マガイモノ
「アドゥムブラリ……生ける影、だと?」
綿津見が、少し驚いたような声を上げる。彼の視線の先では、アドゥムブラリと名乗った少女の背後から伸びた触手が、その鋭利な先端を向けて突進してきている。
「その名を名乗るとは、物好きだな」
突如、地面が隆起して砂の壁を作り出す。触手は造作もなくそれを砕いて前進を続けたが、距離を詰める間に何度も何度も隆起する壁を前に次第に減速していく。この攻撃の効果が薄いことを悟ったアドゥムブラリは、思い直したように触手を引っ込める。
「ああ…………駄目だ駄目だ零点だ。その勘違いは困るなぁ、実に困る。訂正の必要があるようだ」
その姿はどこからどう見てもカノンその人に間違いない。その容姿や服装に僅かの変異も見られない。だがいま綿津見達が対峙しているこの少女は、カノンとは決定的に違う存在であるようだった。その立ち振る舞い、思考、口調に至るまでが別人のそれだったのだ。
「いいか、俺はその名を借りたのではない。俺がそれそのものなんだよ人間。俺がアドゥムブラリだ」
アドゥムブラリは触手をその背にしまい込んだ。まるで掃除機のコードが巻き取られていくかのように、あるべき位置に戻ったようにも見えた。
「あぁ、やはり実体があるというのは良いな。あいつを信じてこの話に乗った甲斐があった」
少女は自身の指を興味深そうに動かしては、その一部を実体のない影に変えたり、また戻したりしている。
「慣れるまで時間がかかるだろうが、準備運動がてらお前らを殺すことにする。異論は無いな?」
「お前は……誰だ。カノンじゃ無いな」
「名乗るのは二度目だぞ。だが教えてやろう、俺はアドゥムブラリだ。その女の意志は今や既に豆粒以下に成り下がって、あとはこれから肥大していく俺の魂に圧し潰されるのを待つだけの矮小な存在に過ぎない。魂も元々希薄だったな。元は紛い物か何かか?」
まあいい、と彼女は綿津見の返事を待たずに言葉を繋げた。
「依り代の出自なんぞに俺は興味ないからな」
「随分と饒舌になったじゃねえか。カノンの時の方がよっぽど慎重だった」
「饒舌だから不利ということはないだろう。対話は隙を作り出す。相手を一突きで殺せる隙をな」
彼女の言葉は途中で遮られた。甲高い銃声と共に、彼女の脳天めがけて銃弾が放たれたからである。乾いた音は一瞬にして空間全てに響き渡り、誰もがその発生源を見上げた。------言わずもがな、弾丸を放ったのは峰流馬遼である。
「隙ならお前にもそこかしこにある。お喋りにはもううんざりだ。コトバを話す怪異に、俺たちは耳を傾けてはならないことを忘れたか綿津見」
「……煩いなあ、餓鬼如きが。お前はそんなに偉いのか? ヒトとして生まれたってのはそんなに偉いことなのかァ?」
アドゥムブラリはにやりと笑い、額に直撃する寸前に空中に止まった銃弾に手を伸ばす。
「年長者の話は聞くだけ聞いておくのが得策だぞ。この身体の持ち主は、俺との共存を拒んだがゆえに今や消えつつあるんだからな」
タァン、とまた銃声が響く。今度は背後の触手を狙ったらしい。弾丸はアドゥムブラリの頰をかすめ、後ろで蠢く触手に直撃した。頰はぱっくりと割れているが、その傷口から血は流れていない。
「……しつこいな、お前も。俺だって痛覚はあるんだぞ」
間違いなく着弾した。触手が避けた様子はない。だが触手は身をよじる事なく、血飛沫さえも上がらず、ただ平然とそこに居座っている。変わらず、てらてらと黒光りする。
「視えた。 カノンの身体は本人の言う通り依り代に過ぎない。本体は背後の影の触手よ。遼、続けて攻撃して」
佐口の焔の眼がきらめく。彼女の方をちらりと見遣った後、ああ、とアドゥムブラリは頷く。
「だが、それが判ったところで何になる。自分の足元の影を撃てば自分を殺せるのか? 無理だろう。実体の存在しないものにどれほど物理的な衝撃を与えても、致命傷を生み出せる道理は成立しない。いいか、教えてやる」
アドゥムブラリは語気を強め、左手を前へ突き出す。右手に握った鎌は微動だにさせず、左手人差し指はまっすぐと、天高くそびえ立つ塔の頂点。そこ座り込む少年を指差す。
「攻撃ッてモノはなぁ------こういうものを言うんだよッ!!」
瞬間、真っ黒な触手が峰流馬の首めがけて飛びかかる。転がるように避けた彼の身体が投げ出され、直後、塔の上部は轟音とともに破壊された。
「よし、ここまでは手筈通り」
他の面々はただ傍観していたわけでは無い。好機とばかりに綿津見が指を鳴らす。瞬時に塔を形作っていた砂は液状のものとなり、触手を貫通させた状態で固定するべく再凝固された。
「だから影は無形だと……」
横目で空中を見る。峰流馬が空中で照準を合わせるべく、落下しながらスコープを覗き込んでいる。銃口の向く先は言わずもがな、アドゥムブラリその人だ。
「言ってんだろうがッ!!」
アドゥムブラリが地面を踏むと、塔に束縛されていた触手は実体を失い影と消え、間を空けず第二、第三の触手が遼の元へ向かう。触手の先は鋭く尖り、もはや槍と形容するに近い。ただし、それらは全て柔軟性を持った槍だ。
