夏の虫
ハヌマーンはインドの風神ヴァーユの化身とも、その息子とも伝えられている。インドでは息子に化身する神々が度々見受けられるが、ハヌマーンもその一人だ。英雄ではなく神として、物語の一端を握っている。ハヌマーンは同時に、猿の将軍である。彼は王子ラーマを助けるため、時に猿の軍勢を率い、時に単身、戦に身を投じてラーマを助けた。その秀でた武芸もさる事ながら、その弁舌さはインドの神話の中でも指折りだ。その叡智は将軍というより軍師のそれで、ラーマも幾度となく助けられた。
そのハヌマーンが今、僕の前に居る。四方を紅い眼に囲われる中、前方奥の茂みの奥に一際大きい瞳が二つあるのだ。その主がハヌマーンに間違いないだろう。月光が虹彩に反射するその眼球は、一種の探査灯を思わせる。ぎらりと獰猛に、少しづつ近づいてくる反射光は見るものの背中に悪寒を走らせ、潜在的な生存本能を舐めまわす。かかかかか、と何かを打ち付ける様な音も、次第に音量を増して近づいてきている。
「盗み出すという案は無しだ。闇討ちも無し。当面は倒すことも考えるな。三十七計目が思いつかないうちは、逃げることだけに専念しよう」
「逃げ切れるかしら。私だけならどうとでもなるけど、そうなると今度はヤイバと朔馬さんの安全は保障できないよ」
「三人で手を繋ぐか?」
「駄目よ。運も実力も必要なの」
「片手だと持てる刀も限られてくるからな……」
ミツとヤイバがなにやら話し込んでいるが、僕は事情を理解しきっていないがゆえにその話に混ざることができない。結果緊張を拭いきることができず、神経をすり減らしながら周囲を警戒しつづける羽目になってしまった。自分の眼球がせわしなく動くのを感じるが、視覚から過剰に供給され続ける危険の可能性は、焦りから煩雑になった処理能力をはるかに上回っている。
とうとう、最も巨大な猿が樹から地面に飛び降りた。小声で打ち合わせをしていた二人も、そして僕も、かの猿に注意を奪われる。いままで枝や葉に阻まれてよく見えなかったそれは、地響きと共に地面に降り立ったことで、月光のもとにその姿をあらわにした。
なるほど、やはり多頭だったのだ。先ほどのヤイバの話では、分裂し得る複数の性格を抽象的な意味でも頭という呼称を用いていたが、成る程。たしかにその頭、実際に複数個あっても不思議ではないのだ。二頭蛇は実在していると聞いたことがあるが、理論では成立する概念の実在をこの目で見るとなると話は別だ。逆にいっそう冷静になって、僕はその姿を観察することができた。
巨大な怪物の頭の数は五つだった。八面六臂には数字上届かないが、しかしその腕はといえば十本、つまり十臂である。そしてじめっとした大地を、その二本の太い脚と六本の華奢な腕で踏みつけ、その巨体を支えているのだ。正面に一直線に並べられた顔は五つあり、そのうち真ん中以外の四つの顔は、歯をむき出した猿のものだ。どれも紅い視線をこちらに集中させている。
そして正面には、ヒトの顔があった。不気味な三日月型に口を歪ませ、けらけらと笑っている。かかか、と先ほどの音の正体は、どうやらこの笑い声の様だ。
唯一の人頭______アジア系のその顔にも眼は有った。ただ色が違ったのだ。他の八つが攻撃的な赤色だったのに対し、その色は青。透き通るような蒼玉色は、背景に広がる密林に溶け込むような穏やかさであった。赤を暴力と欲望の象徴と捉えるなら、対する青は知性と理性の象徴だ。そのイメージに沿うように、人頭の顔はすこぶる賢そうに見えた。静かな笑みを目に浮かべ、こちらをじいと見つめている。
その視線に自分の視線を合わせてみるが、その蒼玉からは何の感情も、何の意志も汲み取れることはなかった。笑っているのはあくまで口元だけであり、その目は無表情そのものなのだ。彼は、狡猾さを体現するかの様に首を斜めに曲げ、またケケケと笑う。呼応する様に残りの四本の腕がきらびやかな武器を擦り合わせ、がちゃがちゃと音を鳴らす。
