非日常の香り
路地裏に違和感を感じる。空気が重い。無意識下で注意と視線が惹きつけられる。閉店が決まった喫茶店と、商業ビルの間の空白部分。両脇の建物が光を遮り、路地は暗い。元来暗がりは人を不安にさせ、本能的に遠ざけるものだが、今回ばかりは事情はもっと複雑のようであった。 黒で塗り潰された路地裏の奥に、まるで地球を超す高質量の何かがある様に、じりじりと、視線が惹きつけられる。
「ごめん、ちょっと待って」
僕は先を歩いていた黒猫に一声かけると、引き込まれるように、薄暗いその空間に足を踏み入れる。
じゃりっと靴が音を立て、湿っぽい空気と共に微かな血の匂いが嗅覚を刺激した。
なぜ僕が、こんな怪しげな道を進もうとしているのか。その理由は、およそ三十分ほど前に遡る。
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「……つまりカノンが行動を起こす前に、同じく過去の記憶を持っている森賀と合流し、情報を共有する必要があると。だっていうのに、あいつは単独行動を好んでいるのか」
「一丁前に責任感じてるんでしょ。巻き込んだ時点で一心同体だってのに」
そこで彼女は一旦言葉を区切り、僕の方をちらりと見る。
「朔馬はここで合流するつもりだったらしいけど、あいつが集合場所に時間通りに来ていない時点で、何かあったと見るべきよ。時間にうるさい彼女の性格、みんなもまさか忘れたわけじゃないでしょ」
僕が無言で頷くと、弾かれるように遼が立ち上がった。
「もしかすると、さっきのウナギ悪魔よろしく足止めを喰らっている可能性も考えられるからな。綿津見と佐口はそっちを確認してくれ」
スマートフォンを弄っていた遼が、パタンと音を立ててスマホカバーを閉じ、声を上げる。
「ミツとヤイバ、それと一応森賀本人にもメッセージを送っておいた。既読は未だつかないが、いずれ反応するだろうさ。文面は、『可及的速やかに連絡すべし』だ」
「そうだね、遼。今までの僕らの敗因は、連携する前に各個撃破されてしまったからだ。全員で息を合わせてカノンに立ち向かえば、きっと」
今度こそ、勝てるかもしれないなどと淡い期待を抱かずして、どうして前に進めるというのだろう。
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各ペアごとに割り振られた捜索地区を歩き回って、およそ十分程経っただろうか。お目当の三人が見つかる気配もないまま、僕たちは公園のベンチに腰掛けていた。
「……で、どうして君が僕のペアなんだい?」
僕は、心に湧いた疑問を、隣に座る少女にぶつけた。僕の予想では、僕と組むのは知り合った年数の長い遼か理恵、またはその両方になるだろうと思っていたからだ。別に彼女……黒猫とペアを組むことが不服なわけでは決して無い。多少不躾な質問かもしれないが、それでもどうも腑に落ちないのだ。
黒猫は予想通り、え、と言葉に詰まっている。初対面の時のチャイナドレスから軽装に着替えた黒猫は、何やら言いにくそうな顔のまま、ぽつぽつと話し始めた。
「綿津見と澪がもう十年以上の付き合いで、遼と理恵も中々息の合った名コンビだし、みんな二人組は固定されてるっていうか……」
ひゅー、と一陣の風が僕ら二人を吹き曝す。彼女にとっても触れられたくない話だったのかもしれない。
「で、ミツとヤイバはあの調子でイチャついてるでしょ。ハグレモノの私は余って当然なの。そういう意味では、腹の底が読めない花音ちゃんと組むことも多かったわ。ペアを組むといっても、事務連絡以上のことはお互いに話さないんだけどね」
黒猫は少し寂しそうな表情を浮かべ、僕の顔をじっと見る。
