タイムパラドックス
図書館に入る。いつだったか、かつて僕は図書館を、無機質な本棚だけが閑散と並べられた巨大な匣だと形容した事がある。今がまさしくそうだ。閉じた建物に人の温もりはなく、その整然さが、かえって不気味さを醸し出している。
でも、まぁ、この空気は嫌いじゃない。
「あれ、森賀さんは……」
中を見渡すが、図書館で待ち合わせをしていた筈の森賀さんの姿は無い。まだ到着していないのだろうか。先に〈禁書エリア〉に入って待っておこうかと思い、僕は受付の向こうの壁にちらりと目をやった。今回の僕には、しっかりとその扉が見えているのだ。彼方と此方、彼岸と此岸の境目は意外なほど近くに転がっているという事を、すでに僕は知っている。知っているからこそ、僕はこの扉を見ることができる。
「前回はさ、この扉、理恵に開けてもらったんだ」
扉に近寄り、つぅ、と指でなぞる僕を見て、遼たちは複雑そうな顔を浮かべる。
「朔馬……」
理恵が何か言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。彼女の表情から察するに、大方、僕をこの件に関わった責任なんてものを感じているのだろう。でもそれは、徒労というものだ。僕はそのまま言葉を続ける。
「でも、今回は、僕はこの扉が見えている。僕はやっと学んだんだ。自分で未来を創りにいかないと、どんな結末が訪れたとしても、芽生える感情は後悔だけだ。傍観者気取りなのはもう、終わりにしないと」
これ以上の時間遡行は出来ない、という理由はその後にくるものに過ぎない。あの時こうしていれば良かったなんて。後悔より、先に立たなければ。
「……いいか朔馬」
だがそこに、僕を諌めるような言葉が飛んできた。遼だ。
「いいか、それは覚悟であって決断じゃない。その扉は日常からの出口なんだ、非日常の入り口とはワケが違う。自分の意思でくぐることは、日常との決別と同義と言っても良い」
遼がやけに強く、早口でまくし立てた。
「戻れないぞ。引き返すなら、今だ」
その目に強い意志を感じながら、僕は彼から目を逸らすことは出来なかった。彼の想いから、目を逸らしてはいけないと感じたからだ。
「でも遼は、僕をここに連れてくることを提案したじゃないか」
「俺が誘ってやる、と言ったんだ。ツアーガイドよろしく先頭立って引率用の旗を振ってやろうというわけだ。誘われたなら迷い込むのも道理だが、自分から行くとなればまた別の話だ。もし、お前が空気に流されて今の決意を固めているならば。俺にはそれを諌める義務がある」
義務だ。と彼は繰り返し強調する。
「いいか朔馬、俺はお察しの通り楽観主義者だ。この扉も迷いなく通ったさ。でもお前は、俺とは違う。俺たちと違って、世界の命運なんて大層なものを背負う必要は必ずしもお前には無い。目を背けたって、誰にも文句は言えない」
「……判ってるよ」
僕は小さく、言葉を絞り出した。
「だから……だから嫌なんだ。また僕だけ、仲間はずれじゃないか」
僕はカウンターに積まれた本の背表紙をなぞる。返却済みの本を五冊、ふわりと浮かせると、僕は自分の周りをくるくると回らせた。表紙はそれぞれ、『ラーマーヤナ』『スノッリのエッダ』『変身物語』『山海経』『クトゥルフの呼び声』。神話好きの人が一度に借りたのだろう、物好きがいるものだ。
「いいか遼、これが僕の異能だ。様々な神が舞い踊った古代ギリシアの演劇舞台、その全てを司る機械が僕の起源。どんな吟遊詩人もかの神の逸話を知らず、逆に彼は、全ての神の伝説を語る役目を持つ。メタ世界の神だ」
理恵の前に『山海経』、遼の前に『変身物語』、黒猫の前に『クトゥルフの呼び声』、そして僕の正面に『ラーマーヤナ』が来たタイミングで、異能を操り本を静止させた。余ってしまった『スノッリのエッダ』は、仕方がないので虚空の前に制止させた。
「遼に義務があるなら、僕にだって同じようにあるさ。全てを見届けて、語り継ぐ義務が僕にはある。記憶する役目は、なにも黒猫だけが負っているわけじゃない。な?」
僕が彼女をちらりと見やると、その猫のような目は僕を見て悪戯っぽく笑った。
「その通り。キミが見捨てた四つの世界線を、キミだけは絶対に忘れちゃいけない。忘れたら思い出させてあげるから、憶えるまで見届けるのよ。それが四度世界を見捨てて逃げた君の、贖罪」
