知識の等価交換
猿たちはその数量で大きく優っていた。ミツの腕は二本しか無いにもかかわらず、群で四方八方から襲いかかる。彼女は枝の上を軽やかに駆け回り、握りしめた短剣で攻撃を捌いたり、狭い枝の上から突き落としたりして同時に相手をする敵の数を減らしているが、猿の総数が減っているわけではない。新たな猿たちは次々に姿を現す。
一方、ハヌマーンとヤイバの攻防も一進一退を繰り広げていた。その巨体から繰り出される一撃一撃は文字通り神撃の域。その全てを、ヤイバはたった二本の刀破剣で受け止める。
どちらの戦場も、素人が混じれば足手纏いな気がする、と僕は根の様に生えて動かない足に言い訳するが、それでも戦場がなくなるわけではない。金属がぶつかる音が耳をつく。片やカミ、片やヒト。力の差は歴然としているとはいえ、武器が同じ金属であれば勝算があると言わんばかりに、ヤイバたちの動きに気の迷いはない。僕と、違って。
「なんだよ、ほんと」
そもそも本末転倒も甚だしい。どうして武器を入手するために戦わなければならないんだ。戦えないから武器を取りに来たのだろう。僕が戦力にならないことくらい綿津見も判っていたはずなのに、なぜか彼は僕とミツ、ヤイバの三人だけをここに送り込んだ。それに、ここでハヌマーンと敵対する可能性を彼が想像しなかったはずはないのだ。なんで、こんなことになってる。
「…………ふむ、腕は把握した。もう君の相手をする必要は、無い」
ハヌマーンの顔のひとつが、もごもごと口を動かした。そのまま腕のひとつが武器を手放すと、ヤイバの身体をはたき飛ばす。二本剣と鍔迫り合いをしていた彼は為す術もなく、吹き飛ばされて森の中へ消えてしまった。
「次は君だ」
ハヌマーンはヤイバを目で追うことなく、今度は僕をその十六の瞳で凝視する。ゆっくりと大地を踏みしめて距離を縮めるハヌマーンを前にして、僕の頭は真っ白になっていた。考えれば考えるほど思考がなくなっていく。気絶しなかっただけ誉めてほしいくらいで、もう何をどうしていいのかさえ、なにも判らない。ハヌマーンの巨体が落とす影が僕の顔にかかる。見上げることすら怖くてできない。脚が震えているだろうけど、走って逃げなきゃ…………。
**
気が付くと、僕は夕陽の差し込む喫茶店の席に腰掛けていた。全国チェーンの店舗のひとつで、図書館から歩いて少しのところにもあったな、なんて考えたところで、ああ僕は死んだのだなと思い至った。僕はきっとさっきハヌマーンに無様に殺されて、それでここは死後の世界なのではないか。全国展開は冥界にも進出していたとは驚きだ。
喫茶店なのだから紅茶でも飲んでみようかとメニューを探す。緊張状態から急激に解放されたためか、ずっと感じていなかった空腹を一気に意識する。モーニングはもうやってないだろうが、サンドイッチでも注文しよう。
「ご注文はお決まりでしょうか」
いつのまにか、僕の席の横にウェイトレスさんが立っていた。心底面倒そうな顔をして僕を見下ろしている。
「えっと、サンドイッチとビーフシチュー。それにアイスティーを」
冥土のウェイトレスさんは返事も、お約束の「繰り返します」さえも無しにすたすたと厨房らしき場所に歩いて行ってしまった。おや、再現度が低いぞ。
「はは、無理言ってウェイターやってもらったからかな、ちょっと機嫌悪いね彼女」
驚いて振り返る。机を挟んで向こう側に、これまたいつのまにか人の姿があった。だがさっきウェイトレスさんの時と最も異なっていたのは、その姿は僕のよく知る人物だったからだ。
「……僕?」
話しかけてきていたのは僕だった。左耳に車輪のようなイヤリングをつけ、白いシルクハットに白のオーダースーツ、白い手袋をはめた彼の顔は間違えるはずもなく『僕』だ。彼は僕の視線に気づくと、にこりと笑って帽子を取る。
「いいや、俺は君ではない。君の本質を映し出す鏡さ」
「全身真っ白コーデが?」
「おっと、それは別の問題だ」
言葉をほとんど交わさないうちに、さきほどのウェイトレスさんがお盆を運んできた。上には僕が注文したサンドイッチと付属のパン、アイスティー、それとホットティーらしきティーポットとカップが乗っている。
「ビーフシチューなんて作ったこと無いのでお出しできません。……ではごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスさんの右耳にも、車輪のようなイヤリングの存在をみとめた僕であったが、特に言及することなく、そそくさとどこかへ消えていく彼女の背中を見送る。
「味の保証はしよう。腹が膨れるかは別問題だが。遠慮せずに食べてくれ給え」
彼に促され、僕は食事をとることにした。サンドイッチをもくもくと頬張っていると、彼はカップに慣れた手つきで紅茶を注ぎ、口につける。
「うん、やはり紅茶は良い飲み物だ。君が珈琲派だったらどうしようかと」
「僕の本質があなたなら、飲み物の嗜好も同じじゃないんですか?」
「ああ、うん。そうだ、その通りだとも。なかなか鋭い」
彼は歯切れの悪い返事をする。僕は彼の言葉の真意を掴もうと頭を回しながら、それはそれで美味しいサンドイッチを堪能してた。レタスがみずみずしくておいしいです。
「……サンドイッチ、俺も食べようかな」
「一つ要りますか?」
「おや、それじゃあお言葉に甘えて」
手袋を外した彼が手を伸ばしたのは卵サンドだった。別に嫌いな食べ物ではないが、サンドイッチの中では好きではない部類に入るものだ。本当に彼は僕の本質を映す鏡なのだろうか?
