それぞれの厭世
獣にも感情があるなら、そしてそれを文字に形容できるなら、まさしくそれは苛立ちであっただろう。
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「理恵、黒猫、撤退!」
僕の呼びかけとほぼ同時に、二人は後退を始めていた。カノンの背後から急降下してくるぺリュトンの姿が彼女らにも見えたのだろうか。黒猫はその脚力で。理恵は壁に突き立てた血をアンカーのように操り、後退する。
一瞬のうちに出来たカノンとの間の空白。そこに割って入るかのように、翡翠の魔獣は豪速で着地した。欠けることのないアスファルトは、その衝撃を轟音に変換させる。思わず耳を塞ぐ。が、抵抗むなしくその震動は僕の全身を駆け抜けた。やっとの事で顔を上げ、なんとかぺリュトンを見据える。
やはり、大きい。翡翠というその色や、有翼という特異性に目が行きがちだが、原型となったであろう現生の鹿と比べると、その大きさは数倍を超える。そう。その頭は、ちょうど人を喰い殺すには十分な大きさだった。
ぺリュトンが地面に降り立ったことで、僕はその足元に、その図体とは不釣り合いな細い影があることに気がついた。
「ヒトの形、か」
現在に残された数少ない記述によれば、ぺリュトンはヒトの形の影を持つらしい。だが本人たちはそれが不満であり、本来の影を取り戻そうとしている。彼らが自身の影を得る方法は一つ。ヒトを殺めることに他ならない。
足元の人影が、キョロキョロと辺りを見渡す。
「油断すれば俺らにだって矛先が向きかねない。完全な第三勢力だ。気をつけろよお前ら」
俺らはアレを利用するだけだと、ぼそりと付け加えた遼の横顔を、僕はぼうっと眺める。
彼には、前回までの記憶は無い。繰り返す過去の中で彼の身に降りかかった災難は、たしかに存在したにもかかわらず、彼の細胞に刻まれているわけではない。だからある意味では今回の彼には復讐心など無いのだ。あるのは僕から明かされた伝聞情報と、禁書の守り手としての使命感のみ。
かちゃりと音が聞こえる。何事かと振り返れば、遼がハンドガンのマガジンを取り出し、ふっと息を吹きかけて埃を払っていた。忙しない彼を見つめる視線に気付くと、遼は照れたように笑った後、真面目な表情に戻って静かに呟いた。
「いや、さっきは俺が間違えていた。今ここで俺があいつの頭をぶち抜いても、おそらく息の根を止めることはできない。役者が揃っていないと殺せないという話を信じるならば、今の俺が何をしようとカノンが死なない理由がきちんと整合性を保って発生する」
個人の意志と反してでも、セカイ全体のシステムが遵守されるなんてのは癪だな。
そう言って彼は口を尖らせる。個の集合に過ぎないはずの全体が持つ制約に、部分である僕ら個人が束縛される。これほど不条理なことがあるだろうか。
「僕の……所為だ」
僕が、そう願って時間を跳んだからだと思う。異能の起源、機械仕掛けの舞台神にそう願って、演目の上映をやり直したから。
「気に病むなよ朔馬。たとえこの状況の原因がお前だとしても、その責任を負うべきはお前じゃない。お前にこうさせた誰か、だ」
「そう割り切れる問題でも……」
「しつこい。お前の自己犠牲精神だけで片付く問題なら懺悔室にブチ込んでやるが、そうじゃねえだろ。ほら前行った」
背中を固いものでとん、と小突かれ、つんのめるように一歩踏み出す。が、それと同時に、僕は彼の真意にも気付いてしまった。
「いや待て、遼、お前まさか……」
振り返ると、少しだけ口角を吊り上げて、寂しそうな顔で佇む彼の姿があった。そしてその手には、光沢を放つ拳銃が握られていた。
