本が本でなくなる時
赤と黒の斬撃が、今も目の前で狂い咲いては散っていく。
遠距離から一気に距離を詰めて襲いかかる黒刃を、理恵の能力によって生み出された赤い血が食い止める。その隙を逃さず、黒猫が至近距離から強力な一打を本体へ加え、カバーリングで理恵が援護、離脱の道を作る。姉妹のなせる技か、いつもはいがみ合っている二人のコンビネーションは、驚くほど息が合っていた。
「持久戦って言ったって、こっちが不利なことには変わりないぞ。もし影に残量があるという仮説が真だとしても、使い切るまでの時間の長さは不明のままだ」
遼の言葉は確かに正しい。だとしても、だ。
「だとしても、正面から戦って勝てる相手じゃないのも確かだろ。だったらこの作戦の確度を上げるしかない」
「……勝算はあるのか?」
「負けない勝算なら、な」
戦いに勝つ確信を持つには、相手を圧倒的に上回る力が必要なのは確かだ。だが戦いに負けないようにするには、必ずしもそこまで必要なわけではない。相手の攻撃さえ事前に知ることが出来れば、誰も死なせることはない。
異能を使って、侵食するこのアネクメーネの中を生き残る。それが僕の、決意だ。
僕はいつも持ち歩いている例の手帳を胸ポケットから取り出し、目の前で広がるすべてを書き記していく。この路地の描写、今ここにいる人間について、理恵と黒猫、それにカノンの動きにいたるまで。たとえ腕が疲れようと、筆を止めるな。指を動かせ。
「朔馬、お前何を……」
返事をする労力も惜しい。手帳を支える左手に意識を集中させる。この理論が正しければ、異能と手帳を組み合わせさえすればいい。前回の最後に自室で目撃した手帳、あれを思い出せ。
「……戻れ」
数分前の過去へ戻れ、と手の中の手帳に向かって指示する。生物を移動させることは不可能でも、無機物である手帳を移動させることはできる。そしてその手帳には、今を記録し続けているという属性が付与されたまま。
「おい待て待て待て、『情報を記録し続ける手帳』なんて、タダの手帳が担える役割なはずがない」
「やってみなきゃわからないだろッ!」
異能を使いながらも、まだ手を休めることなく手帳に情報を書き連ねていく。まるでアクション小説の原稿か何かかのような文面になりつつあるが、構うものか。ここに常に情報が刻まれていく、そういう状況さえ作り出せればいい。
変化は、突然だった。
「見て遼、文字、文字が」
文字が消えていく。そう僕が口にしようとした時には、すでに僕が今まさに書き記そうとした文字すら消え去り、代わりに新しい文字列が上から刻まれていく。
「書き散らかしていた情報が、整理されてる」
文字はおぞましい速さで増え、手帳の紙面を埋め尽くしていく。とうとう僕が握るペン先にまで文字の波が押し寄せ、ぎょっとした僕はつい手を放してしまう。
だが驚きはまださらに続いた。指から離れたはずの手帳は地面に落ちることなく、空中に留まったのだ。そしてじんわりと、青白い光を放ち始める。
「お前の異能、本質はその移動ではなく継続するという部分にあるのかもしれんな。朔馬、ともあれ俺たちにとっては新たな武器だ」
遼に肩を叩かれ、僕は促されるままに手帳を掴み取った。目論見通りならば、この手帳はおそらく------。
「未来を記す手帳だ。勝算があるだろう?」
「ああ、ある。あるぞ朔馬。これは最早ただの手帳じゃない。断言はできないが、ひょっとすると禁書になったんじゃないか?」
無言で頷き、視線を落としてページをめくる。どのページにもぎっしりと文字が詰め込まれており、流し読みする限り、僕が遭遇し得る様々な局面に応じた、解決策が記されているようだった。
「……見たところ、『全ての並行世界の記録』といったところか。特殊な行動をすると未来が大きく変化するとき、さてどの道を選ぶかとその本は訊いてくるわけだ」
遼がずいっと手帳を覗き込み、そう呟く。どぎつい血の臭いに混じって、柑橘系のシャンプーの香りが鼻を掠めた。
「使い方は未来を見ることに留まらない。俺ならその手帳を、選択肢の検索に用いる。俺自身が気付いたり思い付いたりしていない行動でも、そこに書かれている以上は利用可能な選択肢であり、なんらかの結果を招くことが逆説的に確約されるわけだ。モデルは何だろうな。指南書系の魔術書という括りなら数は多い。その中から特定するのは至難の技だが」
ある局面で想定される行動のうち、Aを選んだ場合とBを選んだ場合では、結果として引き起こされる事象が異なる。蝶の羽ばたきが遠方の地で竜巻になるバタフライエフェクトなどが有名な例で、どんな些細な行動も、起こすことができる影響は計り知れない。場合によっては世界の命運を分ける選択を可視化出来るモノは何であれ、いつの時代もヒトを惑わせてきた。
それを正しく解釈しなければ、この本は嘘くさいカルトブックにすぎない。この本に記されている事象は全て、僕が辿っていてもおかしくない世界。その中で僕は一つ、全員が生き残る確率がある選択肢を探し出せばいい。
「…………黒猫のカミクチ、か。字面を見る限りどんな内容なのかわからないな。遼、なにか心当たりは?」
