闘争<逃走本能
「いくら吼えても畜生は畜生。束になってかかったとしても、この私に敵うとお思いですかッ!!」
カノンはそう吠えると、背後に広がる暗闇に手を伸ばす。虚空から黒く染まった槍を勢いよく引きずり出すと、翡翠の鹿へと投げつけた。槍は空中で散開し、斬撃は無尽に増えて降り注ぐ。一方、見上げる理恵が短く舌打ちすると、彼女の足元の血溜まりが蛇のように波打ち、半球状にぺリュトンを覆った。影矢は血の盾へと吸い込まれ、すぐさま血は液状に戻る。
「だからって、そう簡単に殺されちゃ堪んないわよッ!」
理恵の言葉と共鳴するように、ペリュトンの身体に降りかかった血は体毛を濡らしながら蠢き、馬鎧の形で固形化する。装甲を得た魔獣は煩わしそうに首を振ると、当たり構わず角を打ちつけた。
「黒猫あんた、動物と会話できるんじゃなかった?」
「アネクメーネの怪異は嫌いなのよ。土星の猫と同じニオイがするから……よっと危ない」
振り回す尻尾を華麗に避けた黒猫は、そのまま姿勢を落としてカノンとの距離を詰める。
「うっかりあンたが死んでくれればッ……」
黒猫が指先をぴんと立て、二本貫手で首を狙う。手の爪はみるみるうちに伸長して鉤爪となり、二本の刃はカノンの首を穿った。
「そうは上手くはいきませんよ」
「だよねェ……」
カノンの首に巻かれた黒いチョーカーが変形し、爪の攻撃を逸らしていた。彼女が身に着けているチョーカーも、イヤリングも、あらゆる装飾品は固形化された影によって生成された護身用具なのだ。急所へ向けた攻撃は、それらに阻まれてしまう。
「ほら化け猫さん。うしろ、がら空きですけど?」
カノンの視線の先。黒猫の背後には、今度こそ獲物を捉えるべく、口を大きく開けて迫り来るぺリュトンの姿があった。カノンは少し距離があるため避けられるだろうが、黒猫は、対応するには近過ぎる。彼女は振り返ることなく、その殺気を感じ取った。
「くッ……!!」
黒猫が身をかがめるが、ペリュトンの一口はサイズが大きすぎる。しゃがんだ程度で避けられるものでは無い。一瞬の後あたりに響いたのは、歯を噛み合わせた鈍い音だった。
ぺリュトンは確かめるようにかちかちと、捉えたはずの獲物の食感を探して何度も噛み合わせている。そしてその体躯の下には、もぞもぞと動く小さな影。
猫だった。黒猫は、小さな猫の姿となることで攻撃を回避していた。着地し、脅威をひとまず回避したことを視認した彼女はこちらに走り寄る。途中、追い討ちをかけるようの影製の黒矢が射出されたが、猫は難なくそれを避け、前方に居た理恵の股下をくぐり抜けると、僕の腕の中に飛び掛かった。今度はしっかりとキャッチすることができた。
「ちょっとッ! この変態猫が」
黒い毛並みの猫は僕の腕に居座ったまま軽く舌を出すと、もぞもぞと動いて僕の方を向き、そのまま人語で話し出す。
「たはははは……。でもまあ、流石に…………」
吸い込まれるように目が合う。意識の全てが、その深い深い灰と黒の眼に惹かれていく。
「流石に、ちょっと疲れたにゃ」
彼女は、僕の腕の中でいつの間にか人の姿に戻っていた。
彼女は体重も何も変わらないまま変身を遂げた。同い年くらいの少女を抱きかかえている自分に気付いた僕は少しドキッとしたが、彼女の腕にいくつもついた切り傷が嫌に目に入り、浮ついた気分にもなりきれなかった。彼女はたぶん、『ちょっと疲れた』じゃ済まない疲労の中にいるはずなのだ。
「う……」
無下に扱うこともできず、僕は困って視線で遼に助けを求めた。遼はため息をついて、おい、とぶっきらぼうな声を上げた。
「あー、腕の中ですやすやお眠りコース中で悪いが、黒猫。お前さんにはもうちょい働いてもらわなきゃならん」
眠りを妨げられた黒猫が、不服そうに眼を見開く。
「理恵には引き続きぺリュトンで時間稼ぎをしてもらうが、お前さんには別計画を伝えなきゃならない」
「何、私はまた仲間外れなのね。相変わらず酷いなぁ、遼ちゃんは」
