カミの容れ物
「神性の中には、多数の顔を持つ者が多く存在する。ハヌマーンもそんな神性のひとつとされているんだが、まずはこの顔というものについて少し説明をしておきたい」
ヤイバは先ほどと変わらぬ調子のまま先頭を進んでいく。ミツも特に警戒する様子もなくその後ろを歩いているが、さて最後尾の僕はといえば、得体の知れない恐怖に怯えていた。どこからか、誰かがこっちを見ている気がしてならない。それは先ほどの話であったハヌマーン自身かもしれないし、その配下の猿達かもしれない。確証は得られないがともかく、背中をちくちくと刺すような視線を感じるような気がして仕方がない。自意識過剰か、それ以上の事実か。
「……ハヌマーン本体の話は少し後に回したいのには理由がある。いわゆる神様という存在について、朔馬君がどう捉えるかを俺たちが強制するつもりは全くない。信仰心はその人その人違って良いものだ。だがアネクメーネに存在する怪異たちや上位存在なるモノについては、ある一定の知識と理解を持っていておいてほしいんだ。そのうえで本件に対処しないと、俺たちはかのカミに対して無礼な行動をとってしまいかねないし、それは俺の本意ではない」
「カミというと、異能力の起源存在ですよね。黒猫のカミクチの時に憑依していた意識」
黒猫の口で、黒猫の声で、彼女以外の思考が言葉となって吐き出されていたことを思い出す。
「……ああそうだ。神性、神格と聞くと、そもそも実在しているかどうかなんてしょうもない議論に時間を割かなきゃならんが、異能の起源が存在し、なおかつそれらが数多の神話との間に共通点が見受けられることは疑いようもない事実だ。だから俺たちは神格に関する議論は神話や伝承の話にとどめ、俺たちに直接関わりがある彼らを単にカミと呼称する。カミと神格は同じ存在なのかもしれないし、そうじゃないかもしれないが、そんなことを見極めるかどうかなんて、実際のところは後回しになるだけだからな」
実際まず最初に気にしなければならないのは、形而上の存在ではなく、目で見て、耳で聞くことができる存在についてになるという意味だ。
「とはいえ、普段カミたちがどこにいるのかは不明だ。その姿は表裏どちらの世界でも目撃されているにもかかわらず、俺たちはその足掛かりさえ掴んでいない。表におけるカミの目撃も、ヒトという容れ物を通した場合に限られている」
「それがカミクチだね。私たちの世界の中を、カミそのものが実体を伴って姿を現した記録は今のところは未確認、ですッ」
ミツもヤイバの話に相槌を打ちながら、短刀を振り回して帰り道の記号を付けている。
「それに少なくともここ数年間、それを謳った新興宗教はこの街で発生していないね」
「まあその件に関しては悪魔の証明になりかねない。明言は避けておくとしても、カミについてはこんなもんでいいか。じゃあ次はその性質、なかでも顔の数に関するものに焦点を当てる。有名な多頭神として、十字路の女神ヘカテーを例に挙げよう」
「魔術の女神……でしたっけ」
冥界に住む神格の一柱だったと記憶している。
「ああ。基本的にギリシア神話に登場する冥界の住人たちは、主ハデスを含めて多くが概念に過ぎない。彼らは後世の創作を経て人格神となったが、かつてはまさしく概念そのもの、死や夢、欺瞞や不和そのものであった。だがそれらの中でもひときわ目立つ存在が、女神ヘカテーだ。彼女は古代ギリシア神話の世界が構築されるはるか前から、土着の信仰を集めていた女神だったとされているから、その形成過程から既に他と一線を画していると言えよう。そして時は流れ、冥界の世界観の中に取り込まれた後でも、彼女が死後の世界に与える影響力は三本の指に入ったとされ、生前の人間ですら、神々への賛歌を捧げる際は女神ヘカテーへの尊敬を忘れない」
「そんなヘカテさまは、顔が三つある姿で描かれていることが多いです。ヤイバも私も、旅行で訪れた美術館でヘカテ像を見たのよ。ね、阿修羅みたいだったよね」
現地で偶然出会ったんだぞ、とヤイバは聞いてもない言い訳を焦ったように付け加えた。このやろ。
「ヘカテーは少女、婦人、老婆の三つの顔を持つと言われている。女性の一生の全ての顔を持っていることを表すこの三面こそが、彼女があらゆる時代、あらゆる世代の知識を有するヘカテーの性質を端的に表していると言えるだろう。他の説では、三つの顔は新月、半月、満月の三つを表しているだとか、天界、地上界、冥界の三つを指しているなんて言う人間もいるが、どの説でも共通しているのは、三つ揃って完全となる概念を、例外なく三つとも有するという事だ。多頭神はこのように、象徴的に複数の顔を持つことによって、万能とも形容すべき力を有する」
僕は黙って続きを促す。神話についての知識は一般生活に役立つ機会は少ないが、非日常に片足突っ込んでいる僕らにとっては、知識はまさしく力そのものとなる。
「さて、多側面の神格といえば、ケルトの戦場の女神だってそうだ。森賀の能力の起源であるモリガンは、マッハとネヴァンという二人の姉妹と同一視される。三人とも微妙に役割が違うが、大まかには戦場を翔ける死の女神として分類される」
「ネヴァンって、森賀さんのペットのカラスじゃなかったっけ」
マッハとネヴァン。新たに登場した神格の名前、特にその後者に僕は聞き覚えがあった。質問を投げると、その通り、とヤイバは満足そうに頷く。
「森賀は極力自分から動くことを避けたがるからな。人形やら虫やら鳥やらに感情を注いで、情報収集に遣うことが多い。その中でもお気に入りのカラスの名前をネヴァンとしたのは、モリガンである自分と共に行動する事で、異能の力を人工的に本来の神格に近づけようとしたからだ」