「うん、やはり味だけは一級品だな」
僕と彼はほぼ同時に食事を終えた。そして無言のまま、お互い紅茶を飲む。死んだあとまでこんな心理ゲームをする羽目になるとは思わなかった。
「……驚かないのかい?」
「何がですか?」
僕はグラスを揺らして氷の浮き沈みに関心が移っているフリをする。
「君は死んだ。そういうことを感じ取ったら普通、取り乱したり、泣き出したり、暴れたり、質問攻めにしたりするもんだ」
「……はぁ」
カラン、と音を立てて氷が水面を回る。
「君という個は今までに特別なにかの業績を残したわけでも、栄誉ある血統の出でもない。先の戦場でもおろおろと情けないだけだった。なのに何故、何故君はあの森に来た。何故君をあの森に行かせる結論になった」
「どういう意味ですか」
「簡単な話だ。武器が欲しいから取りに行く、それだけならなにも君が来る必要は無かった。戦える者のみが戦場に赴き、弓をとって持って帰って君に渡せば良い。所有宣言さえしなければ、魔具の入手経路なんて意味を持たないのだから」
「……貴方は、誰ですか」
そこでようやく、僕はぺらぺらとよく喋る『僕』を見た。彼の二つの瞳もまた、僕を凝視する。店内に流れるジャズだけを僕と彼の間に挟んで、お互いはお互いの真意を探った。
「俺は、君の本質を見る者だ」
「鏡ではなく?」
「鏡に映すという事は、鏡の中から見極めるということだよ」
「哲学的ですね。ですが誰か、という質問には答えてもらってません」
「はは、当然だ。ここでは教えるつもりはないからね」
紙ナプキンで指先を拭くと、彼はまた手袋をはめた。
「だがまあ、他のことなら少し教えてあげてもいいかもしれない。俺はな、君が自身の死を自覚した瞬間に取り乱して、大声で本音を叫ぶ瞬間を待っていた。常人ならそうする。全より個を優先する者なら特にだ」
だが結果君はそうしなかった。呑気にサンドイッチを頬張り、こうして紅茶を飲んでいる。彼の言葉ひとつひとつは事実を確かめるように、僕に向かって真っすぐ突き刺さる。
「それが何故か俺は知りたい。何故綿津見が君に一定以上の価値を置く結論を下したのか、最初の疑問はそれだった。だがそれが特殊な死生観によるものなのか、秘めたる特殊な技能でもあるのか、変わった星の下で生まれてきたのか、俺には見当もつかない。だがこの二つの疑問はきっと連関しているに違いない。前者に君自身が答えることは期待していないとも。だがもし君が後者の質問に答えを提示してくれるのならば、俺は君と仲良くできるはずだ。君の疑問に一つだけ答えよう」
この言葉で僕は確信した。彼は僕ではない。僕の仮面を被った、まったく見知らぬ誰かが彼だ。綿津見の知人であり、今までの周回では介入のなかった新しい登場人物。彼は味方かどうかは定かではないが、少なくとも今は敵ではない。
敵にならない理由は、それだけで十分だろう。
「…………お腹が、空いていたからですかね」
ふざけてるように思うかもしれないが、僕がサンドイッチを注文した理由はなんでもなく、本当にそれだけだったのだ。
「まだなにかすることがあるからお腹が空いたんじゃないかなってぼんやり考えて、だったら喚いてる場合じゃないなって」
白い服の僕は虚を突かれたように僕を見ていたが、やがてティ―カップを置くと、心底おかしそうに笑い声をあげはじめた。
「はは、はははは、驚いたな。君は本心からそう言っていると見た。そうか、腹が減っては戦は出来ぬもんなあ」
良い答えだ、と彼は満足げにポットから紅茶を注ぎ足す。
「気取ったことを言ったら首をはねてやろうと思っていた。うん、実に凡人らしく、実に人間らしく、実に根源的な動機だ。魔術に染まらぬ君らしい、個を優先する素晴らしい意志。なるほど俺は、君に対する認識を改めざるを得ないようだ」
さて何が知りたい、と問う彼に、僕は空になったグラスをぼうっと見つめながら質問を投げかけた。
「ここはどこです?」
「答えよう。ここはアネクメーネだ。先ほどハヌマーンに襲われたあの密林から、君の身体は一歩も動いていない。今君が眼にしているすべての事象はまぼろしに過ぎない」
