黒と赤の饗宴
災厄の化身とも言うべき傀儡、カノンが地面に降り立った。左手から溢れる黒い帯は亀裂のように空中に広がり、壁や地面に突き刺さる黒刃すべてに繋がっている。そして右手には、引き抜いた〈宵闇の嘆き〉が収まっている。たったそれだけを除けば、学校指定の制服を身に纏ったその姿は、可憐な女子高校生そのものである。問題は、その存在そのものが看過できないほど脅威であるということだ。
カノンは軽やかに足を踏み出した。まるで休日のショッピングかのように、にこやかに笑みを浮かべ、黒い死神が近づいてくる。
頭からつま先まで、彼女には埃一つ付いていない。外傷など言うまでもない。その様子を見る限り、先ほどまで黒猫や理恵が戦っていたのが囮だったというのは、残念ながら本当のようだった。つまり、これほどの時間をかけ、得た結果はただ単に、こちらが疲弊しただけということになる。
「この人数で埋まらぬ戦力差ッて……どんだけデタラメなのよ、あんた」
壁に手をついた黒猫が、呼吸を整えながらも苦しげに呟く。だらりと垂らした左腕には真一文字に切り傷が走っており、赤黒い染みがじわりと広がっている。
黒猫だけではない。遼も理恵も、疲労はピークに達している。無傷なのは僕だけだ。僕だけが、まだ巻き込まれただけだからと自分に言い聞かせ、何もしないで突っ立っている。そう思った途端、腕の中の森賀さんの拍動が、急に強くなったように感じた。もし彼女が死んだら、それはきっと僕のせいだ。なにか、何かしなければ。
僕の不安を読み取ったかのように、カノンが僕の目を見据える。その眼光に射すくめられ、冷や汗が頬を伝った。
「開演前にはしゃぎ過ぎなのですよ。神の一部にすぎないお前たちが、舞台の上で踊る以外の選択肢を持っているなんて勘違いも甚だしい」
またも喩えは演劇である。誰も彼も、僕でさえも、無意識のうちにこの世界を舞台に喩えているのだ。
信じるしかない。心の中で少しでも疑ってしまっては、この理不尽な世界に疑問を持ってしまっては、それこそもう戻れない。つばを飲み込み、話しかける。
「開演……とは、どういう意味だ」
大声を出していないにも関わらず、その声はよく響いた。カノンは、クスッと小さく笑う。
「貴方がそれを問いますか、古代ローマの舞台神。貴方はそこの役者風情達とは違って、全てを俯瞰する者。役者ですらない。劇場の幕を操る機械が、主役が出揃わぬうちに、幕を上げるのはご法度」
「主役って一体……」
一体、それは誰なのか。
「それは……私にも掌握しかねます。なにせ私も登場人物の一人。私の生きる視点においての主人公は、私自身ですもの。ただ舞台全体を俯瞰してみれば、また話は違うかもしれないというだけの事。それを俯瞰できるのは、文字通り劇場の上にいる貴方のみ」
いつものごとく抽象的な言い回しだが、僕はその意味を理解することができた。これはなにも、表面的な話について表しているわけではない。つまり、黒幕とやらについてだ。カノンがその存在を知らない事は、その存在そのものを否定する材料にはならないと言えるということを、カノン自身が証言しているのだ。それは即ち、二次元の世界は三次元から俯瞰できるが、逆からの観測はできないことと同じ。創作の登場人物達に、脚本家の存在は知覚できないのだ。それこそ、第四の壁でも超えない限り。
「つまりそれは、ここに揃うべき人が揃っていないうちは、俺たちはお前に勝てないって事で良いのか?」
遼の問いは一見的を射ているようだったが、しかしカノンは首を横に振った。
「いえ、制約を受けているという点では私も同じです。一人や二人始末することはできても、全滅させることは不可能に近い。貴方がたが私に勝てないように、私も貴方がたに勝つことはできないのです」
カノンは静かに、笑いながら距離を詰める。
「可笑しいでしょう? 私たちは、自分の意思で脚本通りに動かされている。それでも私は、この胸に宿る意志を、むざむざ捨て去る訳にはいかないの。やっと、やっと手に入れたんですもの」
彼女の目から敵意が消えることはなかった。争いはもう、避けられない。
こちらの布陣は、先頭から理恵、黒猫、少し開けて遼、僕、森賀さん。真っ直ぐに並んでいるが、単縦陣での防衛戦など相性が悪すぎる。こちらが疲弊していないならまだしも、このままでは前から順に各個撃破されることくらい目に見えている。
「あんたの話が本当だっていう証拠は」
