変身
ヴリトラは滝のように水を滴らせ、その巨大な頭から上陸を果たす。その頭部は蛇そのものだが、蛇には本来備わっていない声帯がこのカミにはあるのだろうか。ぐるる、と獣のような唸り声をあげるその様は、まさしく蛇の皮を被った怪物だった。
「佐口、このヴリトラはどっち準拠か判るか?」
「良いだろう、視てやるから首を押さえてろ」
「あいよ」
綿津見の足元の砂が波のようにヴリトラに押し寄せる。砂は片側だけ勢いを増して波のように身体にぶつかると、そのまま横になぎ倒す。もう片側の砂と合流して蛇を砂の中に埋めてしまうと、綿津見は砂の海を凝固させた。一度融けて液体となった砂粒は再凝固する際にひとつの大きなブロックとなり、行動の自由を制限した。さながら罪人の首枷のように取り付けられた立方体は、その細長い身体で持ち上げるには不釣り合いかつ重すぎる。ヴリトラは為す術もなく倒れ伏し、その攻撃的な爬虫類の目で綿津見たちをじいと見つめた。
「……マハーバーラタだ。良かったな、金剛杵も酒も必要ないぞ」
「となると矢張り、海の泡だな」
ヴリトラ殺しは多くの作品のモチーフになっており、それぞれでヴリトラの殺害方法が異なっている。マハーバーラタに描かれるヴリトラ殺しは以下のものだ。ヴリトラは様々な物質で自らを殺すことを禁じた。さながら北欧神話のバルドルのように。彼はインドラによって、乾いたモノと湿ったモノという対立する二項のどちらを用いてもも殺されず、また武器によって死ぬことも無い。だがインドラはその全ての要項をかいくぐり、乾いても湿ってもいない『海の泡』と、聖者の骨で作った金剛杵によってヴリトラをだまし討ちにした、という。
「俺はインドラでは無い。だから道理ならば、その禁則に従う必要はないだろう」
だが相手は紛うことなきカミなのだ。たとえその姿が歪んだものであったとしても、下位存在は上位存在を殺すことなどできない。それこそ、伝承の中で明記された神の死を再現でもしない限りは。
「あいにくここには海が無いんでな。これまた疑似的だが、代用品にはなってもらわないと」
綿津見が指を鳴らすと、首周りの砂が微細に振動を始める。一部は液体に、一部は固体のままそのカタチを変形させていき、ヴリトラの周りに大量の砂の泡がうずたかく積まれていく。泡の一つ一つの中は空洞であり、それをもって彼はこれを泡とみなした。その表面は液体化した砂だ。それが液体であるという点では乾いていないと言えるが、成分として水が無いという点では湿っていないともとれる。
「神だって死ぬときは死ぬ……」
黒猫はじんわりと窒息していくヴリトラを見つめながら、ぼうっと呟いた。そう、それは日本でも、エジプトでも北欧でもインドでも、世界中のあらゆる伝承において同じことが言える。神は不死であるとは限らないのだ。
だが神が死ぬからといって、その死はヒトにとっての死と重みが同じであるかといえば、そうではない。神にとってその肉体が生命活動を止めることは、単に地上における魂の容れ物が壊れたに過ぎないのだから。神にとって真の意味で死を迎えるということは、また別にある。
それは、その存在を知る者がいなくなることに他ならないのではないか、と次に黒猫は考えた。神は神と崇められることで神として存在できるのだ。ヒトを失くした神はただの上位存在にすぎないのではないか。記憶を扱うことが多いからこそ、彼女はその結論に辿り着く。存在を信じる者がいない神は、はたして神として存在しているといえるのか。それが物理的に実在しているのだとしても、もはやそれを「神」というカテゴリに入れるべきかどうかは別問題になるのではないだろうか。
