形容するに
跳躍とは、即ちジャンプの延長線に過ぎない。脚の筋肉の伸縮と地面からの反発で空に浮き上がり、その後重力に従って着地する。この全てが合わさっての跳躍であり、最後のプロセスたる着地が存在しない場合は飛行と呼ばれる。
黒猫の行動は、飛行と形容するに相応しいものだった。跳躍−−−−−−それは、猫の代名詞とも言える動作ではあるが、その規模からみても、それは飛行と呼ぶに相応しい。そのまま空の向こうへ飛んで行ってしまうのでは、と漠然と考えてしまうほどの跳躍。
空高く。
譲渡します、と彼女が唇を動かした瞬間、彼女の姿は既に地上になかった。眩しい月光が何かによって陰ったことに気付き、顔を上げて初めて、黒猫が跳んでいたことに僕は気が付いた。そしてそのシルエットを見て、僕は彼女の頭に、先ほどまではなかった猫耳の存在をみとめた。
カノンが一瞥で威嚇の意をみせる。その思念は異能の力を借りて矢となり槍となり、四方八方の暗がりから射出された。生きているかように蛇行しながら進んでいくそれらの標的は、言わずもがな黒猫だ。
ジャンプ中に身体の動きを制御する事は容易では無い。たとえ出来たとしても、その動作は微々たるものである。空中でどれだけもがけど、ヒトが出来る行為など限られている。
だが飛行は違う。目的を持たず、ただ重力の為すがままに落ちるしかないものを跳躍とするならば、目的を持ち、己が意思で翔けるものが『飛行』である。
黒猫は、空中でもう一度跳ねた。空気の圧力を変化させ、わずかな時間だけ造った即席の足場を蹴り、黒猫は数十本の矢と槍の豪雨を見事に避けきる。
「凄い......」
感嘆の言葉が、自然と僕の口からこぼれた。もっと他に形容詞があった筈だが、あまりの光景に僕は言葉を失っていた。彼女の影を追って視線が空を縫う。かわしきり、攻撃の手が止むと、黒猫は片足で静かに、ぺリュトンのひたいの上に着陸した。わずらわしそうに頭を振り回すペリュトンであったが、黒猫が体勢を崩すことは無かった。
「−−−−−−余所見できる状況?」
カノンも、黒猫の放つ無言の圧力に意識を奪われていたようだった。理恵のレイピアが一閃突き、それは不意打ちに近いものとなったのだ。カノンは右手の中で鎌をまわし、すんでのところでその切っ先をずらしたが、今度は刀身から、追尾弾のようにいくつもの薔薇の蔓が延びて、鎌刃に纏わり付いた。
「小癪なッ……!」
もう一度手の中で鎌を回し、蔓をすべて切り刻むカノン。
距離をとって中距離武器の真価を発揮するため、カノンは理恵との間に余白を生み出すべく後退する。そしてすぐ、周囲の違和感に気づく。不自然な空白がある。本来移動できる筈のない座標に彼女はいたのだ。先ほどまで自身がいる位置には、障害物があったことに彼女は気付く。
「また空ね、臆病者ッ!!」
風音の中にかすかな羽音を聞き分け、咄嗟に視線を上げるカノン。はたして彼女の予想通り、月光を背景に、ぺリュトンに跨る黒猫の姿が夜空に見い出された。その姿はペガサスに跨るベレロポーンの如く、神代の再現と形容するに相応しい。
月を背後に空に浮く黒猫の眼には、意志以上の何かが宿っていた。彼女までの距離が遠いのもあって直視は出来ない。何が宿っているかは判別がつかない。だが先ほど彼女から感じた『空白』は、その雰囲気からも、その目からも、既に見出すことはできなかった。そこには確かに、彼女が、彼女の姿をした何かがいる。
『目障■、■■が−−−−−−』
少しノイズの混じってはいるが、紛うことなき黒猫の声が、唇から溢れ出す。その言葉を契機に急降下したぺリュトンは、ただ一人カノンだけを狙う。
「ちょちょちょ......!」
とはいえ、滑空しながらの噛みつきはそれ自体が範囲攻撃となった。翼を持った巨体が高速で駆け征くのだから、当然近くに居る理恵までも被害を受けそうになる。
「ってうわッ!……っとっと危ないなァ」
間一髪跳び退いて翼による斬撃を避けた彼女。御者を得たこれ以上の戦線残留は不可能と判断したのか、理恵も後方へ退却してきた。
「これが作戦?」
「そうだ。文句あるか?」
「シンプルで好きよ……。けど、よく黒猫が承諾したね」
