必殺
先ほどの黒猫の攻撃が皮切りとなったのだろう。そこでは既に、黒猫とカノンの白兵戦が始まっていた。
助太刀を入れようにも、こちらの茶々で黒猫の思考に隙を作る訳にはいかない。手助けしようにも機会は見つからず、僕らは少し離れてただただ見守るのみ。
ちらりと見えた黒猫の目は、比喩ではなく本当に猫の眼だった。その理由を遼に問うと、彼は踊り場から身を乗り出して応えてくれた。
「禁書の恩恵だ。〈不思議の国のアリス〉……名前くらい聞いたことはあるだろう。禁書としてのアリスは、所有者の体の部位を動物のそれに置き換えることができるんだ。もともと彼女は武術に秀でているというのもあってか、彼女は主に身体強化に用いている」
不思議の国のアリス。日本では馴染みのある海外文学だが、中国では一時期、禁書指定を受発禁処分になったと聞く。ルイス・キャロルの描く動物たちは人語を解し、服を着、茶会を開いて妖しく笑うのだ。そこに目をつけた者がいた。
獣をヒトのように描いたからではない。ヒトが獣であるかのように描かれていると見なされ、かの有名な児童文学は禁書目録に名を連ねたのだ。であるならば、禁書としての〈不思議の国のアリス〉は、所有するヒトと、獣との境界線を緩める機能を持つ。つまり、身体は動物のそれに変化するに至る……ということだ。
魔具は異能と同じく、神々の権能の一部が形を成したものだという。それに対して禁書は、先人たちの著作物を故意に陥れ、人為的に歪めたものと言えるだろう。歪んだ結果、異なる性質を持ったという点において、禁書はアネクメーネというこの世界そのものに近しい存在とも捉えられる。
「ややこしいな」
「その通り。俺たちは得体の知れない力で、得体の知れないモノと戦っているんだ。でもこの力さえあれば、俺たちはささやかな日常を守ることができる」
異能由来の特殊な動きで狭い戦場を縦横無尽に駆け巡り、跳ぶ彼女。蝙蝠の翼や猫の尻尾でトリッキーな動きをする黒猫の姿は、ギリシア神話の怪物キマイラを彷彿とさせる。カノンも体術を交えながら応戦し、その身のこなしは玄人レベルだ。激しい肉弾戦を見守るうち、少しずつ膨らむ不安の予感に、僕は心を埋め尽くされようとしていた。
「あのさ、遼」
堪えきれず、吐き出す。
「カノンは〈狂気違え〉を持ってるんだろ。じゃあ、至近距離まで近づくのは……」
不味いのではないのだろうか。至近の相手を狂わす魔具を相手に白兵戦を仕掛けるなど、殺してくださいと言わんばかりの愚行ではないだろうか。前回のミツの姿が、記憶の淵から蘇る。狂気は伝染するのだ。人が壊れる瞬間は、人を壊す。
思わず唾を飲み込んでしまうほどの緊張感。振り下ろされる鎌を紙一重でかわす黒猫からは、視線を離せない。
「いや、大丈夫だ。その心配は無い」
遼の声が聞こえる。間髪入れずに何故、と問うた僕に対して、彼は更に続きを述べる。
「魔具はとても強力な品だ。強力な魔具を数多く所持することは戦術の柔軟さを表すし、その数はそのまま切り札の多さに為る。だが、魔具は余りに強力であるが故に、同時に二つ使用できないんだ。ちょうど、一つの体に二つの異能が宿らないのと同じ。つまり、彼奴が鎌を振り回している間は、黒猫の正気が削られる心配はないし、もしカノンが鎌を手放したとしても、その時は黒猫がその隙を見逃す筈がない」
そうか。前回、カノンが鎌を投げ飛ばして隙を作ったのはわざとだったのだ。隠し玉だった〈狂気違え〉を使用するために、あえて両手を空けたのだ。
「それじゃあ遼は……?」
「俺はライフルとハンドガン、二丁同時に撃つことはないからさ」
「成る程」
会話を遮るように、キンッ、と一段と高い金属音が耳を擦る。
鋭利な反った刃が黒猫の足めがけて振り下ろされ、間一髪で避ける瞬間だった。
路地のコンクリートは通常の強度では無いらしい。魔に魅入られた刃を易々と弾き返した処を見ると、ここが既にアネクメーネだということを再認識させられる。
鎌に対抗するように、黒猫も体術を繰り出す。
蹴りや手刀、拳が連続して突き出され、其れらをカノンは紙一重絵でかわしていく。避けられた攻撃は空を切り、命中したかと思われた攻撃は鎌の柄で防御された。
「動きに『重さ』が残ってます。軽さが信条の猫がなんという体たらく」
「くっ………五月蠅い煩い煩瑣い!」
均衡状態と思われた二人だったが、どうやら少し黒猫が押されている。最初こそ優勢だったが、攻撃に転じる隙を見いだせず、振り回される凶器を見切って回避に徹するのに精一杯のようだ。カノンの長い髪が動きに合わせて蛇のようにうねり、舞う。
そんな彼女が振り回す〈宵闇の嘆き〉は、魔具としての神秘性を影の操作に留まらず、殺傷能力の高さにも見出したもの。触れたもの全てを斬り刻む魔性の刃だ。
