メタ思想の罠
「…………あ」
勝てない。それは一種の勘とも言うべき感覚だった。僕らは今のままでは、絶対に彼女に勝つことは出来ない。
そもそも全ての事象に絶対は無い。だがそれは現実の世界にのみ当てはまるルールだ。たとえばゲームなんてやっていたら、負けイベントなるものに遭遇するのはしょっちゅうだ。バグ技でイベントをスキップするのは初見じゃ不可能なんだ。
焦りを隠しきれないまま正面を睨むと、カノンがゆっくりと顔を上げるのが見える。その顔に映っていたのは、矢張りというべきか、これから待ち受けるだろう死への恐怖−−−−−−では無かった。
魔性の笑みが、僕らを射抜く。
「遼−−−−−−これはやば」
時すでに遅し。僕の声が遼に届く前に。僕が伝え終わる前に、ねっとりと絡みつくようなカノンの言葉が空間を遮った。
「ええ。それでは再戦と洒落込みますか」
そうカノンが言い放つや否や、暗い路地の闇が増す。電灯の光量はそのままに、影だったところが、更にその黒さを濃くしたのだ。視界の奥から順に、黒、黒、ただ深い黒に染まっていく。
「ちっ…………往生際の悪い!」
遼が舌打ちと共に引き金を引く。乾いた銃声が一つ鳴り響いたが、骨を砕き肉を裂く音は聞こえない。ただ静寂の底から、けらけらと乾いた笑い声だけが聞こえてくる。
「おいおい……」
遼の顔に、驚愕の表情が浮かぶ。
「おいおいおいおいおい待てよ待てよ、冗談じゃ無ェ。これは必中の弾丸だ。そういう魔具だ。なのに……」
次いで、彼は苦々しげに呻く。
「なのに、如何して当たっていない!」
カノンは薄く笑ったまま動かない。その華奢な身体に外傷は見当たらず、代わりに足元から空中にまで、うっすらと黒いヴェールのようなものが巻かている。
カノンは溜息をついた後、まるで無知な我が子を諭すように答える。
「必中の魔具の原理をご存知でしょう。攻撃の命中を保証する魔具は古今東西、様々な神話にモチーフが散見されます。結構結構、素晴らしい性能です」
カノンは嘲るかのように、わざとらしく手を叩く。彼女は遼の銃だけでは無く、前回ヤイバが用いた、あの呪剣の事を言っているのだろう。
「……ですがそれらの本質は、例外なく未来の選択。水を張った皿を遥か上空から十枚落としたと仮定して、それら全てが一滴も溢れること無く、地面に着地する微量な可能性の未来。不可能と誰もが思いはすれど、論理的にはあり得る。そういう僅かな可能性をすくい上げ、世界に選択させ、結果としてまるで魔法のような−−−−−−すなわち必中の攻撃とする」
「んな事は判ってる」
噛み付くように遼が。
「長い長〜いご講義どうも」
皮肉たっぷりに理恵が呟く。
いえいえ、と微笑み返すカノン。彼女が話している間に少しづつ色を濃くした黒いヴェールは、今や真っ黒の布のようになっている。
「……ここから先が重要です。この原理ならば、命中する可能性が本当にゼロの相手に当たることはあり得ないのです。外国住む、名も知らぬ誰かを狙って槍を投げても到底殺せぬのは道理。逆に、眼前に相手がいるなら、どの方向に突いても何らかの不測事態で偶然当たるかもしれない。限りなくゼロに近いとはいえ、無いと言い切れることはできない悪魔の証明。それが必中の呪の本質」
「真逆、お前」
「ええ、その通りです知識神。貴方が狙ったカノンは、そこに居ないのですよ」
そう言い放った瞬間、周りを取り巻くヴェールが彼女の身体を包み込む。黒い姿は周りの暗闇と境界を無くし、じわりじわりと闇に溶け込んでいく。
「どこ行った!?」
「落ち着け理恵、魔具で幻影を創っていたなら、本体はそう遠くないところにいる筈だ」
僕も暗闇の奥を覗き込もうと目を凝らすが、ただ視界が黒く塗りつぶされるだけである。
「く、来るにゃ!!」
突如、鋭い忠告が飛んだ。声を発したのは黒猫だろう。彼女の眼は、夜目の効く猫のように怪しく光っていた。
「何ボサッとしてるの朔馬!!!」
僕はまだ、同じ位置にいた。思考に夢中で体が思うように動いていなかったのだ。僕がハッと気付いた時には既に、漆黒の刃が、おそろしいスピードで眼前に迫ってきていた。




