猫と烏の喧嘩
「森賀さんッ!?」
駆け寄ろうとした僕を、聞き慣れた声色が制止する。
「近寄らないほうがいい。巻き込まれるぞ、朔馬」
声の主を探して頭上を見回すと、すぐ横のビルの階段の踊り場で、銃を手に持ち僕に視線を返す遼の姿があった。もちろん遼がいるビルにも、同じように真紅の薔薇のデザインが施されている。
「遼、お前先に着いてたのかよ」
「アネクメーネを経由した。あっちとこっちじゃ距離感が違うから」
遼はそのまま、黙って顎をしゃくる。指された方向−−−−−−つまり正面に僕が視線を戻すのと、その視線を遮るように、一つの影が落下してくるのはほぼ同時だった。
「ッ……痛たたた……。なんつー馬鹿力なのよ、アイツ」
勢いよく地面に叩きつけられたのは理恵だった。着地の際、咄嗟に血でクッションを作ったようで大怪我は負っていないようだが、額から血が流れ出し、幾つか痣ができている。
理恵がよろめきながら立ち上がり、頭上を睨む。そこには、夜の帳を編んだような真っ黒な階段を、ゆっくりと降りてくる姿が一つ。
「……死に損ないは貴女の方です。温順しくそこで、同僚がトドメを刺されるのを見ていなさい」
鎌を構えた、長髪の少女のシルエット。ピンクを基調とした冬服で身を固めた、森賀さんと瓜二つの殺人鬼がそこにはいた。その顔、その姿、忘れるはずなどない。
彼女は階段の途中で足を止め、月光に顔が照らされる。間違いない、カノンだ。携えた鎌は〈宵闇の嘆き〉で間違いない。ならば今彼女が立っている階段は、魔具の効果で影を具現化したものだろう。
「何を嗅ぎ回っているかは知りませんが、ちょこまかと動き回られるのは目障りですね。森賀花音と後ろの狙撃手と一緒に、さっさとご退場願おうかしら」
そう言ってカノンは、理恵の肩越しにこちらを覗き込む。すぐに凍りつくような視線が僕を捉えた。
「あら−−−−−−−−−あらあらあらあら朔馬さんじゃァありませんか。前回は余計な邪魔が入りましたが、今回の貴方の退場は早そうじゃァないですか」
そう言いながら彼女は、地面に倒れ伏す森賀さんに刃を向ける。
「あの時は随分と痛い目を見させられましたから、こちらから先手を打てたのは幸運でした。まさか衣服を変えるだけで道に迷った一般人を装えるとは、オリジナルのお人好しも困りものです」
カノンがぐいっとマフラーを引っ張ると、彼女が着ていたピンクの服は足元の影に呑まれ、見慣れた制服に様変わりした。どうやら彼女の衣服は、魔具の応用で作り上げたものらしい。服装は、捜索の手がかりにはならなかったらしい。
さらに、先ほどのカノンの台詞にあった『あの時』とは間違いなく、前回の事だろう。となるとやはり今回も、カノンは過去の記憶を保有しているのだ。
勝利の宣言と言わんばかりに、彼女の口元がにやりと歪む。だが、その時。
「油断してんじゃ無いにゃッ!」
どこからともなく怒号が聞こえたかと思うと、カノンの体が横に吹っ飛んだ。
横−−−−−と言っても、この路地はそれ程幅が広いわけではない。手すりを越えて吹き飛び、壁面に叩きつけられて鈍い呻き声をあげる。天から伸びる階段は、影のように揺らめいて消えた。
今のは跳び蹴りだ。何者かが目にも留まらぬ速さで、さらに高所から奇襲をかけたのだ。それは誰か、答えはすぐに明らかになった。というか、あんなわざとらしい語尾を使う人間なんて、心あたりは一人しかいない。
「……全く、今までどこ行ってたんだよ」