黒猫の武術も、攻撃の残滓__所謂、衝撃波などと表現されるのであろう余剰火力__を見るに威力は大きいだろう。ばあん、と派手な音を立て、避けられた攻撃が建物の壁にヒビを入れている。狭い路地での戦いである以上、命中しなかった攻撃は全て両壁に。轟音が響く。
一対一の戦闘とは思えない火力が飛び交う。
互いに一撃必殺。
当たれば死ぬ。当てれば殺せる技の連続。一瞬の油断が相手の死を招く連撃を許すのなら、戦況は簡単に動かずして当たり前。互いに仕掛けつつも、戦線離脱の機を失わぬよう双方は立ち回る。
何処かで聞いたことがある。槍兵などの中距離型は、いかにして相手を間合いに入れ続けるかが問題になる。懐に入られれば瞬時に対応できないし、遠距離型が相手だと、相手の攻撃を避けつつ槍や鎌が届く範囲まで近づくことが大事になる。
だから、すでに間合いに入っている黒猫の方が有利のはずだ。それが定石。それが常理。
だが、カノンの操鎌術は神域と評してもよかった。
武器を振り回すことを止めず、それでもなお自在な身のこなしで躱す。鎌はまるで別の生き物のようにカノンの手の中で暴れ、狂舞する。
裂く。躱す。薙ぐ。跳ぶ。穿つ。払う。突く。避ける。蹴る。見切る。
単調な。だがそれでも高速で行われる一進一退。眼を極限まで酷使し、四肢を最大限まで活用して。それよりも疾く頭脳を回し、第六感をも使わんばかりに、精神を、研ぎ澄まし。速く、正確に、相手を仕留める一撃必死の戦闘。
カノンが鎌を右から左に薙ぐ。かなり大振りな動作だ。刃が上を向いていたこともあり、黒猫はなんなくそれを感知して、しゃがんで刃を避けた。遠心力は当然の如く作用し、勢い余った斬撃は壁面に突き刺さる。刃は深々と壁面に突き刺さった。
(......貰ったッ!!)
この機を逃すわけにはいかないと言わんばかりに、黒猫が低姿勢のまま足払いを仕掛ける。体重が崩れれば勝負はこちらのものだ。まだカノンの指が柄から離れないうちに、脛を狙って思いっきり爪先で蹴りつけ−−−−−−
違和感に気付いたのはすぐだ。足払いが当たった感触が無い。どこに、
カノンは何処に消えた?
目を見開いて、視界を舐めるように見る。すでにこちらの体重移動は始まっている。早く見つけなければ、
影、月光を遮るシルエット。
上か。
本能的に体を捻る。とっさに腹筋を使ってくの字に体を曲げ、壁に沿うように転がるように前方へ。
態勢を立て直し振り返れば、元々頭のあった場所はカノンによって踏み抜かれていた。カノンは無言で黒猫を睨み、ゆっくりと鎌を引き抜く。
少しづつ、でも間違いなく、戦況に変化が訪れてゆく。
「......黒虎流魔術式起動。一撃必死の願いをここに。我が右脚に宿るは神霊。西方護りし四神が一柱よ、この身に流るる白取の家の血を触媒とし、その猛き牙の加護を与え給え」
転がり込んだ先で、黒猫が何やら呟きだす。距離のせいで辛うじて聞き取れるのみだが、その言葉に応えるように、彼女の右脚が、仄かに青白く光を放っていくのは見えた。
「ちょっとバカ猫、私の白虎よ。勝手に堕とさないでっていつも言ってるでしようが……」
後方、僕のすぐ側まで下がってきている理恵が、呼吸を整えながら呟いた。だが言葉とは裏腹に、目は逸れることなく、ただ黒猫一点を見つめている。
「......戦闘中に詠唱とは、いい度胸です」
魔術の詠唱をするということは、たとえそれがどれだけ短い言葉であったとしても、少なからずそちらに集中力を削がれるのは間違いない。ましてや今は、死と紙一重の攻防戦。カノンの言う通り、次に隙ができたのは黒猫の方だった。
そして、その隙を逃すカノンではない。渾身の力を込めて、大きく横に鎌を薙ぎ払う。
『薙ぎ』は槍兵の大技だ。前に距離を詰めれば柄に強打されるし、生半可に距離を取れば切っ先に体を裂かれる。避けるには、大きく距離をとるか、しゃがむか跳んで避けるしか無い。後者二つは基本的に勧められない。次点で大きな隙ができ、敗死する可能性が高まるからだ。
だが、先述の通り、黒猫は戦闘に対する集中を微量ながらも欠いていた。大きく後ろに下がるには遅すぎる。
横に薙ぎ払われた刃を、彼女は間一髪でしゃがんでかわす。定石ならば、この瞬間で勝敗は決していただろう。だがしかし、黒猫の身体能力は定石を覆すには十分だった。
立ち上がりざまに、その勢いごと鎌の柄を足で叩く。
魔術の力を借り、最大限まで威力を高めた蹴。まるで、最初からこれが狙いだったかのように研ぎ澄まされた脚さばきだった。
「神撃ッッ!」
言葉とともに弾き出された青白い一閃は、的確に鎌の柄を捉える。刃の付け根あたりを狙ったため、切っ先は自然にカノン自身の方に傾きかけた。
衝撃を耐えきることは出来ず、結果、カノンはすぐに行動に移った。素早い判断でかがみ、頭を下げたのだ。だがその体勢は、重い武器を握ったままにしておくには不安定すぎた。
柄が、カノンの手から離れる。