そして同時に、この世界で観測されるカミにも同じことが言える気もしていた。まさに黒猫の目の前で息絶えようとしているヴリトラは、ヴリトラというカミの一形態に過ぎない。この大蛇が死したところで、彼女の記憶からヴリトラという存在が消え去ったりはしないのだから……。
「……待て、なにかおかしい」
綿津見が突然声をあげ、黒猫をその深い思索から引きずり戻した。彼は額から一筋の汗を流すと、手を払いのける仕草をする。すぐにヴリトラにまとわりついていた砂は文字通り霧消し、既に息絶えた巨大な蛇の死体が顕わとなった。
「どうした」
峰流馬も綿津見の顔色に気付いたようであった。彼の表情にも緊張が伝染し、ごくり、と彼は唾をのみ込んだ。
「弱点さえつければカミ殺しだって不可能じゃない。歯ごたえが無さ過ぎるか?」
「いや、歯じゃない。手だ。怪異を殺めるとき特有の、あのなんともいえない手ごたえがないんだ」
わかるだろ、と綿津見は他の面々の顔を見回した。
「存在しない筈のものを殺めるなんて矛盾を、むりやりあり得るものとして認識させられているような、あの、くどすぎるような手ごたえがない」
びくん、と突然ヴリトラの身体が痙攣したため、一同は一度にそちらに意識を寄せた。まるで綿津見の言葉に頷いたようにも取れる、丁度良すぎるタイミングだった。その黒光りする身体はそのあと何度も痙攣を繰り返す。その頭はまったく動かないにもかかわらず、身体の真ん中だけが不自然に動いている。まだ尻尾は河に浸かっているため、一緒に痙攣を繰り返す尻尾がばしゃばしゃと音を立てるのだ。その光景の不気味さに、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて目に見える変化がヴリトラの身体におこった。無防備に横たわった大蛇の腹に亀裂が走ったかと思うと、中から新たな蛇が姿を現したのだ。その体色は白であり、赤い目と併せてどことなく神秘的な風格を漂わせている。ヴリトラほどではないが、すでに通常の蛇のサイズではないことも、その蛇がただの蛇ではないことを物語っていた。
「あの蛇、なによ」
「さあ……聞いたことない」
卵から孵化したかのように、ヴリトラの中から生まれ落ちた新たな蛇。それはきょろきょろとあたりを見回したかと思うと、綿津見たちには目もくれず、自らの真横に倒れ伏したヴリトラの身体に、あろうことか喰らい始めた。その口は小さく、実際にヴリトラを食べているわけではないが、白蛇がヴリトラに喰らいつく動作をするたびに、その見た目に変化が生じていった。
まずその色が、どんどんと赤く変色していった。そして次に、その身体がどんどんと大きく、長く、太く成長していく。カミを栄養源として、その蛇は進化しているようであった。蛇はどんどんと異形になっていく。首元からは合計で七つの首が付き出しているし、それぞれの先端についた頭は、まさしく竜と形容するに相応しい。蛇には無いはずの脚は四本突き出て、大地をしっかりと踏みしめている。
「あの姿は……黙示録の……竜、か?」
その姿の完成形を見定めた峰流馬が、ぽつりと驚嘆の声を漏らした。彼の言う通り、その白蛇は今や全く違う伝承の存在に変質していた。七つの首に十つの角を持ち、大天使と闘う姿が描かれる赤き竜。
「カミが変質しただと……一体、何が起こってる」
綿津見は焦りを見せながらも、突き出した手を空中で握る。乾いた風を掴んだだけのその拳に呼応するように、竜の足元に出来た幾つもの水溜りが。その体に付着した泥水が、ぱきぱきと細やかな音を立て、それらは一瞬にして凍りついた。能力により液体となった砂______その一部が川の水に混ざり、諸共固体となった______つまり氷となったのだ。凝固の辻褄合わせに温度も下がる。滴る水は氷柱となり、鱗の隙間は濁った氷で埋まる。冷気が辺りを包み込む。