顔を上げ、前方で戦う黒猫たちに目を向ける。そこでは狂戦士の如く、手を休める事なく攻撃を繰り返す黒猫の姿が見える。
ある、と同じく戦線へ目を向けた遼が呟き応える。
「ある、が俺は賛成できない。本当にそれしか手段はないのか?」
「誰かが死んでしまって良いのなら、他の手段はあるっちゃあるけど……」
「それじゃ本末転倒だろう。畜生、カミクチなんて誰も進んでやりたくなんて……」
だが、遼の台詞は否応無く途中で遮られた。すぐ近くにある電灯の足元、特に影の濃い場所から、弾丸のように何かが発射され、彼の口元をかすめた。唇に赤い切り傷が入っている。
「ほう……俺が油断していないと思っていたのか」
否。本来、弾丸は彼の頭を撃ち抜く軌道だったのだ。それが擦り傷となったのは、ひとえに遼の反射神経が適切だったから。影から飛び出た弾丸は、そのまま遼の背後の壁に風穴を空けるに至った。遼の口元から舌打ちが聞こえる。
「朔馬、話は後だ。森賀の側から離れるな。万が一攻撃が飛んできたらお前も手伝え。反射が得意なお前の方もちょっとは手伝えるだろ」
口早にそう言い放つと、彼はハンドガンのグリップを握りしめる。
「あ、ああ……」
僕は気圧されるように頷いたが、それはかなり困難なことだということもわかっていた。なにせ、僕が異能力で軸を捻じ曲げて反射させるには、対象の物体そのものに触れる必要があるからだ。この場合では、僕は迫り来る弾丸を、一瞬とはいえキャッチする必要があるのだ。
更に言うなれば、異能はそもそも、実体のあるものしか効果が無い。カノンが操る影の弾丸に干渉できるのか、その確証も保証もない。
だがそんな僕の不安は、特に後半部分に関しては、遼の補足により解消されることになる。
「実体なら恐らくあるぞ。戦闘用にデザインされた能力を応用した武器なら、相手を殺傷させることが目的なのだから実体が必要だろうさ。影が人を襲い怪我を負わせる話なら、世界中どこでも語り継がれている筈だ」
つまり、どうやら僕は、迫り来る銃弾を避けずに受け止める恐怖を味わうことになるらしい。掴み損ねたら痛いどころの騒ぎじゃない。
「神経すり減らすな……」
そう僕がため息をついたその時。森賀さんがうぅ……と小さく唸った。どうやら意識を少し取り戻したらしい。
「だ、大丈夫!?」
肩をゆする。彼女は目をすこしだけ開き、口を開け、何かを呟こうと息を吐き出す。
「……を、……リュ……、に。そうすれば……」
だが彼女の声は掠れており、肝心なところが聞き取れない。僕が苛立ちとともに森賀さんの口元に耳を近づける。
「…影を奪う………ンで………」
何かを伝えたそうに口を必死に動かすが、掠れた声は上手く聞き取れない。
影を奪う_______________とは、一体どういうことだろうか。
そこまで考えて、ふと、頭の中で記憶が符合した。
「…………………ぺリュトンか」
ぺリュトン。前回、最初に闘った魔獣。自らの影を持たず、人を殺すことで影を奪う翡翠色の巨大な有翼鹿。仲間を呼び、群れで行動し、空を埋め尽くすアトランティス大陸の厄災だ。現時点の僕たちの目標は、カノンの攻撃を受け続け、彼女が実体化させた影をすべて消費させてしまうことにある。だが消費させるということは攻撃させるということだ。それには必ずリスクが伴う。
「彼女の影を奪ってしまうってことだな。ぺリュトンを上手く利用して、カノンになすりつけると。ありがとう。後は休んでて」
森賀さんを壁にもたれかけさせ、僕は上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「聞こえてたな、遼」
「良いアイデアだ。例えカノンといえど、群れを成すペリュトン達を完全に振り切ることは出来まい。倒してしまえるかはさておき、撤退を促進させることは出来そうだ。一つ問題があるとすれば、どうやってペリュトンを此処に呼び寄せるか、だ。いくら個体数が多い魔獣とはいえ、運良くこの場を群れが通りかかるなんてことは………」
遼が空を見上げ、釣られて僕も見上げる。静かな紫の空。鳥一匹の姿もなく、ただ不気味な色の空が広がっている。遠くには静かに佇む、赤い月。
僕は、自信を持って遼へ言葉を返す。
「大丈夫。ぺリュトンは最低でも一匹、もう一度この座標上を訪れる」
「そんなのどうして……」
どうしてわかる、と言う前に彼ははたと気がついた。知識神の恩恵が所以してか、彼は答えに辿り着く。
「ここは迷宮とはいえ、表世界の座標で見れば図書館からそう遠くは無い。加えて、時間遡行を行なったとしても、誰か個人の選択が関わらない事象は共通して発生する」
その通り。僕たちの行動が影響しない事象は、たとえ時間が巻き戻っていても、同じように発生する。つまるところ……
「つまり、お前が話した前回と同じように、ここにはぺリュトン達が出現する」
僕が首を縦に降るのと同時に、つんざくような鋭い悲鳴のような鳴き声が聞こえる。
声の主を求めて上空を仰ぐと、そこには巨大な獣の姿。
その下、落とす筈の影は無く、ただ羽音だけが空に響く。




