月に魅せられた者はミードの夢を見るか?
デケムが親指を滑らせ、両手にそれぞれ一本ずつ持った小瓶の蓋を取る。ゴム製の蓋はぽん、と音を立ててから床に落ちると、煙のように消え去った。
「我々連盟の仕事のひとつが、アネクメーネの監視だ。いくつかの主要なパスを確保しているから、定期的に見回りをすることだってある。だが私達にも、連盟の管理区域以外の深度へ向かう必要が生じる場合もあるのも確かだ。まずこの蜂蜜酒を飲み給え」
デケムは試験管を、僕とミツの二人の目の前に突き出す。
「あの、僕たち二人とも未成年なんだけど……」
「アルコールは一度未満まで飛ばしているから厳密には酒ではない。ほら早く」
言われるがままに、半ば押し付けられた試験管に口をつける。中でとろりと光る黄金の液体はゆっくりとガラスの上を滑り、すこし時間をかけて口の中に流れ込んできた。蜂蜜の甘さの中に微かにラズベリーの酸味がする。蜂蜜酒を作る時に漬け込んだのだろうか。
「朔馬さん、ねえなんか脚がふわふわしない?」
「ん……言われてみれば、たしかに」
脚がふわふわする、というのはミツ独特の比喩であるが、それでも言いたいことは伝わってきた。熱を出して寝込んでいるときのような身体の浮動感が少しずつ、足元から次第に上がってくる。
「デケム、やっぱりアルコール飛んでなかったんじゃ……」
平衡感覚を一瞬失い、僕は左右によろける。慌てて壁に手をつこうと伸ばした腕は、驚いたことに壁を貫通した。何が起きたか僕が理解する前に、僕の身体は体重移動についていけず、尻餅をついてしまった。デケムがため息をついて手を貸してくれた。差し出された腕は、今度はしっかりと握ることができた。
「呑んで数秒で酔いが回るわけがない。いいかよく聞け。お前たちにはこれから、月旅行をしてもらう」
デケムの目配せに頷いたカフが手を二回叩くと、周囲の景色ががらりと変わった。手術室の前の廊下にいたはずの僕らは、いつの間にかどこかの部屋の中にいた。廊下の壁があると思っていた場所には何もなく、僕らは部屋の真ん中にいたのだ。目線を上げて、巨大な望遠鏡が空を向いて据えられていることに気付いた僕は、そこではじめて、ここが天文台であることを悟った。
「実はここまで歩いてきてもらっていたんだが、経路は幻術で誤魔化させてもらった。機密保持のためだ、理解してくれると嬉しい。ともかく月が見える位置にまで来てもらいたかった」
「こ、ここは……アネクメーネなんだな」
周囲の壁には天体の写真が大量に張り付けられていた。なんの気なしにレンズの先に目線を合わせる。開閉式のドーム上部から顔をのぞかせていたのは、赤々と光り輝く満月であった。
「ああ。……ご存じかとは思うが、月はアネクメーネの全て深度に存在する。その連続性は、あらゆる法則が常識から乖離したこの狂気の世界においてもなお、担保され続けている唯一のものだ。いいか、月は連続性の象徴なんだ。よく覚えておけ」
デケムはそこで一旦言葉を区切ると、見覚えのある金色の弓を手の中に出現させた。
「さて、忘れないうちにこれを渡しておこう。所有権の譲渡を宣言する。俺からの餞別だ。綿津見との約束通り、君に託そうじゃないか」
浮動感は既に二の腕にまで到達していたが、僕は何とか彼から弓を受け取り、痺れはじめた指先でなんとか握りしめる。
「これ、毒じゃないよな」
「そんな訳ないだろ、すぐに慣れるさ。……いいか、ここから大事な話をするぞ。ここから見る月と、綿津見たちがいる深度で見る月は確かに同じものだということはわかるな? 高低差のある二地点から空を眺めたとき、その目に映る月は同じものであるのと本質的に何ら変わらない」
僕たちは静かに頷き、彼に言葉の続きを催促する。
「だがその逆はどうだ? 深度アルファから月面へ赴き、今度は月面から地面へピントを合わせたときを想定してくれ。その時に焦点があたる深度ベータは、出発地点であるアルファに囚われないことはわかるだろう。目線さえ変えてしまえば、認識する地面の深度を変えることなど容易い。あとは、そこに向かって歩くだけ」
「ちょっと待ってくれ、いま理解、するから……」
「その必要は無い。俺たちがこの理論に酔いさえすればいい。酒の味を細かく分析して評論するのも悪くないが、無心に酔った方がかえって深く味わうことができることもある」
デケムはカフになにやら指示をすると、手元のタブレット端末を操作する。