対する峰流馬は表情一つ変えない。迫り来る槍は影そのもの。いくら遠距離から銃を撃ったところで、弾着の直前に影となり、再物質化されれば抵抗は無意味だ。防ぐには、路地裏の時と同じように影そのものを喰べるか、影のない光の世界に引きずり込むしかない。
「あっけなかったが、まず一人だ」
黒の槍は空中の峰流馬を静かに狙って空を斬る。空中で攻撃を避けるのはほぼ不可能であるにも拘わらず、宙を舞う彼の表情には絶望などない。そこにあるのはただ、計算勝ちの宣言のみ。
「知っていたとも。お前の触手は影そのもの。いくら真っ向から撃っても傷つけられないことくらいは判っている。だが攻撃の直前だけは、殺傷のため物質化しなければならないだろうがッ。『槍の穂先』を狙った俺の弾丸は……」
遼の指が引き金にかかる。
「物質化した槍が俺を穿つ直前に、間違いなく命中するッ!」
発砲音とともに、黒い欠片が弾ける。槍が大きく欠け、軌道が逸れた。瓦礫の後ろに着地した遼は、これが呪だッ、と高らかに謳う。だが、彼の元には迫り来る更なる触手の波。今度こそ殺すべく、今瓦礫の上を通過し------
「これが魔具だ。これこそが異能だッ! しかと喰らえマガイモノ」
瞬時、彼の目が赤く光る。彼の知能は今、ヒトの持ち得る限界を突破する。
「明日で今年は幕を閉じるが、世界の幕は下ろさせねェ。偉大なるスリスに奉る。《亡い物強請り》!!!」
彼の咆哮に応じ、先ほど倒壊した筈の塔が大量に『複製』された。影の触手は突然移動を阻害され、一瞬のうちに影となり実体を無くす。塔の壁をすり抜け、影は何事も無かったように加速し直しながら彼の元へ迫り、彼は、触手の先端、槍状の穂先を掌で受け止めた。
「______具現化。かかったな」
彼の赤く染まった目が、驚愕の表情のアドゥムブラリを遠くに写す。
遼の異能、《亡い物強請り》により、アドゥムブラリの背後より伸びる触手が実体化する。強制的に具現化した触手は言わずもがな、その途中で壁の如くそびえ立つ塔によって両断された。
「いっ……」
アドゥムブラリの身体に______強いて言うなれば、カノンのものだった身体に、触手の傷と呼応するように切り傷が入る。
「痛……ッたいなあこの餓鬼がァ嗚呼ああ!」
そう呟いて、かはっ、と彼女は血を吐き出す。右手で口元を拭い、順々に面々を睨みつける。
「クソ、矢張り慣れない身体構造だからか?」
アドゥムブラリの左腕の損傷は特に酷い。腹部にも大きな傷が入っているのだろう、制服をじわりと暗く染めている。
「〈狂気違え〉が使えなくなるのは癪だがこの際仕方ない。いいか。ヒトのカタチなんぞになァ、実体化を成し遂げた俺が縛られる必要は無いんだよ!」
彼女が吐き捨てるようにそう叫ぶと、アドゥムブラリの腹部の傷が広がり、中から無数の鋭い牙が顔を覗かせた。傷口を口に見立て、身体を両断するほどの大きな口が牙をむき出しにして唸る。
次いで、数本の触手が身体を貫く。〈狂気違え〉が埋め込まれた左脚は千切れ、さらに切断面に触手そのものが入っていく。他の四肢も同様だ。彼女の体はどんどんとヒトのカタチを失っていき、背後の触手と一体化していく。
ぐちゃり、ぱき。と猥雑な音が響く。
「何が……起こってる?」
突然の出来事についていけない〈守り手〉たちの驚愕の意などいざ知らず、アドゥムブラリはヒトとしての殻を見る見るうちに脱ぎ去っていく。
体全体を両断するほど大きな、牙の生え揃った口。その周りを囲む黒い触手達は鋭く尖り、だがしなやかに蠢いている。体長は十メートルはゆうに超えるほどだろうか。見上げるほどの巨体であるにも関わらず、この口と触手のみの二要素だけで構成されている奇怪な生物。
姿を変えたアドゥムブラリはヒトの言葉を失い、獣のようにただ吼える。その大きな口から放たれた重低音が辺りを包み込むと、呼応するかの様に四方で地面が割れ、裂け目から影が這い寄る。一瞬で、世界が黒く塗り替えられていく。
「アドヴァイスだかアドウェルサだか知らないけど、立ち塞がる敵ならこの手で倒すまで!」
理恵が叫ぶと、川面が瞬時に赤く濁る。数万リットル、いや数十万リットルをも遥かに超える水が血となり、彼女の影響下に置かれた。彼女の瞳も赤く濁りはじめる。
「それじゃあ行くよ。黒猫あンたも手伝うのよ!」
はいはい、と生返事を返す黒猫。砂埃や血飛沫が真っ黒なチャイナドレスに付いたのが気に食わないのか、手で払い、しきりに気にする素振りを見せる。
「ねえ澪ー。今度服買いに行かない?」
「正月のバーゲンは掘り出し物が多いからね、私は乗った。理恵は?」
「今そんな話してる場合!?」
アドゥムブラリが口のついた触手を全方位に突き出し、鋭利な牙が手あたり次第に噛みつく。すかさず理恵が手で払うと、川面が波立って血液の鎖が四方を駆け巡った。牙やら触手やらに執拗に絡みついた鎖は、一瞬にしてその身体をがんじがらめにした。
「……私も行くに決まってるでしょう! 私たちはみんなで生き残るの。正月を楽しむ権利だって、今度こそ全員で捕るんだから」