僕らより少し前に立つ理恵が小さく笑って振り向いたが、彼女はすぐに正面のカノンに視線を戻した。ぺリュトンは今度はカノンを狙い続け、それらの回避の合間に放たれるカノンからの攻撃は、理恵の操る血液が上手く被弾を防いでる。
「良いですよ。適材適所は私たちのモットーだもんね」
理恵からポケットから小型ナイフを取り出し、右の手首を軽く切る。彼女の腕からつう、と流れ出した血は、レイピアのような細身の長剣を形作った。そのまま片手で一本の線香をポケットから取り出すと、レイピアの剣身で勢いよくこする。上がるはずのない火花が散り、一陣の煙があたりを漂い始める。
「出し惜しみは無しよ。私には、私の戦い方がある」
**
「で、その『計画』って何よ?」
黒猫が露骨に嫌そうな声を出し、腕の中で不服を主張せんとばかりにじたばたと暴れる。睡眠を阻害されたのだから怒って然るべきなのだが、そもそもどうして僕が抱きかかえているのだろう。重くないから抱えることそのものは苦痛ではないが、暴れているのは猫ではなくヒトである。危ない危ない落っことしちゃうってば。
「…………私は床に捨てられて、猫はお姫様抱っことは。この格差や如何に、です」
ぽつりとか細い声が背後から聞こえる。若干嫌味がかった口調は弱弱しいが、その底には強い意志が感じられた。
「森賀、目が覚めたか。不服なら俺がおぶってやってもいいぞ」
「帰路は頼みましょうかしら。でも今は、結構よ。背負われても前線に立てるわけではありませんし」
そう言いながら、森賀さんは壁に手をつきながら立ち上がる。
「峰流馬、あなた、朔馬さんから事情を聞いたのね」
頷く彼の顔をじっと見つめた後、彼女は今度は自分の手をまじまじと見つめ、付け加える。
「私から言うことは何も無いわ。弁明も、釈明も、謝罪もしません」
「もちろんだ。お前に非があるわけじゃないことは重々理解しているからな。安静にしてしばらく休んでろ。その代わり、ここを抜け出したら質問にはきっちり答えて貰うからな」
「あら、ここから逃げる術を見つけたかのような言い回しですね。私は、あの裏切り者を殺す他ないと思って……」
「それで、独りで、平たく言うと返り討ちにされたわけだ」
オリジナルは私なんですよ、と森賀さんは遼に噛み付く。
「でもあの人形は、私の管理下にあった時よりも格段に能力が向上しています。戦闘、知能、気配探知、読心術、全てに於いてです。最後に姿を消した時、あの子はあそこまで強くなかった」
「ほう。となると、カノンに入れ知恵した者がいるという話がますます現実味を帯びてきたな。本人が自覚してないところを見ると、その記憶ごと消されたか」
「その可能性は、大いにあるかと」
「こっちを先に考えるか。思考は時間が経つとうまく言葉に出来なくなるからな。カノンの思考ってのはどこで行われてるんだ?」
「詳しくは企業秘密です。それに話したところで、家の者以外には理解できないでしょうね」
「機械か?」
「そこは、明確に否定しておきましょう」
ロボットじゃないのですよ、と言うや否や、彼女は床にへたり込んでしまった。地面に崩れ落ちる直前に、遼が腕を掴んで体を支える。
「ありがとう……ええ、良いわ断言しましょう。異能の権限書き換えなんて前代未聞です。明らかにヒトが行使する魔術や異能の範疇を超えています」
「そうか、じゃあ要注意団体からの干渉という線は薄そうだな。たしかにどこかの団体が黒幕にしては、人間の構成員や工作員の姿が見えないのが引っかかってたんだ。となると相手はアネクメーネ内部か。知恵をつけた怪異か、悪魔たちっていう線もまず無いだろう。どちらにせよ相手の駒がカノンだけということが不自然なままだ。悪魔なら信者に援助させてもいいだろう。単独で動かすことのメリットでもあるのか、それとも……」
遼の口調に熱が入るのを察知した僕は思わず口を挟んだ。意図的に言葉を遮るように、わざと少し声を張り上げる。
「そ、そんなことより、この現状の解決策ッてのは……!」
「待ってろ。それよりこちらの優先度が高い」