「つまり、私たちは『余り物』って訳。別に君が嫌われているわけでは無いのだけれど、そういう空気なのね。あ、今は森賀ちゃんって呼ばないと紛らわしいんだったね」
黒猫はそこで言葉を区切ると、視線を逸らした。気まずさからか、足の先で地面の砂を弄っている。
「それと……ううん、何でもない。大丈夫。私と朔馬はきっといいコンビよ。だって何度も死地を共にしてきたんだもん」
黒猫はどこか誤魔化すように、そして自分に言い聞かせるかのように、そう呟いた。僕はこのなんとも言えない空気に耐えきれず、立ち上がった。
「文字通り、だよな。よしッ、それじゃあ張り切って捜しに行こうか。他の組より先に見つけてやるぞ」
「そう来なくっちゃ。人捜しは矢ッ張り、脚で捜してこそ」
黒猫は座っていたベンチの背もたれの上に飛び乗り、爪先だけでバランスをとる。
ふわりとミニスカートが風に揺られ、太陽を背にしてちょうど逆光となった黒猫が、高らかに謳いあげる。そして残念なことに、彼女は眩しい笑みとともに、インドア派の僕にとっては忌まわしい言葉を吐き出したのだった。
「この街の全ての道を走りゃ、どれかはアタリだからにゃあ」
ぐえっ、と僕は悲鳴を漏らす。なるべく早く、アタリに行き着きたいものである。
その時突然、ゆっくりとしたテンポのロシア民謡が辺りに流れ出した。驚いて、僕らは立ち止まる。
「この音楽は……!?」
黒猫が険しい顔つきになり、辺りに注意を巡らせる。だが一方僕にはその曲に聞き馴染みがあった。
「あ、僕の着信音だわ」
ポケットの中のガラケーが振動している。この曲は、理恵からの着信音だ。
「うわ出た、着信音一人一人設定してる人だ。にしても何故ロシアの子守唄なの」
警戒を解いた黒猫が、呆れるように僕を見つめる。
「え、結構理恵に似合ってないかな」
もしもしと話しかけると、すぐさま携帯から怒ったような、鋭い声が飛んできた。
「何の話よ。どうせロクでもないことでしょ」
「いいや別に。で、ご用件は?」
「こっちでヤイバとミツと合流したわ。で、二人曰く、朔馬達の担当のあたりで森賀オリジナルを見たらしいの。今私たちもそっちに向かってるわ」
「了解、黒猫にも伝えておく」
それにしても森賀オリジナルという表現は、なんだか私のおじいさんがくれた初めてのキャンディーのようである。
「……朔馬クン、多分そのネタは古すぎて私たちの同世代には伝わらないと思うよ」
そんなお気楽な会話を交わしたさらに十分ほど後、僕はくだんの、怪しげな路地に遭遇することになるのだった。
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鉄の香りが嗅覚を刺激する。血の匂いが脳を不快にさせる。この先に何かあるには間違いない。
「黒猫……」
僕が呼びかけようとした少女は既に、僕の隣で薄暗い路地を覗き込んでいた。
「異能の気配だよ朔馬。何か、いる」
暗い路地の先の闇をじっと見据えながら、黒猫は顔をしかめる。明るい表通りとは正反対に重苦しく広がる空気は不可視の壁となり、僕に二度足を踏ませた。
「カァー、カー」
路地の奥から何かの鳴き声が聞こえる。烏だ。その声は段々と近づいて、もそもそと動く黒い塊は、日の当たるところまでやってきた。
「ネヴァンじゃん。可哀想に、その怪我どうしたの……」
カァ、と弱々しく鳴く烏は、その眼で何かを訴えるようにこちらを見た。黒い羽毛で分かりにくいが、その全身はどす黒い血があちこちに付着している。
「なあ黒猫、まさかこの奥にいるのって……」
僕の言葉に無言で頷き、彼女はぎりりと歯をくいしばる。爛々とした目が光った。
「当たりよ、急がなきゃッ!」