「朔馬に免じて、だそうだ。おい朔馬、何か思い当たることは無いか?」
「ないことはない……けど。なァ遼、そもそもカミクチってのはどうして危険なんだ?」
暴れまわってカノンを攻撃するペリュトン、その背で表情一つ佇む黒猫の姿へ視線を移す。カノンは影の鎌や槍で騎乗者を傷つけようとするが、それらを片端からペリュトンが喰らっていくのが見えた。
「わからん。わからないという事それそのものが危険なのがカミクチだ。未知への恐怖からほとんどの能力者が実行しようとしないから、考察を立てようにも実例が少なすぎる。だからそもそも、黒猫が話したカミクチのメカニズムは有力な説の一つに過ぎない。カミクチを行うと何故だかわからないが、異能力者は何者かに肉体の管理権を譲渡することが出来る、これだけは確かだ。今までカミクチを行った能力者は、それを代償に異能力以上の権能を発揮するようになったが、そのうち何人かは死ぬまで元に戻らなかった」
「元にって……」
「元の人格に、だ。未知の言語で話す者、意味不明な言葉を並べる者、以前の記憶すら保っていない者も見られた。肉体の管理権を返して貰えなかったと考えれば辻褄は合う。管理権の譲渡はこちらの任意、管理権の返還はソレの任意、というわけだ」
「じゃあ、今の黒猫は」
「ああ。彼女はおそらく、俺たちが知っている彼女じゃない。もし黒猫の説が正しいとすれば、いま彼女に宿っているのはエジプト神話の女神、ということになる」
『■の話をし■■るな、そこの少■』
黒猫が、否、黒猫の形をした何かが、ぐりんと首を傾けてこちらを睨んだ。彼女はペリュトンの背中から飛び降りると、カノンに背を向け、スタスタとこちらへ足早に歩み寄ってくる。
「な、舐めないでッッ!」
侮辱とばかりに声を張り上げたカノン。無防備な黒猫の背中へ、無数の黒矢が降り注ぐ。だがその全てが、被弾直前に見えない壁によって阻まれた。無惨にも全ての弾がぱらぱらと地面に落ち、影に溶けゆく。
『ああ、貴様、まだ死ん■■ないのだな。そも■■生きて■ないから判らな■■■■』
ノイズが混じったその言葉は、カノンの顔色を一瞬にして曇らせた。
「なん、ですってッ?」
怒りに震える声を抑え、両手にそれぞれ一本ずつフレイルを作り出すと、カノンは勢いよく飛び掛かる。
「訂正、しろ!!」
黒猫は振り返りもしない。穀物と呼ばれる打撃部分が風を切り、黒猫の頭頂を打ち砕く−−−−−−寸前に、ペリュトンが力任せにカノンに体当たりする。攻撃は逸れ、カノンは吹き飛ばされて地面に倒れ伏した。黒猫は何事も無かったかのように振り返る。
圧倒的な、力の差を見せつけられている。
『身の程を弁えろ、成り損■■。ヒトにも■■にも成り切れぬなら、せめて六時の守護霊くらいは味方に■■たらどうだ。お前の背後に憑いた■■は、お前の想像以上のタチの悪さだぞ』
「あンたに何が……判るのよッ!」
口から一筋の血を流し、憎悪を込めた言葉を叩きつけるように吐き出すカノンだったが、彼女を見る黒猫の目には、同情など一かけらも存在しなかった。
『言葉を届けようともしないで、都合の悪■時だけ自分の主張が■■■と思うなど虫が良いにも程がある。そこで黙って這いつくばっていろ、成り損ない』
翡翠の前脚が、カノンの背中を踏みつける。反射的にぎゃっと鈍い悲鳴を上げたカノンだったが、彼女にかかる体重はほとんどないようで、彼女はただ身動きが取れない状態で束縛されているようだ。しばらくすると、カノンは抵抗するのを諦めた。
『……ようやく静かになった。鬱陶しい妨害も収まるだろう。……なんだ、私の話をしていたのではなかったのか。続けたらどうだ、少年』
僕たちの目の前で立ち止まった黒猫は、遼の顔を見て首をかしげる。遼はその迫力に気圧され、言葉に詰まっていた。
その顔、その服装、その全てが黒猫のものそのものであるはずである。なのに、目の前にいる存在は、間違いなく彼女そのものではないという確信を、隣に立つ僕は持っていた。すると今度は、黒猫は僕の目をじっと見つめる。
『私が誰か、など些細な問題に頭を悩ませるな。私はこの娘が私を呼んだから来た。それだけのこと』
