生を与えられた影
「危ないッ!」
理恵の声が聞こえる。だが黒光りする刃はわずか数メートルほどのところまで接近している。
きっともう遅い。そう観念してぎゅっと目を瞑った。死ぬことよりも、死そのものに少し慣れはじめている自分が少し怖かった。どうしてだろうか。危機感があるのは間違いない。だがどうしても、路地を走り回ったあの時のような生の渇望を、今この瞬間感じることはできなかった。
でも、怖くないわけじゃない。
三周目の時に僕が発狂してしまったのも、当時の僕が俯瞰からの墜落を選ぶのも理解できないわけじゃない。ただ単純に痛い、というだけではない。死んだらもう存在できないという、それはそれは判りきった理屈のせいだ。死んだら意識はどこへ行くのか。その単純な疑問に答えが見出せぬ以上、死は容易に恐怖と結びつく。なにせ死後の世界は未開の地。無知は連鎖的に恐怖を呼ぶのだ。
せめて森賀さんだけでも、と最期に強がろうと、彼女を抱える手に力を込める。それをしたところで何の意味も無いのは判っている。鋭利な凶器はヒトの体など簡単に貫通するだろう。だが、ここまでくると、もはや気持ちの問題だ。
それにしても痛覚はまだだろうか。それとも気づかぬうちに、僕はもう死んでしまったのだろうか。あの刃は以前見たことがある。腹部を刺されたことだってある。あの全身を駆け巡る痛みを、あろうことか僕は待ち望んでいるのだ。死をすぐそばに感じれば、少しづつ麻痺している僕の死生観念も、きっと強く生を求めるのだから。
僕は好奇心と焦燥感に突き動かされ、目を開ける。すると視界には、迫る黒刃を押しとどめるかのように、蜘蛛の巣のように張り巡らされた紅い糸が一杯に映っていた。
「ほら朔馬、いつまでそこに突っ立ってんの。負傷者ひとり抱えてるんだから早く逃げなさい!」
理恵の声が聞こえた。そちらを見ると、彼女は壁にはしる水道管のひとつを砕き、勢いよく噴き出す水に半身を浸していた。彼女の身体をつたう水はどこからか鮮やかな赤へと変わり、この空間を縦横無尽に駆け巡っているのだ。
僕は言われるがまま、後ずさる。
すぐさま紅い糸はするすると両脇に吸い込まれていき、僕がつい先程まで立っていた位置を、黒刃が勢いよく貫いた。ぬらぬらと、金属を連想させるような不気味な光沢が、アスファルトに亀裂を走らせていた。
慌ててさらに後ずさるが、影はしつこく追ってきた。だが、なおも僕たちに襲いかかろうとする黒刃を妨害するように、無数の紅い糸は姿を自在に変化させて戦場を塗り潰す。ある黒刃がさらに分裂して、細い槍状になって降り注げば、糸は盾を形作りこれを防ぐ。球形で浮かぶ影が、無数の棘を持って四方へ拡散すれば、それを取り囲むように糸は繭を形作り、外部よりこれを阻む。
視界を埋め尽くす赤と黒の色彩に圧倒され、気がつけば、もうL字路の角にまで寄ってしまった。背中が壁につき、体重を支えるようにもたれかかる格好となる。
前線近くから大きく後ろに距離をとったおかげで、戦場に何が起きているのかが大まかに理解できた。
先ほどまで両側の建物の壁に描かれていた紅の薔薇模様。それらが立体的に飛び出て、蔓が糸となり縄となり縦横無尽に駆け巡っている。さっき襲いかかって来た黒刃を防いでくれたものもそれらの一つだろう。紅の糸たちは、影より出でる黒刃に裂かれたり切られたりすると液体になり弾け飛ぶが、理恵の触れる水道管より新たな血液が供給され、戦場へ素早く伸びていく。
どうして今すぐ撤退しないのか、声を張り上げて遼に問うた。すると、
「カノンがなにか細工しやがったらしい。後ろに引いても前に進んでも、今のままじゃこの一本道から出られない。細工を剥がすのには手間がかかるし、その工程をカノンが黙って見てるはずがないだろ。結局俺たちはここで、覚悟を決めて戦うしかない」
との言葉が返ってきた。おそらくだが、先ほどの巨大迷宮と似たような原理だろうか、ともかく無理やりの脱出は不可とのこと。改めて視線を戻す。
黒刃は地面に突き刺さったものや、形状の変化を繰り返し続けるもの。様々な状態で攻撃の機会を伺っている。それらをたぐって根元を見れば、どの黒刃もただ一箇所の闇より出でて、それはまるで上空の何かの影のようにも見える。
影は高いところから低い所に移ると相場が決まっているなら、あれを影に持つ主は−−−−−−。
「あらら……ここは貴女の胃袋の中でしたか。この朱の紋様、全て貴女の異能によるものとは気付きませんでした。襲われなかったのは幸運でしたね」
ぞっとするような声が、想像通り上空より聞こえる。鈴のように軽やかな、美しくも冷酷な声が響き渡る。その声色からは、死を否応なく連想した。
声の主を求めて上空を見上げると、突き刺さった鎌の柄に腰掛けるように、学生服に身を包んだカノンがにこやかに手を振り、こちらを見下ろしていた。
紫式部の空を背景に。
いつの間にか顔を出した満月を背に。
月光が彼女の頬を撫で、冬の風は妖しく髪を揺らす。魔性は、ゆっくりと口を開いた。
「お遊びはここまでです。のうのうと己が生を歩む貴方達に、厄災を届けに参りました」
第2ラウンドです−−−−−−そう無慈悲に告げるカノンは呼吸一つ乱れず、ただじっと、僕らを見下ろしている。
「くッ……。さっきの空中戦で、やけにあんたが粘っていたのはその為ね。本体の貴女は最初からもっと上空にいて、月光で大きく映り込んだ影を利用した影法師を使役したか」
理恵が苦い顔をする。カノンは満足げに、その通り、と頷いた。
「貴女がこの場に異能で血の薔薇を張り巡らせたように、私も魔具を用いてこの場全ての影の中に魔力を注ぎ込んであります。此処はいつも暗いですし、道具や形代の作成に使用する影には事欠きません。影は生命の存在証明。影あるところに私あり、です」
カノンは身体を後ろに倒し、膝の裏のひかがみで鎌の柄を挟んで宙吊りになった。そのまま脚をまっすぐ伸ばし、落下の直前に鎌の柄を掴んで、壁から引き抜く。
宙を舞い、辺りを漂う黒いヴェールを吸い上げ、衣服のように身体の周囲に纏いながら落ちていく人形。子どもがおもちゃで遊ぶかのように、身長ほどの大きさの鎌を無邪気に振り回すその姿は、まさに死神と形容するに相応しかった。
黒布をもって告死する災厄。人の形をした、禍害招く傀儡が地に降り立った。