「……あのカラスには、懐かれなかった記憶がある」
「ははは、まあその個体とは相性悪かったんだ。他のネヴァンなら懐かれるかもしれない」
彼の話によると、ネヴァンと一口に言っても、その言葉自体が同一個体を指しているというわけじゃないらしい。
「カラスに感情を注ぐって言っても、その対象が同じカラスが対象とは限らないらしいぞ。アイツが好んで使役するのがカラスというのは事実だが、個体そのものにこだわりはない。そこら中にいるカラスのどれもが、森賀の感情の断片を落とし込まれることで『ネヴァン』という概念を付与される可能性をもっている」
戦いに勝利をもたらす殺戮の女神モリガン、戦場に狂気を撒く赤毛のマッハ、狂乱振りまき死を予言するネヴァン。その三つを合わせて、『戦場を舞う有翼の女神』という神話存在が確立されるのだ。なればこそ、自分以外の器−−−−−−カラスを『ネヴァン』とすることで、自らをより強固な存在にしたかったのだろうか。
それならば、もしかしたら。僕はかつて森賀さんから聞いた話を思い出した。彼女が使役する個体に対してつける、識別番号と個体名に関する話だ。自らが魔術を込めた糸を縫い合わせ、作り上げた分身ともいうべき人形。傀儡の家系がその技術の結晶として作り上げた人形に対しても、彼女は識別番号だけでなく、個体名を付与しようとしていたというあの話だ。
人形には魂がない。どれほど姿形がヒトと似ていても、感情が無いならそれは只のおもちゃである。でもそこに感情を吹き込めば話は別だ。マッハの名を冠し、彼女をサポートする筈だったのは、恐らく……。
僕の思考が沈み切る前に、ヤイバが口を開けた。意識がそちらに向く。
「……兎も角、神格は往々にして多面性を持つ。阿修羅、ダゴン、バアル、パールヴァティ。そして、四つの頭と一つの人頭の姿で描かれるハヌマーンもその例のひとつだ」
ようやく話が本題に入りつつある。ヤイバはミツに先に行くよう促し、僕の横に並んで歩いた。
「多頭は多性格の象徴だからね。彼は猿の将軍、つまり元々は戦にまつわる神格だった。かの神はその軍略をもって、主人公の王子ラーマを危機から幾度となく助けたとされている。だがその外見、種族から猿の神とも見なされ、現地インドではむしろこちらの側面が強調され、信仰の対象となっている。向こうの博物館なんかにはGod of Monkeyって書いてるしな。God of Warじゃ無かったよな、ミツ」
そうね、と彼女は短く相槌を打った。話を聞くと、禁書の回収任務でインドへ行ったことがあるらしい。その時、観光も兼ねて神話関連の遺跡も回ったのだとか。またか。またかヤイバ。
「この神様が生まれた土地です、みたいなネタで町おこししてるとこもあったりしたくらいだから。私たちよりも、あの国では生活にとって宗教や神話は近い存在なのよ」
先ほど自分が神話の知識を日常で使わない、と言った事を少しだけ恥じる。それはあくまで、僕らがそういう風土の国に生まれたからという、ただそれだけの理由だという事に気付いたからだ。
「……話が逸れた。ここからが問題だ。アネクメーネという世界に居る怪異たちは、ヒトの認識によって歪められた伝承の成れの果てだという話は、前に少しだけしたと思う。カミもその例に漏れない。彼らはカミクチによって表世界を歩くが、アネクメーネに現れる際にはその限りではない。カミはそれぞれが持つ伝承や神話をもとに姿をとり、自由にアネクメーネに現れることができる。そしてその姿は法則に基づき、元々のものから少し、いやかなり……」
しかしヤイバの発言は、途中で遮られることとなった。ドン、と何かが地面に落ちる音が、この密林のどこかから響き渡ったからだ。
「………来たよッ!」
ミツの飛ばした注意で思わず振り返れば、背後の草むらがさっ、と音を立てて揺れ動き始める。固唾を飲んでそこを見つめていると、今度は前方の木が大きく揺れた。そこに視線を向けると、今度は幹と幹の間から、こちらを見据える赤い二つの眼と視線が合った。ヒトに近い形相の毛深い顔。かなり大きいが、間違いない。猿だ。
背後の草むらからも、影が飛び出した。こちらは前方のものに比べると少し小さいが、それでも体長2メートルはあろうかという巨体。種族はアイアイだと思う。アイアイがそんな巨体になるなんて聞いたためしは無いが、ともかく目の前にいるんだから仕方がない。ギョロっとした二つの目と視線がある。だがガサガサっと音がそこら中で鳴り、周囲の草むらからどんどんと多様な猿たちが飛び出していくため、後方の巨大アイアイにだけ注意を向けるわけにもいかない。右にも、左にも、上にも、右にも、また右にも、姿を現す猿の量はどんどんと増えていく。
一瞬だった。気が付けば、僕らはすでに猿の大軍団に囲まれていた。周りに蠢く猿たちの全てが、鋭い歯と敵意をむき出しにして唸っている。そして前方の巨大な何かの目にも、ありありと敵意が見て取れた。
「……歪んでいることが多い。予想通り猿神ではなく軍神の面が強いようだ。だがアレスのような武勇の戦神じゃ無いな。アテナと同じ軍略の神だとは驚きだ。迂闊にも俺たちは、策に嵌められたらしい……死にたく、ねえなァ」
絶体絶命とも言えるこの状況に反して、ヤイバの顔にはまだ笑みが乗っていた。だがその目は笑っていない。噛みしめるように言葉を並べた後、最後の一言だけは、彼は口の中で小さく憂いを呟いていた。