黒猫は宙に浮いた一冊の小説を受け取ると、海外文学の棚の方へ消えていった。その後ろ姿を見ていた理恵は、はぁ、と深い溜息をつき、同じく差し出された山海経を受け取る。
「遼、私たちの負けよ。朔馬を心配するのと、無下に突き放すのは違うわ。今回ばかりは黒猫が正しいのかもしれない」
「……そうだな」
遼は目を閉じ、理恵につられるように息をつく。彼も変身物語を手に取った。僕は彼の無言を肯定と受け取り、さらに扉に近づく。手を触れる必要もなく、部屋は初めての来客を迎えるがごとく、独り静かに開いていった。
「指くわえて見てるよりよっぽどマシだよな」
背中にかかる遼の声にああ、と短く返事をし、僕は一歩足を踏み出した。
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「んー、難しいねえ」
そう顔をしかめたのは綿津見。隣では佐口さんが頭を抱えてなにやら唸っている。
「情報量が多いぞ。ちょっと整理させろ」
「どうぞ。相槌なら打ちますよ」
「助かるよ、えーっと……朔馬君、だっけ。君はここ数十時間を、自殺をトリガーとしてループしている、と」
「はい」
「私たちが先日会敵した森賀花音の使役人形18番は、そのどのケースにおいても私たちをはるかに凌駕し、結果死に至らしめている、と」
「……はい」
「私がその話を、取るに足らない下らない冗談だと決めつけた場合はどうなる?」
「僕たちは明日を迎えることはできません。僕はもうこれ以上時間遡行が出来ませんので、誰か他の誰かが時間遡行をして、結果危機を回避する未来へ進むことを選ぶのみです。どちらにせよ、今の世界に生きている僕たちにとっては、行き止まりになる」
そう、行き止まりだ。時計の針は二度と進まない。カレンダーはめくられない。たとえ誰かの時間遡行で年明けを迎えられる世界線が存在すると仮定しても、この世界線に生きる僕らは終わりの時を迎えるのだ。
僕はそうやって、四度世界を見殺しにして逃げてきた。そしてもう次の遡行は出来ないことを知った今は、僕が誰かに見捨てられる番になるしかない。わがままな話だが、今になってそのことが怖くなったのだ。理恵や黒猫が独りで時間遡行して、それで世界が救われたなら、その世界に生きる僕は幸福な未来を掴み取れるかもしれない。だがその僕は、この僕と連続した存在ではない。
「裏からカノンのバックアップをしている奴がいるという話、真剣に捜索したほうがいいかもしれない。もしそれが真実なら、事態は平面的なものに留まらない」
佐口さんの推察に相槌を打ったのは、隣に座る綿津見だった。そしてその綿津見の思索に、遼も口を挟んでいく。
「黒幕ねえ……思い当たる節ならいくらでもある」
「禁書狙いのセクトは後を絶たない。魔術連盟の工作員の目撃情報も増えてるし、新種の怪異の仕業って可能性もある。いずれにせよ、絞り切るには情報が少ない」
遼が指折り数えはじめると、すぐに綿津見は首を横に振った。
「いやいや、魔術連盟が黒幕ってのは解せない。理恵と黒猫、それと森賀は末端とはいえ会員だ。均衡に重きを置く連盟が、わざわざこんな事態を引き起こすはずはないだろう。それどころか、俺は状況を収束するための応援の派遣を連盟に要請しようかと思っているくらいなんだからな」
兎も角、と理恵が手を叩いて注意を引く。
「兎も角、森賀を捜さないと話は進まないわ。あいつも関係者でしょ。会議に交えないと、作戦立案もあったもんじゃない。まあ待ってれば来るとは思うけど」
その通り。舞台は全ての役者が揃わなければ始まらない。終演まで、一人でも欠けることは許されないのだ。
「それじゃあ当面の目標は森賀との合流、並びにカノンの現在位置の確認となるわけだ。鉄則として、安全のために二人一組で動くこと。それに万が一ターゲットを見つけたら、勝手に突っ走らずに他の班も呼ぶように。全員、お互いに連絡できるツールは持ってる?」
綿津見の言葉に呼応して、僕以外の全員が素早くスマートフォンを取り出す。僕だけ独りそろそろとガラケーを取り出すのは疎外感が半端じゃない。そろそろスマホデビューしようか。
「さて。あの人形に、俺たちの本気を見せてやろうぜ」
綿津見が、獣のような笑みを浮かべる。彼には無い彼自身の死の記憶が、闘争本能を駆り立てている。