遼が珍しく声を荒げる。その気迫に押されながらも、ちらりと理恵を見る。ペリュトンを狙った攻撃は少なくなった分、理恵本人を狙う攻撃が増えているようだ。血のレイピアや、彼女が呼び出した吸血忌を自在に操って影の斬撃をいなしている。今のところは彼女はうまくカノンの攻撃を捌ききっているようだが、いつぺリュトンの気が変わって理恵に襲い掛かり、二対一の劣勢になるか判らない今、彼女が次の一瞬で死の淵に落ちる可能性だって否めない。
思考を中断させられたことで少し苛立ったのか、遼が僕を若干睨む。だがしかし、ここで引き下がるわけにもいかない。遼の注意がこちらに向いた今がチャンスだ。
「目的を見間違うなよ。僕たちは別に、謎解きゲームをしにここに来てるわけじゃない。遼の思考時間を、一体誰が稼いでると思ってるんだよ」
続いて、聞こえるは黒猫の溜息。
「遼。興奮するのはわかるし、同時に焦っているのもわかる。だけど一旦落ち着くにゃ。あんたの思考は、理恵も含めてみんなが頼りにしてるんだから」
「……俺は別に、焦ってなんか……」
「……黒猫は、いい加減僕に掴まるの辞めなよ。もう自力で立てるでしょ?」
他人の腕の中で偉そうに講釈を垂れる黒猫に、堪えきれなくなった僕は諭す様に呟く。
「酷いネ!」
「そんなふざけた返事ができる気力が有るのでしたら、私が背負って貰った方が良いのではないですか? 貴女より私の方が明らかに重傷です」
「お断りよ。先着順」
「じゃあ引き摺り出してやりましょうか!」
売り言葉に買い言葉と言わんばかりに、火花を散らし合う二人。片や血を吐きながら、片や僕の腕の中である。
「先着も何も、そもそも僕の腕はハンモックじゃないということをお伝えしたい。双方落ち着いてくれ」
遼に本筋に戻ってもらうはずが、いつの間にか黒猫と森賀さんの口喧嘩に巻き込まれてしまっていた。巻き込まれたのは完全に立地の問題だが、そうだ肝心の遼は……
「……ははっ」
苦笑を交えたような、でも雑念など何もなく彼は笑っていた。それを漏らした後、ふとまじめな顔に戻って彼は口を開く。
「…………悪い」
「え?」
「つい感情的になって悪かった。朔馬が正しい。俺は計画の伝達を優先すべきだった」
「いや、別に謝らなくても……」
「それじゃあ俺の立つ瀬がない。綿津見がこの場にいない以上、俺が参謀という立ち位置であるにもかかわらず、個人的な感情を優先したのは間違いだった。すまない」
遼がはぁ、と息をつく。
「俺らしくもないよな。あのとき、少し何かが判りかけていたような気がしたんだ。思考に必要なパズルのピースが繋がった気がした。でもそれは感想戦でするべき内容であって、今は目の前に集中すべきだよな。すべての事象には知る順序がある」
一息つき、続ける。
「黒猫、よく聞け。朔馬の手帳が、何の因果か〈禁書〉に認定された。詳細はまだ不明だが、所有者へ与える能力は平行世界の未来視だと推測している。朔馬、見せてやれ」
「黒猫が邪魔でポケットから取り出せない」
「はァ……、どいてやれよ黒猫。話が前に進まない」
口をとがらせ、しぶしぶ少女は僕の腕から転げ落ちる。やっと自由になった両腕に感謝しながら、僕は胸ポケットの手帳を取り出す。空中に透明な書見台があるかのように、ページを開けたまま手帳は宙に浮かびあがった。
「仔細は全部省く。俺たちはこれを読んだ。そして知ったんだ。俺たちが生存する可能性は黒猫、お前にかかっているということをだ。こんなことは本来頼むべきことじゃないんだが、それでもお願いしたい。カミクチを、やってくれないか」
「嫌よ」
黒猫の返事は即答だった。だが、彼女はその後も言葉を連ねた。
「……と言いたいところだけど、その提案が出る時点で、もうそれしか策が無いのよね。やっぱりもう後がないのか」
「ああ、そうだ」
「私がやらないといけないって理由は?」
「わからん。だが朔馬の禁書がそう示している」