「なあ……、アレ……」
僕は思わず声を出す。ミツもヤイバも、僕の言わんとしていることが判っている様だ。武器を打ち鳴らす四本の剛腕。そのうち二本で大ぶりな炎様剣を握り、一本でこれまた大ぶりな日本刀を構える。そしてもう一本の腕で携えた武器に、僕らの目は釘付けになった
「あれが……嗚呼、本当に黄金なんだな」
それは弓であった。それは黄金の輝きを放っていた。月光の元でも尚、太陽と見間違うような瞬さを放っている。弦輪から本筈にかけて______つまり弓全体には、細かい装飾が施されているのがわかる。握と呼ばれる持ち手部分には真っ黒な革が巻きつけられ、太い指がその上にかかっている。
八つの赤眼と、二つの蒼眼。
「ヒトか。こんな森深くに珍しいな」
人頭から発せられた声は、驚くことに日本語だった。ハヌマーンが語りはじめると、ざわめいていた森も静かになり、猿たちも身じろぎ一つしない。ただ静かに、王の言葉の行く末を見守っている。
「王よ、私たちは通りすがりの者です。知らずのうちに王の領土を侵したことをお赦しください」
ヤイバが僕らの代表をし、口を開いた。仰々しくこうべを垂れ、丁寧な口調で返事をし、そのまま嘘八百を並べ立てる。
「私たちはこの森に逃げ込んだ不埒な輩を追ってここに参りました。王のもとに馳せ参じなかった非礼はお詫びいたしますが、私たちの目標とします行為は王になんら不利益をあたえることはなく、むしろ王の統治をより盤石なものにすることを宣言いたします」
よくもまあ回る舌だと僕たちの方が感心してしまうほどにすらすらと、あることないことなんでも並べ立てるヤイバだったが、黙って話を聞いていた異形の王は、やがて重々しい口を開き、あっけないほど簡潔に、その努力を徒労のものにした。
「ふむ……つまり欲しいのは弓というわけだな」
ため息をつくミツ。身長差のあるヤイバの肩に、残念そうにぽんと手を置いた。
「……バレてんじゃん」
「なんでだろ、視線かな。それとも……」
「王に隠し事は不可能と心得よ、刀使いの少年と、不死殺しの少女よ。宝石をため込む悪しき竜と我を形容した以上は、竜殺しとして汝らが目標を果たすがよい。……そして、そこの少年」
ハヌマーンの五つの顔の全てが、一斉に僕の方を向く。
「……力を示せ。さすらば道は開かれよう」
王は満足げに喉を鳴らすと、武器同士をがちゃがちゃと喧しく打ち鳴らす。その動作が合図となって、全ての猿が一斉に飛び掛かって襲い掛かってきた。
**
一方その頃、という言葉は御伽噺の常套文句だ。二つの場所で、時を同じくして起こる別の事象。お互いがお互いを知る由も無く、またどちらから先に語られても問題が無い、並行する二つの物語。だが往々にして、その二つは呼応し、交差する。これは黒乃朔馬に直接の関わりの無く、また最後まで知ることのない話。そして彼が舞台裏へ退いた後、確かに上映されたもう一つの物語。
一方、その頃。
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「さァて、朔馬君たちは行ったな」
バタンと閉まったドアに視線を向けたまま、綿津見はそう呟き、自らの中を渦巻く感情に自分なりの折り合いをつけようとしていた。彼には一つ、朔馬やヤイバたちに伝えていないことがあったのだが、それを伝えなかったことは彼の意志であったのだ。だから彼の抱いている感情は後悔でもないし、その内容を考慮したとしても自責ですらない。その中身は興味と、関心と、彼がいつか支払うことになるとある対価についてだ。だがもちろんそのことを、彼は他のメンバーにも伝えるつもりはなかった。
「ひとまず幸運は祈っておこう。それ以上のことはしないがな」
打つべき手は打った。彼の仕事は、後は静観するのみだ。
「……で、こちらは如何するのです?」
そんな綿津見の思考はいざ知らず、森賀が綿津見に質問を投げかけた。未だ作戦は、彼の頭の中から共有されていないのだ。