「見られて気持ちのいいものでも無いんでね。前線ではしゃぐのは俺の役目じゃなかった。俺には、俺だけの仕事がある」
彼はマガジンを丁寧にはめ込む。金属同士がぶつかる音が、気味が悪いほど耳にへばりつく。その行為が意味するものを、僕は忘れてなどいないから。
「でも、痛みが無い訳じゃないだろう。そっちを使いたがらないのは、遼の能力はあくまで複製であって改竄じゃないから−−−−−−」
「複製する記憶は発砲直前のものにすれば良い。 次の身体に引き継がなければ良いだけのこと。理論的には、恐怖に耐えるのは一度だけでいい」
彼は勢いよく、銃口を自らのこめかみに突きつける。
「俺だって死ぬのは嫌さ。でも俺には俺の責務があって、それを果たすことが俺の贖罪だ。作戦の名のもとに個の意見を封じ込めることへの、俺なりの落とし前なんだよ。特に今回は、黒猫に多大なリスクを背負わせることになる」
何度もそうしてきた。そう声を荒げる彼の目には、涙など浮かんではいない。あるのはただ、確固たる意志だけだ。
「なにも頭を撃たなくたって……。脚や腕とは訳が違うんだぞ」
「言われなくても俺が一番分かってるさ。これが一番効率が良いから選んでるだけで、好きこのんでやってるわけじゃァ無い。前回の俺は飄々と頭をぶち抜いたって言ったな。一つ教えてやる。そりゃあ気の所為だ。新人研修で後輩の前でカッコ悪いとこ見せたく無かった俺の意地だ。お前と同じさ、俺だって死ぬのは怖い」
ぺリュトンが咆哮する。だが今度は目を瞑らない。遼から目を離さない。
訂正しよう。彼にも復讐心がある。
訂正しよう。彼には自らの死の記憶さえもある。
日常を好み、非日常を疎い、願わくば異能を使わぬ事を祈り。時にはせめて均衡だけは保たねばと異能を振るい、その度に文字通り死んできた彼が、使命感のみでここにいるはずがないのだ。
命や異能、記憶といった概念、はたまた己が肉体まで複製する異能。その汎用性と、もし異能が働かなかったらという恐怖の間で怯え、それを全て飲み込み、彼は今ここにいる。
「宣言しよう。俺にとって死は救済ではない。死は終点でもない。俺にとって死は過去の自分の否定であり、過去を超えて前に進み続けるためのッ!」
直後、彼の頭に不格好な深紅の華が咲いた。目と耳が、鮮やかな色と乾いた銃声で塗りつぶされる。
ついで聞き慣れた声。たった今、命を絶ったはずの者の声が耳に飛び込んできた。振り返ると、腐りきったような黒い目が笑っている。一陣の風が吹き、背後で砂が舞う音が鳴る。
「通過点だ。叡智だけが俺を救ってくれたからな」
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不穏な空気の中、紫雲たなびく月へと魔獣は吠える。その眼からほとばしる殺意は、変わらずカノンだけを捉えているようだ。ぺリュトンが僕らの存在に気づいて居るか否かは定かでは無いが、その標的にはなっていないのは間違いない。少なくとも、今は。
カノンは無言で右腕を振るった。彼女の袖から黒い刃が伸び、魔獣の首を撥ねようと、まるで生き物のように襲いかかる。だが、ぺリュトンは何食わぬ顔で少し首を伸ばし、少しの動作で刃を丸ごと喰い千切る。ぐちゃ、ぐちゃと不快な咀嚼音が刃を削っていく。
「ちっ……獣風情が目障りです。ですが、体に千の穴が開けば!」
舌打ちと共に、呪いを込めた声がカノンの唇から漏れる。すぐさまあたりの暗闇から無数の黒槍が伸び、ぺリュトンめがけて発射される。だが、果たして黒槍は魔獣を穿つ事なく阻まれた。
