記憶の中に這い寄る■■
弾かれるように後ろに跳び退くカノン。その後ろに、蠢く残りの影が追随し、辺りを包んでいた暗闇は少しづつ、水が引くように晴れてゆく。
『鹿の群れを呼んでも構わんが、馬が二人もい■は馬鹿ばかりで面白く■■のでな』
黒猫の一言に唸り声をあげた影鰐が、牙を見せて空を見上げる。その視線の矛先は言わずもがな宙を舞う人形。黒猫は颯爽と背に飛び乗ると、影鰐はぬらりと体の向きを変えて、音も無く空を泳ぎだした。その素早さは蛇の様。だがそれでも、どこまでも続く一本道を走って逃げ続けるカノン本体には、その牙は届かない。とはいえ、その周りを包むヴェールの端になんとか追いつく。
「俺たちも追うぞ。見届けないと」
遼に促され、僕たちもその後を追う。負傷した森賀さんは、理恵が血液で作った担架の上に乗せることになった。
「なんで担架なんだよ?」
既に走り出している遼の背中を気にしながら、僕と理恵は森賀さんを寝転がらせる。
「つべこべ言わないの朔馬、はい持ち上げるよ。平行にしないと森賀が落ちる」
「困りますよ」
「それなら僕が」
しゃがみ込み、深紅の担架に手で触れる。僕の異能を利用すれば、わざわざ持ち上げて運ばなくてもいいはずだ。
「良いこと思い付いた。ついでに私たちも運べばいいじゃん」
理恵はコートのポケットからペットボトルを取り出し、キャップを開けて中身をこぼす。透明な水は落下途中に赤く変色し、森賀さんの寝転がる担架をさらに広くした。
「強度に関して保証はしません」
「走るよりマシ。行くよ」
異能を起動させる。僕たちが乗った担架は地面すれすれを高速で飛び、前を走る遼になんなく追いついた。
「お、俺も乗せろ」
「先に走り出したのはそっちだろ」
スペースを確保して、並走する遼を引っ張り上げてやる。
「魔法のじゅうたんに乗る日が、まさか来るとは思わなかったな」
気を取り直して、僕らは前方の状況を再確認する。執拗に、まるで怨念でも込めるかのように噛み付いて食み、影の残滓を喰らう影鰐がそこにはいた。そして心なしか、黒に塗りたくられたその体は、少しづつ影を呑み込むごとにその艶めきを増していくようにも見えた。影鰐が怪異のひとつに数えられるのは、その体格でも凶暴性でもなく、影を食べるというその一点に尽きる。ならば影を食べるという行為そのものが、影鰐という存在をより強固にするのだ。
一方、追われる側であるカノンは、影で造った即席の翼で、こちらも跳ぶというより飛んでいた。後ろを振り返る彼女の視界には、少しずつ少なくなっていく影のヴェールを手繰り迫る影鰐。そして不敵に口元を歪ませる黒猫。素早く交互に見比べ、カノンははぁ、と溜息をつく。
「しつこいですね……!」
カノンはそう呟くと急停止し、慣性の法則に取り残された影が彼女を包む。次いで瞬間、影鰐の牙がその座標を引き裂いた。がちん、と歯が噛み合わさる音が響く。
「喰った……のか?」
影鰐の身体は急停止した。それをうけ、僕らを乗せた担架も停止させる。
『……下がれ』
無言のまま影鰐の背から降りた黒猫は影鰐に短く退去を命じると、笑みを見せることも、こちらを向くこともせず、ただ虚空を見つめている。影鰐が暗闇に文字通り溶け込んだのを見た僕は、黒猫に駆け寄ろうと身体を動かす。だが、遼がすぐさま手を伸ばし、制止された。
「黙って見てろ。何か……変じゃないか?」
「変って、何が……」
『……』
訪れた変化は一瞬だった。彼女の足元から延びる影が隆起したかと思うと、どんどんと浮かび上がり、次第にヒトの形をかたどっていく。
(不味い……!)
黒猫は未だ虚空を見つめている。彼女の背後に音もなく現れようとしているのがカノンであることを直感的に悟った僕であったが、声を出すにはもう遅すぎる。影は握りしめた鎌を大きく振りかぶり、黒猫の頭頂めがけて背後から勢いよく振り下ろしてしまう−−−−−−。
『捕ま■た』
鎌は空中で止まっていた。影はすでに色を取り戻し、驚愕の表情を浮かべるカノンがそこに立っていた。彼女は間違いなく全体重を腕にかけているが、それでも鎌はぴくりとも動かない。その柄を受け止める棒のような何かが、黒猫から延びていることに気付く。そして僕は、それが猫の尻尾だと理解した。やがて、黒猫が振り返る。
『この娘の仕込みが効い■ようだな。尻尾は何かと便利だと、ヒトはまあ知らないだろうよ。さてそれでは少し、お前の記憶、見せても■■ぞ』
カノンの頭にゆっくりと手を伸ばす黒猫。恐怖で目を見開く彼女の顔を影が覆い尽くし、前頭を鷲掴みにする。だがすぐにその手を離すと、乱暴に突き放した。彼女の目に、はじめて感情の色が見えた。恐怖、と形容していい色だった。
『矢張り、矢張りオマエか■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■!』
後ろに数歩よろめいた黒猫が、頭を押さえながら何か騒いでいる。だがその言葉にかかるノイズはその量を増し、もはや何を口走っているか、僕らには判別できない。
『邪■をす■な、この■■■■■■■……」
黒猫の身体が、何の前触れもなく、張っていた線がプツンと切れるように後ろに倒れた。彼女に突き飛ばされたカノンは既に体勢を戻していたが、彼女の乱れように困惑の表情を浮かべていた。
「へ、黒猫ッ!」
無防備に地面に倒れ込んだ黒猫に走り寄る。理恵が彼女を助け起こし、僕と遼はすぐさまカノンに注意を向けた。だが当のカノンは、もう攻撃の意志を見せていないようだった。彼女は自分の両手を見つめて、ぶつぶつと何かを呟いている。
「ねえ何を、見たのよ。私の記憶の中に、一体何が……」
やがて、僕たちの視線に気付く。
「今日はお開きです。一刻も早く、その女を連れて、私の視界から消えて」
カノンが指を鳴らすと、僕たちが走ってきた長い長い通路はみるみるうちに縮みだした。空の色は青から夕がかり、紫の入り混じったオレンジに染まっていた。背後の奥から、雑踏のざわめきも聞こえる。
「さぁ、早く」
忌々しげにこちらを睨むカノン。まだ警戒を解けずにいると、遼が僕の肩をぽんと叩いた。
「行こう。心配しなくていい」
彼が顎で示した先では、理恵が森賀さんと黒猫の二人に肩を貸しながら、既に歩き始めていた。僕は少し迷っていたが、最終的には遼の言葉を信じることにした。
「でも、こんな傷だらけで街を歩いて不審に思われないかな」
「傷なら私が治せるわ。それより遼、黒猫の肩もってやって」
「誰か私に上着貸してくれません? 私の服、流石にボロボロすぎなんですけども」
「仕方ないわね……」
最後に僕はもう一度だけ後ろを振り返った。薄暗い暗闇の中に、カノンはまだ立ち、こちらをただじっと見ている。その目の奥に一瞬だけ、何か新しい感情が芽生えたような感覚を、僕はその時掴んだ。それが羨望の色だと気が付くのは、もっとずっと後の話になる。