「ピントはこちらで合わせておく。君たちは余計なことを考えず、ただ歩き続けるだけでいい。いいか、決して道を踏み外すなよ……」
浮動感は今や、頭のてっぺんまでを支配していた。ぼんやりと霞む視界の中でデケムの声はだんだんと遠くなっていき、深紅の月だけがくっきりとそこに浮かんでいた。僕は自分の意識が拡大されて、月に向かって吸い込まれていくような奇妙な感覚と共に眠りに落ちた。
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ざざざと砂の擦れる音を立て、黒猫と峰流馬が座る地面が突起状に隆起する。高度はぐんぐんと上がり、視界はどんどん俯瞰的になっていく。綿津見の異能で、砂が融解と凝固を繰り返し、変形しているのだ。
佐口が観測し、綿津見がそれに合わせて地形を改変する。生命を吹き込まれたかのように流動し、胎動していく世界。血流のように砂は蠢き、意志を持つかのように地表と岩塊は拍動する。今この場は全てに於いて、綿津見たちの意志をベースに改変されていくのだ。
帝国崩しという大役を終えた数々の彫像も、その砕けた身体のパーツを砂の中に埋もれさせていた。森賀はその様子を、どこか寂し気な目で見つめている。
「どうしたの。せっかく竜を倒せたっていうのに、元気がないじゃない」
黒猫が斜面を滑り降りると、森賀の横に並んで立った。
「別に。異能を酷使してすこし疲れただけです」
「またまた。ちょっとセンチメンタルになってる癖に」
「……まったく、デリカシーが無い人ですね。また頭の中を覗き見したのかしら」
「いや、これはただの勘だよ」
そこで黒猫は言葉を区切った。そしてそれ以上互いに口を開くことは無く、ただ二人並んで砂の大地を眺めていた。
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「あの二人、意外に仲が良いのかもしれないね」
峰流馬が配置された高台に、はしごを登って良須賀が姿を現した。
「黒猫はともかく、森賀の方は他人に心を開くイメージが無かったからちょっと新鮮」
「つい先日までは違う学校に通ってたんだ。チームを組んでいるにしては、相互の交流はまだまだ少ないからな」
そこで峰流馬はふと、顔をしかめる。
「俺たちは今まで、互いに無関心すぎたのかもしれない」
「無関心というか、不干渉というか……」
良須賀はその言葉をころころと転がした。
「どちらにせよ、まだまだ子供ね、私達」
「ああ。だが子供だからって、俺たちが与えられた役目を放棄して良いわけじゃない。気張っていくぞ」
「そうね……。あ、そういえばこれ、下の綿津見から遼に届け物」
理恵はポケットから革製のシガレットケースを取り出す。中には銀の弾丸が並べられていた。
「確かに渡したよ。それじゃあ私は定位置に戻るから……」
良須賀は用件を済ませると、そそくさとはしごを降りていく。しばらく受け取った弾丸を眺めていた峰流馬だったが、やがて身を乗り出すと、まだはしごを降りている良須賀に声をかけた。
「理恵」
「ん?」
彼女はすこし眩しそうに、月を背にした峰流馬を見上げた。
「……死ぬなよ」
「判ってる。縁起でもないことを言わないで頂戴」
良須賀はそのままはしごを降りきった。地面に降り立った後ふと空を見上げたが、そこにはもう峰流馬の姿は無かった。
「……その時は、ちゃんと看取ってもらうから」
良須賀は誰に聞かせるという事もなく、ただぽつりとそう呟く。
**
「……おっと、この曲は?」
黒猫と森賀の二人が佇む砂の大地に、突如柔らかなピアノの音色が響きはじめた。パッヘルベルのカノンであった。
「……私の着信音のようです」
「森賀花音だけに?」
「まぁ……ちょっと失礼」
ここはアネクメーネだ。携帯電話の電波なんて届くはずがない。それでも着信が届いたという事は、それを可能にするほどアネクメーネに通じた存在が電話の向こうにいるということだ。
「もしもしこちら森賀……ああカフ、貴女ですか」
カフという名前には黒猫ももちろん聞き覚えがある。デケムの助手を務める女子高生だ。会話の内容に興味を持った黒猫は、その猫の耳をぴょこぴょこと動かした。
「ええ……概ね事情は把握したわ。仔細は後程伺います…………はい。了解しました。急いでそちらに向かいます。では」
「聞き耳立てたのに聞こえなかった。連盟が何の用だって?」