鮮やかに着地したのは黒猫だった。彼女は服についた埃を手で払うと、僕に向かって声をかける。
「ちゃんと来れたんだ」
放って行っておいて、まったくもって無責任である。
「君と僕は二人一組だからな。這ってでもついていくさ」
黒猫は僕が吐いた憎まれ口に満足げに笑うと、しゃがみこんで森賀さんを助け起こす。
「ほらほら、いつまで寝てるの花音ちゃん。そこで寝てられると色々迷惑、というか邪魔なんだケド」
んん……と微かに呻く森賀さんを少し揺さぶるが、目は覚ます兆候は無い。黒猫は少しだけ考えるそぶりを見せたかと思うと、和服の袖をちょいと掴んだ。
「朔馬クン、ちょっと花音ちゃん預かってて」
「良いけど……ッてそれは真逆」
嫌な予感は的中した。黒猫は気絶した森賀さんを、あろうことかこちらに向けて、勢いよく 放り投げたのだ。
「ってマジですか!?」
幸いにも黒猫のコントロールは抜群だった。慌てて受け入れる体勢を取ると、彼女の身体はすんなり腕の中に収まった。ちょうどお姫様抱っこのような格好になる。
行動が荒っぽいというか、雑というか。幸いにして森賀さんに怪我はないようで、投げ飛ばされた衝撃で起きる様子もなく、静かに寝息を立てている。血が滲んだ和服の袖を見るに
全くの無傷というわけではないようだが、ひとまずは無事のようだ。
こんな時だが、初めて彼女の顔をじっくりと見ることができた。血の気の薄い陶器のような肌、というのはもはや定型文とも言える表現だが、彼女はまさしくそうだった。頰に真っ直ぐ走る切り傷の赤は痛々しく映るが、真一文字に結んだ唇の赤は対照的で美しい。
訂正。こんな状況で容姿の感想を述べるのは恥ずかしいので、ただ端正な顔つきだという表現だけに留めておこう。初めて彼女が教室を訪れた時、クラスにどよめきが起こったのを思い出す。そうだ。こんな非日常に浸かっている彼女も、一見すれば、ただの女子高校生なのだ。
「詩人だねえ」
遼が茶化すように口笛を吹く。能力による干渉でも悪用したのか知らないが、僕の心の中を勝手に読み取るな、プライバシーの侵害だぞ。
僕は顔色を悟られまいと、視線をカノンに移した。
「流石に俺の異能もそこまで万能じゃないさ……ッと、起き上がったみたいだな」
あちらではちょうど、彼女が壁にもたれるように立ち上がるところだった。今のうちにトドメを刺せばいいのにとも思ったが、カノンの背後に潜む黒幕の正体を聞き出す必要もある。対話の数は多いに越したことはない。
「けほっけほっ……素手で殴ってこれって、貴女ほんとに生身なんですか?どれだけ馬鹿力なのよ……」
「まあ、禁書の恩恵は受けてるけどにゃ」
だがそれでも、彼女は手持ちの武器を手放してはいなかった。上体を起こすのに柄の助けを借り、立ち上がった彼女は両手で鎌を持ち直す。
二人の距離、凡そ5メートル。
「貴女の禁書というと……ああ。〈不思議の国のアリス〉ですか」
「ほう……」
一呼吸。
「_____________よくご存知でっ!!」
一呼吸で差を詰めて。
黒猫の台詞の最後が僕の耳に届くのと、彼女の手刀がカノンに振り下ろされるのは同時だった。その瞬間に、カノンの顔に不敵な笑みが戻る。無駄のない動作で見切り、手刀は避けられた。
手刀___といっても、黒猫の手の形状は少し違和感があった。指先を鉤状に曲げ、どことなく猫を連想させるのだ。ああいう武道の流派が有るのだろうか。
猫。それは万年を超えて虎へ育つ神霊の仔。相対するは、鴉の如き魔性の類。人形の延長線にして人類の敵。




