片道切符
アネクメーネ。その言葉の原義が指し示す通り、そこはまさしく居住不可能区域だった。そう言い表すのに相応しいほど鬱蒼と茂る木々を掻き分けて進んでいく。舗装された道など当然無い。ミツはナイフで、霧隠は刀やら剣やらを使って先頭を歩き、道なき道をを切り開いていく。僕はといえば______その後をついて行くだけである。
「アネクメーネにこんな場所が……」
さっきから、僕の視線はずっと上を向いたままである。時々足を取られそうになりながらも、口はぽかんと開いている。草本、低木、亜高木、高木、そして視界のはるか先まで伸びる樹木からツタ類に至るまで、すべての高さの植物が共生しているという奇妙さがそこにはあった。中には、季節を無視して花が咲き乱れている樹もある。そしてなにより、その密集度がゆえにほとんど明かりが差し込んでいないという単純な事実が、その多様な植生との併存に矛盾として突き付けらているのだ。ここは一見地球上の奥地のジャングルのようでもあるが、その実はやはり異界そのものだ。
「君の後学のために付け加えておくと、アネクメーネは深度によって様相が違う。最上部が廃墟。続いて砂漠、密林、海底都市ときて、現在判明している最深部は地獄まで。調査が入っているのは大まかに分けてこの五つの階層だ。そしてそのそれぞれの階層が、さらに細かく、なおかつ曖昧に分割されている。その深度が高ければ高いほど。つまり『表世界との距離が遠ければ遠いほど』、日常や常識との距離が遠くなる。世界はどんどんと正気を失い、生息する魔獣や怪異、神格の類もより格が上がるって仕組みらしい」
ぺリュトンは古代ローマのプリニウスが著した『博物誌』に実在する生物として描かれているし、鵺だって平安の京都での逸話が複数件残っている。最上部である、廃墟のような階層に住まう神話生物は言ってしまえばその程度の存在に過ぎないのだ。人の目に多く触れるが故に、次第にその神秘性は薄れ、解釈の幅が広がることで『超常』としての存在が揺らぐ。
裏を返せば、触れてはいけない禁忌や、遭遇してはいけない宇宙意志。関わってはいけない神秘などの集積が、ここの奥底には眠っている。その深度が深ければ深いほど、眠りから目醒めてはならないものがある……のかもしれない。
ふと、夢見るままに待ち居たり、と怪奇小説の一節が脳の片隅で蘇る。いったいどこで何が眠りについているのか、今の僕には知る由もない。そしてそれは、きっと知るべきではないのだ。何も知らないうちに勝手に運命を決められるのは誰だって嫌だ。でも自分自身の手で、敢えてその運命を悪い方向に持って行く必要はない。よっぽどの破滅願望がない限りは、の話だが。
納得して独り頷いた僕が前を向くと、ヤイバはまだ講義を続けていた。
「……さて、話を戻そうか。今回探索するアネクメーネの深度が密林域になったのには理由がある。今回のお目当て〈金弓ブラフマダッタ〉は叙事詩ラーマーヤナにおいて王子ラーマが所持し、その英雄譚を支えることになった逸品だ。ラーマは弓の名手でな。ブラフマダッタ以外にも弓の逸話は数多く残っている。インドの英雄ってのは、みんな弓が好きだねェ!」
彼は刀で道を広げつつも、勢いよく空に切っ先を向け、その度足元に植物だったものが転がる。
「なんでわざと樹の幹に傷をつけてるんですか。樹の精とかに怒られたりしそうなんですが」
「ああ、かもしれん。でもそんなことよりも、ここで永遠に道に迷うリスクの方が圧倒的に問題だ。多少精霊の恨みを買ってでも、俺たちの帰路を確保しないといけない」
「図書館に辿り着く前、サタンに襲われたらしいな。あれは唆す者としての性質によるものだから、唆した相手が消失することで帰路が確保できる。その他の怪異がアネクメーネ側から侵入を図った場合に、〈禁書エリア〉の扉から迎撃する場合もそうだ。あの扉もなにかしらのオブジェクトのようでな。今回のように遠征に用いる場合は作動しないが、君が言うペリュトン狩りの時のように迎撃目的であの扉をくぐると、表世界への帰路が用意されるシステムが働いているらしい」
「帰路っていうのは?」