「この紅茶も?」
「残念ながら。美味いが所詮は存在しない」
「さっきのウェイトレスさんも?」
「いや、彼女と、それとこの俺だけは実在する」
彼が指を鳴らすと、彼の横に先ほどのウェイトレスさんが腰かけていた。茶がかった髪の毛の全てを後ろで束ねた彼女は僕を見ると、ぺこりと小さく頭を下げる。
「俺の助手だ。幻術に参加してもらってる」
「どうも。給仕が下手ですんません。バイトはレジ打ちばっかりなんで………」
彼女はどうしても自身の制服が気に入らないようだ。忌々し気にフリルのついた袖をつまむと、自身の肩をとんと叩く。一瞬のうちに、彼女が身にまとう衣服は制服へと変わった。うちの高校の制服ではないようだ。隣町にある、有名なお嬢様学校の制服に似てる気がした。
「つまり僕の身体は密林にあるまま、魂だけこの喫茶店に来て、この経験をしているということですか?」
ふと、さきほど少年に呼ばれて湖のほとりを訪れたばかりだったことを思い出した。アレと似たようなものだろうか、と思った僕だったが、彼の答えは予想とは違うものだった。
「いいや違う。魂を身体から分離させるなんてヒトのできる芸当じゃない。俺はただ単に、幻を君に見せているだけに過ぎない」
予想外どころの話ではなかった。とたん、血の気がサッと引くのを感じる。
「ヒトのできる芸当じゃないッて。じゃああの時のは……」
『嘲笑する使者』を名乗ったあの少年は、それでは一体何だったのだ。ヒトの形をしたヒトでないモノとは。どんどんと表情を曇らせる僕の変化と、僕の些細な言葉遣いの中から、しまいには彼も気付いた。
「待て君、まさか前にそれをされたんじゃ………」
彼がそう口にするのと、夕陽が急速に落ちていくのは同時だった。窓の外は途端に真っ暗になり、星の光すら差し込まない完全な闇となる。唯一の光源となった店内の蛍光灯さえも、明滅を繰り返し始めた。
「デケム拙い、凄い力で誰かが私たちの幻術に干渉してる」
ウェイトレスが男に耳打ちする。スピーカーが故障しはじめ、流れてていたジャズが不規則な、不気味な旋律へと姿を変えていく。
「約束を破りましたね、朔馬さん。誰にも話してはいけないと、そう言ったのに」
掴んでいたグラスが煙のように実体を失った。そのまま全てが霧のように揺らめき、視界はまた、もと居た密林へと急速に変化していく------。
**
赤鱗の多頭龍。それは黙示録にその姿が記された、意志を持つ災厄。もとを辿れば悪魔サタンと同一視される。
「黙示録の竜はサタン、サタンはそそのかす蛇。ヴリトラも蛇だろ。さっきの白蛇が化けたのか?」
眼に焔を灯し、凛として背筋を伸ばして、佐口は竜を見据える。《審火眼》。その用途は能力者か否かを見極める為、それだけにとどまらない。その真価を見通す一種の千里眼。例え心の奥底に沈めた呪われた秘密でも、神秘の原理も、秘匿されたその全てを見極める真実の眼だ。だが------。
「私が見てもよくわからないッてどんな出鱈目よ。性質が変容し続けて見定められない!」
「本質まで見切らなくて良い。あの竜だけに焦点を絞れ」
「やってみよう。時間稼ぎよろしくゥ!」
峰流馬が無言でライフルを構える。彼がスコープを覗き込むことなくトリガーを引くと、弾丸は竜の目の一つを直撃した。目を潰された頭は咆哮しながらのけぞるが、ぼとぼとと落ちる血はすぐに止まる。その驚異的な回復は傷の治癒に留まらず、眼球そのものが再生していく。
「洒落になんねえ再生能力だな。そもそも目が十四もあるんなら一つや二つ潰しても埒が明かねえ」
「速報なら出せる。あの竜は、まさしくローマ帝国の実体化よ。首は皇帝の投影ね」
サタンはキリスト教最大の敵だ。その存在は紡がれる歴史に裏付けられ、その宗教史に応じて姿を変える。神格は、その伝承に左右されるのだ。宗教面が強いカミにとっては尚更のこと。
蛇は今やヴリトラではない。インドラに対比されることで悪となったヴリトラとは違い、《黙示録の竜》は絶対的な悪として描かれる。悪魔崇拝ですらそれを信仰することは無い。その存在は、この世の悪そのものを指す。
