一歩、地続きの世界へ
奥に足を踏み入れるにつれ、濃くなっていく血の匂い。背の高いビルに両脇を塞がれた閉塞感をこらえて、僕は黒猫のあとを追う。
彼女は少し足早に、かつ軽やかに道路を進んでいく。何度も曲がり角で彼女を見失いそうになりながら、僕もおいてかれまいと歩調を速めた。
「あー、これは少し面倒かもしれないにゃ。見る次元そのものを変えないと、マトモに目的地に辿り着かない仕掛けの箱庭ね。これはますます、黒幕の存在を疑わずにはいられないね」
独りでぶつぶつとなにやら呟きながら、彼女は時々空を仰ぎ見ている。しばらくした後、道の途中で立ち止まると、続けて僕に意味不明な問いかけをした。
「私は跳んで行くけど、君はどうする?」
「どうするって、何を?」
どうするも何も、そもそもまず目的語がわからない。僕がまごついていると、黒猫は焦ったような素振りを見せ、路地の奥と、僕の顔を交互に見た。
「ああそっか、まず君は、そもそも知覚するところから始めないといけないんだったか。しょうがない、急を要するかもしれないし、時間が無いから私は先に行くから、君も急いで追いついてきて。闇雲に歩いているだけじゃ、この先へは進めないから注意するんだよ。大丈夫、君の異能と観察眼なら絶対進めるはずだから」
じゃ後でね、と僕の肩を叩くと、彼女はまた前を向き、今度は勢いよく走り出した。そのまま速度を上げると、ちょうど十メートルほど先にある電灯の前で踏み切ると、まるで猫のように高く跳び上がった。そしてその直後、さらに驚くべきことが起こった。
彼女の姿が、空中で消え去ったのである。
頭を軽く左右に振って、もう一度路地の先を凝視する。しかしどこにも、着地している筈の彼女の姿は無い。だがしかし、黒猫が真の意味で消えたはずはない。
だが現に、今この路地は僕一人である。理由はさておき、この状況を一人で打破しなければならない。つまり、ここにあるという結界から脱出し、黒猫と合流して、おそらく悲鳴の主である森賀さんを救出しなければならないのだ。
僕は少し小走りになって、彼女が消えた地点に駆け寄る。違和感には、すぐに気がついた。それはあまりにも突然だったが、僕の周囲に確かな変化を感じたのだ。
酸素が。いや、息がと言ったほうが正しいか。
呼吸が、極端に重くなったのだ。というより、満足に出来ない。極端に空気が薄い、というイメージが近いだろうか。まるで高山にいるかのような息苦しさから逃れるように、僕は思わず後ずさる。
すると、数歩後ずさったところで急に呼吸が楽になった。更に驚いて辺りを見回す。ドアノブを回して扉をくぐり抜けた記憶もないし、何かをすり抜けた感触もない。何が契機となっているのか。
数歩間を行ったり来たりして調べているうちに、なんとなく、今起こっていることが判ってきた。どうやらこの路地は、見えない膜のようなもので仕切られているのだ。膜のこちら側は通常。進行方向にあたるあちら側は空気が薄い。そして偶然か否か、黒猫が消えたのもこの膜の辺りだった。
つまりここは、不可視の境界線なのである。先に待ち受けるのは、恐らく非日常。振り返り、責務を棄てて引き返せば日常の街。
僕は急に先に進むのが怖くなってしまった。でも同時に、僕が抱いている疑問の答えは、この先で答えが見つかる気もした。これは直感というより、むしろ勘に近いのだが。ならば進むしかない。匹夫の勇にならないようにだけ、気を付ければいいだけのこと。
僕なりにゆっくりと、今の状況を整理するとしよう。深呼吸して立ち止まり、ぐるりと辺りを見渡す。すぐに、点滅を繰り返す電灯が目に留まった。
橙の光を断続的に地面に打ち付け、その度に僕の足元に影が見え隠れする。
電灯の柱に視線をずらす。何の因果か、何の偶然か。はたまた無意識下で元から気になっていたのかも知れないが−−−−−−そこに、違和感を感じるものがあった。どう見ても、この場にそぐわない物である。
「−−−−−−−−縄?」
そう、縄。それも、あれは神社でよく見る−−−−−−−−
注連縄である。注連縄が、電灯に巻きついているのだ。
よく見てみると、他の電柱やビルの凹凸にも、まるで蛇のように注連縄が絡まり、まるで神社のような雰囲気を醸し出している。
電柱を古木に見立て。
雑居ビルを社に見立て。
御幣を絡めて巻きつく縄。蛇を連想させる、普段目にする非日常が、そこら中に張り巡らされていたのである。
−−−−−−−−−−真逆。
僕はその時、いつか聞いた綿津見の台詞を思い出した。
_________『アネクメーネをこの世界の表に現界させる方法は幾つかある。世界そのものを反転させることは難しいけど、例えば、境界を定めるものを設置するだけで限定的に接続することは可能だ。アネクメーネはあくまで裏世界だから、それを表にするには現界する範囲を指定すればいい。注連縄とかで区切ってしまえば、区切られた敷地内だけは異界と成るんだ』
ああ、注連縄ならば、今目の前にある。ならばここは、この先は。
異界ということになる。非日常の住まう暗部が、目に見えない膜を一枚隔てて広がっているということだ。
息苦しいのも当然か。もしも綿津見の言った通りなら、この先は世界の理が違うのだ。神社の神聖な空気感に息が詰まるのとは訳が違う。この先は単に空気感が異なるのでは無い。空気そのものが、異界のものとなっているのだ。
それに、これは感覚にすぎないのだが、この縄の隔てる先はどうも行きにくい。本能が拒むと言ったらいいのか。正確に言語化するのは難しいが、兎も角、そういう不思議な感覚なのである。
間違いなく、答えに近づいてる。
僕は二度足を踏みながら少し後ろを振り返った後、
「……さらば日常」
僕は無意識のうちに息を止め、恐怖から少し小走りになって、境目を一気に駆け抜けた。
数歩後、ちょうど注連縄が巻きついた電柱を超えたあたりで空を見上げると、背の高いビルの隙間からは、紫の絵具を塗りたくったような空が顔を出している。振り返ると、日の差し込む賑やかな大通りが、ぼやけて視界に映る。
目に見えない境界線を越えたあたりから、さらに強くなったようにも思える血の匂いを追って、僕はいつ終わるかわからない路地の先を急いだ。先は暗い。でも、進むしか無いのだ。