「罠をしかけて待ち構えるのも結構ですが、カノンが罠と判っている場所にのこのこと姿を現すとは思えません」
「ああ、だがこっちから向こうの懐に飛び込んでも埒が明かないのも事実だ。少しでも有利に働くかもしれない努力は、惜しむべきじゃない」
モリガンではないが、戦場の空には偶然の女神がいると彼は思っている。放った矢が敵の対象を穿つ偶然。闇雲に払った刀筋が、敵の銃弾を弾き返す確率。ごくごく微小ではあれども、それは確か存在する。そして努力とは偶然の確率を上げる事に他ならない。
「路地裏での戦闘報告を受けて俺は考えた。今まで幾度となく敗北を重ねた対カノン戦において、理恵たちが最低限の負傷で済んだ理由は、なにも朔馬君の禁書の存在や、黒猫がカミクチをする決心をしてくれたことだけじゃない。もちろん直接的な原因はそこにあるわけだが、着目すべきはもっと俯瞰的に戦場を見たときに発見される、地の利だ」
「地の利……確かにね」
佐口は綿津見の言葉を早くも理解したようだ。二人の間で目配せが起こった後は、彼女が代わりに説明を継いだ。
「たしかにその路地は、カノンの砦ともいうべき場所だったと思う。性質上影が潤沢に存在し、何の方法か限定的に循環空間を作り出し、要塞化すらしていた。でも遼たちがすぐに死んでしまわなかったのは、特に理恵の異能力と、その路地裏の相性が極めて良かった。つまり理恵が偶然にも地の利を得ていたからだというわけね」
佐口の言葉に綿津見は満足げに頷く。そしてそのまま目を閉じ、佐口に説明を続けるよう促した。
「私も直接視たわけじゃないから、断定はできない。でも路地は循環構造をとっていて、何度曲がっても同一の路地が出現した。それで合っているよね」
その都度黒猫や理恵が首肯するのを確かめ、佐口はまた口を開く。
「それらの路地は実際に無限に生成されていたと見ていい。観測者がその角を曲がるたび、新しい路地が過去の路地の上に上書きされて出現する。引き返した場合も同様だ。そして言わずもがな、循環する路地はそのどれもが全く同じでなければならない。循環小数に登場する数字列がどれも同じだから循環している、というのは帰納的な考え方にすぎないが、こういった類の細工はむしろ、演繹的にとらえる方が都合がいい。つまり、循環小数だから数字列はどれも同じだ、という思考を路地にも適応するのが望ましい」
「話が見えないんだけど」
理恵が文句を垂れる。遼は佐口の言葉をゆっくりと噛み砕いて理解しようと努力しているようだったが、確かに思考を放棄した黒猫はネコとなって部屋中を走り回っているし、森賀もちゃんと聞いているようでいて、いまや自分の髪をくるくると弄るのに夢中になっている。
「要は理恵に地の利があったから辛勝で済んだ、とそれを言いたいだけなんだけど。でもせっかくだから説明させてくれよ。前提はここまでで、今から本題に入るからさ」
佐口はわざとらしく指を鳴らして、ぼうっとしている森賀にも注目を促した。
「すべての路地は本質的に同じでなければならない。万が一異質な空間が生じてしまったなら、その路地だけが循環から抽出されてしまうからだ。だから理恵が水道管を壊したとき、その亀裂から水が出続けたんじゃないかな。その水道管には水が通っているという条件を満たし続ける必要があった、水道管の亀裂だけでは差異として認識されるには弱かった。でも水が通っていないとまで差が拡大してしまうとなれば話は変わってしまうのだと思う。その線引きのちょうど分かれ目となる要素だったからこそ、水道管に水はある意味で無限に供給されていた」
「だから私の異能が、カノンの影に対抗しうるほどまでの血液を生成できたということ?」
「そういうことよ。そしてそれは単なる偶然だった。今度はそれを私たち全員にとって必然にするの。そういうことでしょう、綿津見?」
彼から言葉は無かった。が、その顔に広がる満面の笑みは、彼女の推論がまったく正しかったことを示していた。