悪魔崇拝の本質は反体制主義だ。その象徴として悪魔の名を掲げるだけであり、悪魔を神と崇める信仰心がそこにあるわけではない。だがこの竜は違うのだ。まさしくキリスト教批判が体制の方針だった帝政ローマ初期において、この竜はキリスト教の敵でもあり、反体制主義の敵でもある。時にその繁栄の礎となった時の世界最大の国の、負の面の集積が竜のカタチを為したに過ぎない。
「頭が痛いねえ、我が故郷。人でありながら神に成ろうとした挙句、神を見放し見放された末路がこれというわけだ」
キリスト教を迫害した皇帝達。彼らの愚鈍な王冠と毒を撒く邪な頭に、怠惰な眼が十四つ。それらを支える優雅な首は、皇帝を支えるローマの軍事力。真っ赤な鱗が月光を受けて煌めいている。
甚大な生命力を象徴する身体。その礎は国力の源、絹の道の終着点。世界最大の貿易大国としての人の脈。人は血液、路は血管。そして身体全てを支える四本の足は、世界を覆わんばかりの広大な国土。『頭』となった皇帝たちの世から二百年以上後、軍人皇帝ディオクレティアヌスの行った四帝分治は、土地を四つに分断した。大地はそれでも尚屈強に、四つで国そのものを支える。そして、荒々しく地面を打つ尻尾は繁栄の裏に潜む黒い歴史。国の躍進を支えた奴隷達。
存在自体が帝国そのもの。その負の歴史が、その軌跡が視覚的に具現化した存在。それが______
「来る。綿津見!」
「了解っと」
応答と同時に、綿津見の背後に控えていた砂が移動し、前方に巨大な壁を作る。
七つの口から突如吐き出された業火は、寸前に形成された砂壁によって阻まれた。
「ひゅー、危ねえ」
衝撃で砂塵が舞い、またすぐに壁に取り込まれる。
「まだまだ来るよ。国崩しの始まり始まり」
「ローマ帝国滅亡って確か昨日授業で習ったようなッと危ねえッ!」
《黙示録の竜》は目にも留まらぬ速さで距離を詰め、砂壁を爪で砕く。炎を防ぐため強度を上げていたのが災いして、柔軟性の無くなっていた固体の砂は瓦礫となって砕け散った。
「砂は無しだ。次だ次!」
綿津見が手を振ると、空気中の成分が不可視のまま分離する。その大部分を占める窒素は不活性物質、つまり化学反応に干渉されにくい。口の周りを窒素だけで覆ってしまえば−−−−。
またも炎を吐く龍頭に綿津見は視線を投げる。吹き付けられるはずの炎は口内で留まり、その呼吸を遮る。
その様子を見、襲いかかる別の首------暴君ネロを一瞥し、綿津見は手を天高く掲げる。その手に集まる空気や砂は徐々に意味ある形を成して行き、終いには一本の日本刀となった。
「多頭龍といえば、うちの国でも八岐大蛇がいる」
綿津見は空気を圧縮し、即席で用意した階段を駆け上る。
「二本が限界!残りの首は分担してなんとかして」
「……そうそう、ゲルマン民族の大移動だ。ローマ帝国はゲルマンにより滅亡した。間接的な影響も、直接的な戦争としても、その原因は彼らの流入だ。当時のゲルマン民族にはローマで異端とされたアリウス派キリスト教も広まりつつあったが、民間レベルではケルト民族の文化も重要な役割を示していた」
峰流馬が振り返ると、つられて全員が最後尾に立つ少女に目線を向ける。
「わ……私?」
それはケルトの女神、モリガンに由来する森賀だった。彼女の動揺をよそに、佐口が納得したように後を引き継ぐ。
「思想面での攻撃アプローチはそれで良いだろう。現象面ではゲルマン傭兵オドアケルとの戦争で合ってたかな。人脈と国土が問題なら、脚の付け根付近に傷があるはず-----ああ、ビンゴだね。左後ろ脚の付け根に、戦争を投影した古傷が有るようだ」
「地道に首を斬るのはどうなの?」
「斬っても他の皇帝が玉座に座るだけだろう。いったい何人の皇帝が存在したと思ってるんだ。帝国を崩すのは政変じゃなくて、いつだって民衆の反乱なのさ」
知は力とはよく言ったものよ、と佐口は瞳の炎を優しく撫でた。知識は使うためにある。まさしく、今のように------。