「デリカシーだけじゃなくてプライバシーも無いのですか。経緯は知りませんが、ヤイバが重傷を負ったようです。連盟が彼らと合流しているそうですが、私にも来て欲しいと」
森賀はあくまで淡々と告げるよう努めたが、それでも声色には動揺の色が見え隠れしていた。それを感じ取った黒猫も、事態の重大さを共有する。
「……私もついていくべきかな」
「いえ、黒猫はここに残ってください。カフが連絡を回したのは私だけですし、なにより貴女がここを離れたら、対カノン戦に支障をきたします。私は連盟に向かうと、他のみんなに伝えておいてください」
「判った。支給された蜂蜜酒を使うのね」
「まさか本当に使う時が来るとは思いませんでしたがね、ともかく行ってきます」
森賀はポケットから小瓶を取り出すと、蓋を回して一気に仰いだ。上を向いた彼女の視界には、蜂蜜酒の瓶底と月が重なって見えていた。
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「……綿津見、黒猫から情報。連盟のカフが森賀を招集したそうよ」
「用件は?」
「さあ、詳しいことは黒猫も知らないみたい。事情はよくわからないけど、重傷を負ったヤイバをデケムが保護しているそう。向こうで何かあったみたい」
デケムの名を聞いた瞬間、綿津見の表情が曇ったのを佐口は見逃さなかった。だが綿津見がその話題に触れない以上、佐口もあえてそこを話題に出すことは無かった。
「森賀が離脱したけど、作戦は続行する方針で行くよ。詳しい話は事後レポートで十分。さ、動いた動いた」
佐口の厳しい声が飛ぶ。彼女は天高く伸びた塔の上から俯瞰し、大地全体を視界に収めている。右目は真紅の炎に包まれ、顔の近くを火の粉が舞っている。彼女は異能《審火眼》で『最も効率の良い地形』を見定め、綿津見に伝えているのだ。
「ああ、後戻りはできんからな。……だが万が一カノンをここに誘い込んだとして、そう巧く罠に嵌められるか?」
綿津見が片足で砂を蹴り上げると、彼の足元からアーチ状の路が形成され、着地点に落とし穴、次いで針が所狭しと突出する。全て砂製。無機質で、乾いた大地の牙だ。
「利用できる駒は一つでも多く確保することが最優先よ。まったく、いまどこで何が起こっているのかしら」
佐口は苛立たし気に瞬きを繰り返した。彼女の目は視界の中のものしか見通すことができない。彼女の背後で、彼女のいない場所で、なにが起こっているのかまでは彼女は判らない。それは彼女にとって一種のストレスであった。
ふと、視界の中の影が不自然に揺らめく。たとえ他のことに意識を削がれていても、その変化を見逃さない彼女ではない。
「おびき寄せるどころか向こうから来たのね。総員、準備して!」
影は高速で移動し、今や塔の足元にまで接近していた。
「ちッ……バレたか。相も変わらず索敵だけは上手い」
舌打ちとともに、遥か下方から聞こえる呪詛の声。次いで聞こえる、金属の擦れる音。
「いいか、砂上の楼閣ってのはなァ!!!」
カノンが姿を現わす。その瞳は鋭く、黒い瘴気のようなものが辺りをちらつく。身に纏う制服の裾から黒い影が漏れ出し、手に持つ鎌は、勢いをつけて回転する。
「……崩れさる運命なんだよッ!」
斬、と塔に突き刺さる。そのままカノンは勢いのまま鎌を振るう腕に力を込める。
ざん、ざん、ざざざざと砂が擦れ、斬れ、鎌の加速は止まらない。
佐口が乗る塔に、下から螺旋状に切れ込みが入っていく。砂埃が舞い、塔の損傷はどんどんと、どんどんと頂上へ。
「ちッ!」
佐口が舌打ちし、足場を蹴って宙へ舞う。その瞬間、さっきまで彼女がいた塔は、轟音とともに砂塵と崩れ去った。砂埃が霧のようにあたりを包み込む。佐口の身体は落下したが、綿津見の異能によって大地に受け止められた。
砂埃に幾重もの斬裂が入り、一瞬で視界が晴れる。塔の跡地。砂と瓦礫の山の上には、堂々と佇み見下ろす人影が一つ。
「ミシャグジ、ワダツミ、バースト、白虎、そしてスリス=ミネルヴァ」
順々に、カノンは全員と目を合わせていく。
「相手をしよう。俺の名はアドゥムブラリ。虚構神話が一柱、『生ける影』なる復讐の体現者だ」
かつてカノンと呼ばれていた人形は、そう名乗りを上げると砂に鎌を突き立てる。瓦礫の隙間から黒い影が吹き出した。影は次第に彼女の背後に集まっていき、巨大な触手の集合体に変貌する。
「正典なんて名は、俺にはもう似合わないだろ」