「君も経験した通り、アネクメーネから表への帰還は一瞬だ。身体が浮かびあがる感覚もなければ、霧の中の一本道を歩くイメージが頭を占拠するわけでもない。ただいつのまにか、帰ってきているものだ。俺たちは日常に属する人間であると、ただそれだけが俺たちを表世界へ導くことができる。だが今回のようなケースは、本質的に違う」
会話しながらも、両手の刀は常に動き続ける。風で揺れてるだけに見えていた緑のツタは、どうやら意志を持ってこちらに襲いかかってきているようだ。だがその攻撃は届くことなく、ヤイバによって斬り伏せられている。背後に目でもついているかのような正確さを保って自在に振り回される刀に、僕は思わず目を奪われた。
意志を持って襲いかかる木。木々を傷つけているのは僕らである以上、こちらが危害を加えられるのは仕方ない。だが僕だって自分の身は可愛い。守るために戦うという一種の矛盾を矛盾と認めず心の中で割り切った僕は、足元に落ちていた石を拾って護身用に幾つかポケットに入れておくことにした。
立ち止まっては危ない。慌てて彼らの後を追う。そのなんとか弓を手にするまで、僕は武器未所持の一般人となんら変わりない自覚を忘れてはいけない。人生周回者だからといって、大それた力があるわけでもないし。
武器は過信を招くとよく耳にする。武器や防具に囲われた人は、自分の力を大いに見誤ると。だが、自分の命を守る術として。または少しでもみんなの役に立つために所持する武器は、いずれ役に立つと信じたい。
「……ヤイバ。話途切れてる」
ミツが呆れたように短刀をちらちらと振る。鎬地に細い月光が当たり、キラリと妖しく反射した。
「……おっと悪い悪い。さてどこまで話したかな、そうそうラーマだラーマ。彼はヴィシュヌ神の化身でね、紆余曲折あって魔王ラーヴァナを倒す旅に出るわけだが、そこで彼を手助けするのが、猿の将軍ハヌマーンだ。名前くらいは聞いたことあるだろう?」
ハヌマーン、という言葉が彼の口から出た瞬間、ざわりと森が蠢いた気がした。木の葉が擦れてがさがさと音を立て、耳を澄まさなくとも、どこかで何かがキーッと鳴く声のようなものも聞こえる。その反応はまるで、その名前をこの場で声に出しただけで、その行為そのものが力を持つかのよう。視界に華やかな彩を添えていた桜やら椿やら紅葉やらが、突然不穏な風に揺られて散っていく。
ハヌマーンという名前は、僕も聞き覚えがあった。ただそれはゲームに登場する敵モンスターの名前であって、勇者に味方する助っ人では無い。僕の中のハヌマーン像は、その時点で既に歪められていた。
「ハヌマーン自身も風の神の化身だが、幻獣としての側面が強調され、アネクメーネ密林域に生息しているという目撃例が、魔術連盟の報告書に記載されていた。そこで俺たちは、ある仮説を立てたんだ」
僕が前回遭遇したフェニックスは、美しい永遠の鳥ではなく、賢王ソロモンの使役する魔神の一柱としてのモノだった。火より出で、灰より復活する気高き皇帝の象徴は、その属性を面影として残したまま、歌い、詩を奏で、死を憂う魔となって舞い降りたのだ。猿将ハヌマーンについても、歴史が流れるにつれてその性質が変化して伝わり、現代のヒトの解釈を基盤として存在が確立されるに至ったのだろう。
「共有の魔具リストに記載されていた〈金弓ブラフマダッタ〉の目撃例も密林域だった。もしハヌマーンがラーマとの冒険譚の記憶を未だ少しでも残しているのならば、たとえ理性を失ったケモノに成り下がっていたのだとしても、かつての主人の匂いは覚えているはずだ、とね」
ヤイバが立ち止まり、振り返って僕を見る。腐葉土をぐっと踏みしめる音が、枯葉の破れる音と一緒に耳に飛び込む。森のどこかで鳴く蝉の声までもが、耳の中に刺すように流れ込んでくる。
「理性がない分、その野性的思考が脳内を占める割合は格段に高い。だとすると猶更、本能のままにインドゆかりの魔具を収集していてもおかしくはない。いや、偶然にも近隣の階層に存在するんだ。間違いなく回収しているに違いない。さながら、自らの巣に宝石をため込むドラゴンのように」
だからこう結論付けたんだ。『ブラフマダッタは彼が持っている』とね。
そう彼は締めくくった。今度こそ明確に森がざわめく。意思を持つ生き物の体内にいるような感覚に襲われた僕は、ハッと後ろを振り返る。遠くから聞こえる金切り声。猿の声は、幻聴というわけでは無いようだ。