煮え切らないでこちらを睨む黒猫と、神妙な面持ちで彼女をただ見つめる遼を、僕は交互に見比べる。僕にはカミクチという言葉の意味はわからない。でもなんとなく、それが危険で、避けるべきことであるのはわかった。そしてそれを黒猫は心底嫌がっていて、それを提言したのは僕だということも。
「……いいわ、わかった。でもいつ終了するかわからない。最悪の事態になったら脚を撃つだけじゃ駄目よ。翼だって生えるし脚だって生やせるわ。正確に脳を砕くのよ、出来る?」
「安心しろ。そんなことしなくていいように、そうなる前になんとかする」
黒猫が依服についた埃を払う。その仕草から、遼が先に目を逸らした。
「すまんな……」
「いいのいいの。禁書の〈解禁〉も同時にやった方が良い?」
「その判断は任せる……が、本来の性能に近付けるなら併用した方が良いだろうな。お前は奇遇にも、異能と禁書の相性が良い」
「知識神ミネルヴァたる我が参謀がそう結論づけたなら、私は黙って従うまでにゃ。あんたならなおのこと、カミクチには慎重だって、私は知ってるから」
彼女は遼に見せた寂しげな笑顔のまま、今度はつかつかと僕の方へ歩み寄った。僕が首を傾げていると、目にも止まらぬ力強く襟首を掴まれた。
「朔馬、君の四度の自己犠牲に免じて、ここは言うこと聞いてあげる。でも、自分の言葉の顛末くらいは責任もって見届けなさい。リスクを背負うのは私なんだからね」
「か、カミクチってそもそも、何」
突然の事態に、僕は驚きと恐怖の入り混じったようななんとも情けない声を絞り出した。黒猫は僕の目をじッと見つめると、深いため息をついて優しく力を緩めた。
「良いかしら。異能と魔術、魔具と禁書はそれぞれ似て非なる存在なのは判るわね。これらは大きく禁書と魔術、異能と魔具の二つのカテゴリに大別することが出来る。前者はヒトによって作られたもの、後者は神によって産み落とされたものよ」
僕を見つめる黒猫の目は今や敵意を失い、今ままでのそれと同じものに戻っていた。悪戯好きで、説明したがりのお調子者の優しい目。だがその奥に光る深い決意の残滓を、僕は汲み取ってしまった。それは決して彼女の口調には表れないけれど、たしかに存在する彼女の意志。
「異能は、いわゆる神と私たちが定義している存在からこぼれた権能の雫の一滴が、ヒトに溶け込んで生じるものとされている。神サマの気まぐれの産物ね。私たちは部分的に、身体のどこかに神を宿しているの。そしてそれを呼び水として、私たちは私たちに異能なんて贈り物を贈りつけてきた上位存在をこの身に宿すことができる。イタコが口寄せによって神霊をその身に降ろす神口という行為になぞらえて、この行動を私たちは、カミクチと呼称している。そして私はこのカミクチに、私なりのアレンジを加える」
黒猫が足を二度踏み鳴らす。とんとん、と響き渡ったその音に合わせて、空中より一冊の本が落下し、彼女の手の中にすとんと落ちる。
「禁書はヒトが創り出した概念よ。人が他人の作ったものに押した烙印。社会から敬遠された知識の濁流が、カタチをとったものが禁書。まさしくヒトのエゴの産物である禁書は、この意味において異能と正反対の存在と言える。だから私は、禁書を用いてカミクチを強化するの」
彼女は手の力を緩めた。重力に従って落下するえんじ色の装丁は、やはり地面に届くスレスレに再度浮かび上がって黒猫の周りをゆっくりと飛び回る。彼女は一歩、そしてまた一歩、戦場へ向けて歩みを進めた。
「禁書〈不思議の国のアリス〉は適合者に、自らの意志のままに肉体を動物のものに変化させる力を授ける。私の身体に降りるカミサマとやらはこの力によって、ヒトの身体という枷から解き放たれるの。見てなさい」
黒猫はやがて立ち止まる。彼女が漂わせるのはまさしく『空白』。彼女の背中からは殺気も、敵意も、もはや生気すらも感じられない。空間に突然出現した空白に、僕たちだけでなく、まさに戦いの最中であるはずの理恵やカノンでさえも意識を奪われ、ふと黒猫へと視線を向ける。そこには黒猫がいるはずなのに、そこには何もいないよう。
やがて、重々しく『空白』が口を開いた。
「譲渡します、ブバスティスに住まいし女主よ」