「協力して、くれるんですか?」
遼が、緊張を交えながらも声を出して黒猫に話しかける。素っ気ないが、長い反応が返ってきた。
『さあな。どの行動が少年にとっての協力となるのかなど、私には興味が無い。私は私の目的を果たすために動く。本来ならヒトの身体になんぞに降りてきたくは無いのだが、埃及の私ではなく、幻夢郷の私が介入しようとの判断を下したのだ、仕方ないだろう。そして、せっかくの機会だ。この娘に免じて、少しなら手伝いもしてやってもいい」
「対価は、何でしょうか」
僕はおもむろに口を開いた。彼女は、カミだ。世界を作った者でもなければ、雲の上に住む老人でもない、僕たちが普段漠然と考えている『神』ではないかもしれないが、人を超えた何か、という点においてはまさしく神と形容してもいいだろう。そしてもしそうならば、カミの助力を受けるヒトは、なにかしらの対価を差し出さねばならない気がしたのだ。
『対価、か。そうだな。私は私の目的を、自分自身で最後まで遂行することが出来ない。だから少年たちに、その遂行を協力してもらおうと思っている。これが対価だ』
「それは、何?」
『それを伝えられたら苦労はしないよ、少女よ。■■■■■■■■■、■■■■■から来たる■■■る■■、君たちが黒幕と認識している者が私の敵だ。さっきから私に干渉して、発声プロセスを妨害しているこの■■■■■を、この■から退けておきたい』
僕らの表情を見た黒猫は、やっぱりと言わんばかりに自慢げな表情を浮かべた。
『聞きとれなかっただろう。仕方ない、そういうことだ。成り損ないの人形が干渉の中継器だったから、少々細工して妨害した。これで発声自体は良好になっているのだが。とはいえそれでも根幹の情報は伝えさせてはくれないようだ。ますます一刻も早く、この■から去ってもらわなければならないな』
話は終わりだ、と一方的に会話を中断し、黒猫はまたきびすを返して戦場へと歩み寄っていく。その後姿を、僕たち四人はただぼうっと眺めることしかできなかった。かのカミは情報を与えてくれているようで、ますますわからないことばかりを増やしただけな気もする。
黒猫はペリュトンの目の前で立ち止まる。足元で這いつくばるカノンに一瞥を向けると、突然ぺリュトンの首筋を力強く掴んだ。その細い指は喉仏に深く食い込み、長い爪がぺリュトンの皮膚を貫通する。ぺリュトンが苦しみのあまり吠え、膝をついた。悲痛な残響が谺した。
ぺリュトンは呻き、もがき苦しみ出す。脚も乱れる。カノンはやっとのことで束縛から解放され、跳び退いて距離をとる。そんな彼女をよそに、みるみるうちに、ペリュトンはその姿を変化させていく。頭の角は奇妙に変形し、翼は捻れ、長い脚は縮んでゆく。体格は少し平べったく、身体の表面にはごつごつした鱗が浮かび上がる。
直後、バキッ、と不快な音が響く。ぺリュトンの首が折れたようだ。不自然に曲がった首が大きく歪み、伸びていくのがはっきりと見える。もう叫び声すら上げなくなった虚ろなぺリュトンと目が合い、僕は思わず小さく呻いた。
『では、私は私の責務を果たそう。私の眷属は猫科だが、そうでないモノでも統べることくらいはできる』
今やぺリュトンはその原型を留めていなかった。4本の脚は短く太く、平べったくなった体には鱗が並んでいる。翡翠の煌きは既に無く、ペンキで塗りつぶしたような黒が包んでいる。その頭は長く伸び、口の隙間からは鋭い牙が見えている。
『影を食らうのはペリュトンだけでは無い。遥か東方、ここ大和の聖域。出雲国に伝わる伝承に、海に映る船乗りの影を喰らう鮫の妖怪の逸話があってな。その地域では鮫を鰐と呼び、今まさしく此処は血と影の大海原に他ならん』
影鰐よ−−−−−−そう黒猫は呼びかけると、彼女がまたがっていたぺリュトンの残骸は、新たな命を吹き込まれ、動き出す。
『■■の傀儡が。殺せはせずとも、其の影、喰らうてやる』
彼女の言葉に呼応するように、今や見上げるほどの巨体を有する影鰐が大きく咆哮する。苦悶の表情を浮かべ、恐怖で目を見開くカノンがさらに跳び退いて離脱を図るのと、影鰐が飛び掛るのは同時だった。