黒槍の軌道を逸らしたのは、地面から生い茂っていく紅の薔薇。先ほどの戦闘で更に傷の入った水道管からは途切れる事なく水が流れ、その全てが血へと変わっていく。
ぺリュトンの体の隙間を縫い、一閃の攻撃が飛び抜けた。術者である理恵を狙い撃ったその一撃は、果たして黒猫が文字通りはたき落した。
「痛ッた……魔術で強化してるのにぃ!」
「高速で飛ぶ刃物に素手で触れて痛いで済むほうが、冷静に考えれば恐ろしいですが。流石はシラトリの魔術」
呆れるようにカノンがため息をつく。突進して噛みつくペリュトンをひと跳びでかわし、理恵の射撃も華麗に避けた彼女は、着地と同時に制服の襟を正し、笑みを浮かべた。
「魔術が使える妹に御守りをされるとは、どういう心境なんでしょうか。本人は遠距離攻撃ばかりちまちまと撃つ始末。プライドなどはお持ちで?」
「あんた……」
挑発に乗った理恵が駆けだすと、血で創り出した剣でカノンに斬りかかった。
「黙って聞いてればッ!」
カノンもすぐさま影の剣でそれを受け止めるが、理恵は凄まじい力で鍔迫り合いを仕掛ける。
「呆れた馬鹿力です。ですが、それでは魔具には勝てませんよ?」
にやりと笑う彼女の背後に漆黒の球体が二つ浮かび上がった。球体はそのまま変形し、鍔のない刀の形をとる。
「終わりです−−−−−−」
「させるかッ!!」
黒猫がすんでのところで蹴りをいれる。蹴り飛ばされた二本の刀は路地に転がり、影となって暗闇に融けた。
「後衛が前に出るのは自殺行為でしょうが、なに簡単に挑発に乗ってるのよ!」
「あ……ありがと」
理恵が数歩後ろに下がったのを確認すると、黒猫は予備動作なしでヴァレリーキックを放った。カノンは影の盾の生成が間に合わず、華奢な左脚への直撃を受けて大きく体勢を崩す。
「これはさっきの悪口のぶん」
片膝をついた少女へ、黒猫が淡々と言い放った。息を荒げながら彼女を見上げたカノンはといえば、悪びれる様子もなく減らず口を叩いた。
「おや……妹さんのおでましですか。貴女はどうです。お荷物の姉を持って大変ですねェ。魔術も使えない、あんな出来損ない……」
カノンは最後まで言い切ることは出来なかった。黒猫が物凄い勢いで制服の襟首に掴みかかったからだ。
「あんたねェ……何勘違いしてんのよ」
影による反撃が来る前に突き飛ばすと、黒猫は右腕を伸ばし、空中を掴む。その瞬間、理恵によって血で創り出された手斧が手中に収まった。
「確かに私達の家は魔術の血が流れている。私にはそれが使いこなせて、姉さんは何故かそれが出来ない。周りは同い年の私たちをやけに比べたがるし、姉さんはその度に傷ついている。それは事実よ」
黒猫はカノンの心臓めがけ、勢いよく手斧を投げつける。軌道は影の干渉によって歪められ、結果制服の肩を切り裂くのに留まった。彼女はそれを意に介さず、そのまま言葉を続ける。
「勝手に負い目感じて勝手に傷ついて。そりゃあ誰だって自分の短所は嫌いよ。劣等感ほど抱きやすい感情はないもの。でもね、私は姉さんほど人望は無いし、姉さんほど周りに頼られない。図書館の本の配置だって、接客の受け答えだって全然ダメ。テストの成績では一度も勝ったことがないし、朔馬君にだって姉さんほど信用されてない」
「何が言いたいのです?」
黒猫はその目を見開く。その目には、純然たる闘志が宿っていた。
「魔術の適性があるかどうかなんてね、私たちが求める日常には全ッ然関係ないのよ! 私たちが求めるものは魔術師としての成功じゃない。あンたを倒して、その先の何気ない日常を過ごしたいから、私は魔術を振るう。姉さんは異能を振るう。そんな簡単なことも、アンタはわかってないのよ」




