後ろを漆黒の滝が流れ落ちていった。僕らの背を追うように新たに黒い水が流れ落ちては、その空間を塗りつぶしていく。
「……飽きたな」
少年は突然そう呟くと、いきなり並走を止めた。連動して、黒い滝の追跡も無くなった。突然のことに一瞬立ち止まると、少年の声がすぐ正面に聞こえた。
「少し遊んでくださいよ。ほらほら、いつまでも月に魅せられてなんかいないでサア」
その瞬間、月が消え失せる。一瞬で暗闇に包まれた宇宙を背に、彼はふわふわと風船のように浮かび上がっていく。
「一体、何が起こってるのです!?」
「わからん。でもこれで、目的地がどこかわからなくなった」
これ以上前に進むわけにはいかない。僕は弾かれたように思い出すと、急いで片手でポケットから手帳を取り出した。そうだ、ここに全て書いてあるじゃないか。今僕が為すべき一手が------。
「ッて何だよこれ!?」
開いたページは、子供の落書きのように乱雑に黒く塗りつぶされていた。元々は文字が書いてあったようにも見えるものの、一文字も判読できない。驚いてハッと顔を上げると、少年の薄ら笑いと目が合った。
「では始めますか。遊戯ですから、きちんとゲームマスターの自己紹介をするとしましょう。僕はナイアルラ。ナイアルラトホテプ」
彼の言葉に応じて、黒天の奥から流星雨が姿を現す。どれもさきほどまで宇宙空間を漂っていた星屑だが、その全てが今や速度をあげてこちらに近づいてきている。
「ルールは簡単。僕が飽きるまで、君たちが生き残れば君たちの勝ち。そうでなければ……舞台はここで閉幕です」
少年は。かつて自らを僕の仲間だと明言したその少年は------笑っていた。