だが、氷などで龍の侵攻は止まらない。身じろぎと共に氷の枷は砕け、龍は真ん中の首で、ぼうっ、と小さく炎を吐く。理性を欲が打ち砕く様に、氷を砕く赤い棘鱗の姿。
雲が雷を落とした。だがその雷電は鉄柱を直撃することなく、赤竜の頭の一つを直撃した。目を瞑っていたその頭はゆっくりとそのまぶたを開ける。森賀が何かに察して後ろを振り返る。そしてすぐに、あるものをその視界に収めた。
「鉄柱が、彫刻になってる……!?」
河沿いにどこまでも並んでいた鉄柱は、その全てがローマ・コンクリート製の彫刻に姿を変えていた。凹凸ひとつもなかった黒い鉄柱に代わって、ありとあらゆる神々や、英雄や、皇帝たちの姿を模した真っ白な彫像がずらりと並んでいる。その様子は現代の美術館か、はたまた古代の神殿内部のような荘厳な雰囲気を醸し出す。
かつてヴリトラだったもの。今や黙示録の竜となったその身体に、ぽつぽつと雨が降り注ぎめた。水をせき止めるカミはもういない。乾いた大地に初めて降り注いだ雨粒は、新たな主を歓迎するように勢いを増した。
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一方その頃。
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振り下ろされた槌が地面に大きな亀裂を生んだ。湿度の高い空気に、舞い上がる土の匂いが混ざる。僕は気づかぬ間にヤイバに襟を掴まれ、後ろに引っ張られていたため難を逃れていた。僕自身の反射神経では間違いなく直撃していただろう。
「じゃ、自衛頑張ってね」
ヤイバはとん、と僕の肩を叩き、ハヌマーンに向かって駆け出した。彼が羽織った黒地の上着が、風で棚引く。
「まずは少年だな」
大きく振りかぶり、猿神の持つ大振りの炎様剣が空を切る。高い殺傷力と引き換えに機動性を失った重剣を、剛腕は軽々と使い熟す。
「っと、剣戟勝負かい?」
走るヤイバの両手に、それぞれ切れ込みのついた刃を持つ短剣が現れる。
「------刀破剣」
距離を縮めながも、両手の剣で炎様剣を受け止め、いなす様に受け流す。
「ま、流石に折れねえか……っとォ!」
間髪入れずに突き出されたカタナの刀身に短剣を合わせ、刃先をずらす。鉄と鉄がぶつかり合い、散った火花は薄暗い森中を一瞬だけ照らして消える。
「ほう、目は良いようだな」
また火花が散る。その剣戟に、僕はただ見とれる。
「後ろッ!」
ヤイバに向けての声では無い、と声に反射的に反応し、つまずく様に前に飛び出す。凶暴化した猿が飛びかかり爪を振り下ろし、先ほどまで僕がいた空間を引き裂いていた。僕は直ぐ後ろを振り返り、ポケットに入れていた石を思い切り投げつけた。鈍い音を立て、石は額に直撃し、猿は目を回して倒れる。すぐさま頭上から声。
「朔馬さん、こっちはこっちで手一杯だから!……っと、オマエが落ちろです!」
上から猿が降ってくる。落下の衝撃でのびた猿に、動く気配は無い。見上げれば、ミツがもう一体猿を蹴飛ばしているところだった。
「私は不死専門っていうか、逆に言えば有限の生に手を出せないの。とどめを刺そうとしても上手くいかない。注意をひきつけて戦う事ならできるけど……いよっとッ!」
そう言いながら、ズボンに括り付けたナイフホルダーから剣を抜き取り、樹上で器用にバランスをとって後ろ手で短剣を突き立てた。切っ先は飛びかかる猿に直撃したはず______だが、運悪く、脚に刺し傷を作るにとどまった。バランスを崩した猿は着枝に失敗し、また一体落下する。
ここは戦場。そのど真ん中なのだ。僕は急に動悸が激しくなるのを感じながら、後ずさり、後ろ手を樹に押し当てた。