「信じるか信じないかは貴女がた次第です。証拠まで律儀に提示する義理は無くってよッ!」
カノンは素早くしゃがみ込むと、自分の足元の影に手をついた。影はひとりでに揺らめいたかと思うと地面から飛び上がり、彼女の背中を覆うマントになった。
「この装備が身体に馴染むのに、私も少し時間が欲しい。今から一分間だけ、お互いに猶予を与えます。体勢を立て直すなり、なんなり好きにするといい。まぁ元より、貴方たちに選択権は無いのですが」
カノンからの提案は素直に受け入れることにした。なにも僕たちは、勝ちたい訳ではない。敵を前に、無垢に死を受け入れたくないだけなのだ。敵前逃亡と笑われても構わない。生き汚いと罵られても上等だ。全員が助かる道を探す。ハッピーエンドの舞台を望む機械仕掛けである以上、僕の行動原理はそこに帰着する。
だから、考えろ。思考を止めるな。策を練れ。焦りで歯を食いしばりながら、視線を舐めるように滑らせる。前線の理恵や黒猫は、既に臨戦態勢だ。手遅れになる前に、早く。
焦りは極限まで達し、頭痛が牙を剥く。
ふと、視界に何かが引っかかった。何か予測不可能なものが目に留まったのではない。その逆。あるはずのものが無い。およそ常識では減るはずのないものが、著しく減少していると気づいたのだ。
僕が注意を引かれたのは、カノンの足元の地面に映る影、その色。水墨のような、極めて薄く、淡い灰。
もっと早く気付くべきだったのだ。影を凶器に変える魔具、その原理を。カノンが、わざわざ暗い路地を使って影を大量に用意したその理由を。
〈宵闇の嘆き〉という魔具の性質は、影を操ることにあって影を生み出す訳ではない。実体化した影は武器となり、そして消費されていく。受動的かつ自動的に発生する影を具現化している以上、影は実際の物質と同等に扱われるのだ。いわば、影には残量がある。
モノが存在しているから影が発生する。ならば逆に、影が無ければそのモノは存在しない事になる。
先程の理恵の防衛により、攻撃に際してカノンは予想以上に影を消費してしまった。理恵は、操る血液を破裂させた水道管から供給し続けていたが、対して影は無尽蔵には湧くものでは無い。そこにあるものの数だけしか、影は存在しない。
影が存在し続けるには、その全てを使い切ってしまってはいけない。ただし使わなければ、カノンは有利に立ち回ることはできない。
咄嗟に思念を飛ばそうと念を込める。これを前線の、理恵たちに伝えなければ。
始点、終点、軸を仮設定。移動対象を『思考』に設定。
記憶を飛ばした事だってある。抽象的な物への干渉は不可能じゃないはずだが、ここには幸いにして遼がいる。
「遼、ちょいと手ェ貸してくれ」
切羽詰まった僕の声に気圧されたのか、遼は黙って頷く。
遼の異能で僕自身の思考を具現化してもらう。握りしめた掌の中に、冷たく、硬い小石のような感触が出現した事を感じる。小石はそのまま真っ直ぐ前に飛んでいき、理恵と黒猫の間で弾けた。
(理恵、黒猫、聞こえている事を祈る。持久戦に持ち込もう。推定の域を出ないが、カノンの攻撃には残量が存在する)
残念ながら、言の葉はいつだって一方通行だ。こちらの思念を飛ばせてたとしても、二人が何を考えてるかはわからない。だが、二人は計ったように後ろ手で了解の意を示した。頭の回転が速い二人で助かった。
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「理恵……あんた、まだ戦える?」
凶を前にして、二人は目を合わすことなく言葉を交わす。もしかしたらこれが最後の会話になるかもしれない。それが判っているからこそ、彼女らはつい軽口を叩く。
「笑止。この程度の傷に立ち止まっていられる性分じゃない。それよりあんたは如何なの、黒猫。脚はもう限界なんじゃない?」
「つれないなぁ、姉さんは」
「……珍しい。あんたが素直に私を姉さんと呼ぶなんて、一体どういう風の吹き回し?」
「やめてよ、それ私の死亡フラグ」
「五分、経過しました。再戦するとしましょう」
会話など待ってられないと言わんばかりに、カノンは無言で右手を払う。その動作に合わせて、黒刃が、腹を空かせた狂犬のように放たれる。
「行くよ」
「ジリ貧にならない事を祈るばかりね」
影と血。どちらが秀でているという事はなく、それらが実体化している以上、操る者の力量にのみ勝敗は左右される。
空中を、壁を、床を。
四方を塗りつぶす赤と黒の斬撃は、とても鮮やかに路地を彩った。




