物理的落下
色々と思い出せるようになったということは、つまり知識量も増えたことを意味する。少し時間はかかったが、前回の僕の行動をなぞるように説明することで、理恵や遼にすべてを伝えることができた。もちろん彼らもすぐに信じてくれたわけではないが、最終的には信用してくれた。彼らから生じた疑問点などについては、僕が新たに思い出すことが出来た記憶の中に答えがあったからだ。
黒猫の異能力は記憶に関するものだ。彼女の任意の記憶を封印したり、逆に新たな記憶を植え付けることもできる。僕はかつて彼女の異能の助けを借り、僕自身の記憶に蓋をした。時間遡行で記憶が引き継がれるか心配だったのだ。一度カギをかけてしまえば、多少荒い運搬をしても失くしてしまうことはないだろうという判断から来たものだった。もちろん少しは、壊れてしまった部分もあるようだが。
黒猫という思わぬ同行者が増えたが、ともあれ僕たちは図書館へ向かったのだった。
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「な〜んだ。ようやく朔馬に異能のお話できると思っていたのにー!」
私の異能はッ! と天高く右手を突き上げる仕草をする理恵。
「カッコ良い台詞も考えていたのに、まさか初の後輩が……私より物知りなんてッ……」
これは後から遼から聞いた話だが、理恵は今のメンバの中で一番最近に〈禁書の守り手)になったらしい。遼も黒猫も、理恵より少し前から活動を行っていたそうだ。
さて、他愛のない話をしながら歩みを進め、もうすぐ図書館が見えてこようかという頃であった。不意に、遼の足が止まる。
「なあ理恵、なんか嫌な予感しない?」
「ん、忘れ物でもした?」
気楽そうに答えようとした理恵を遮るように、黒猫の首ががくん、と下がる。頭につけた猫耳がぴょこりと動く。あれは飾りじゃない。僕は覚えている。あれは彼女の、もう一つの力だ。
「感覚器官生成、猫の第六感が告げるわ。ええ、水難よ」
黒猫がそう言った瞬間、地面を踏みしめる感覚が無くなる。上昇する遊園地のジェットコースターが、今にも落下するという瞬間に近いだろうか。深淵を覗き込むと、また覗き返されるとは言い得て妙だ。足元には、巨大な、穴が。
落ちる。
否、もう落ちている。
次に意識が戻った時、僕は水の中にいた。その事実に気付いた瞬間に焦って少し水を飲んでしまったが、なんとか体勢を立て直す。急いで水面に上がろうとするが、水の流れが早く、まともに泳げない。
周りを見渡せど、淀んだ水は見通しが悪い。周りに黒猫たちがいるかどうか、状況を掴むことは出来なかった。
(やばッ……このままじゃ溺れ……)
死、という言葉が一瞬頭をよぎる。ダメだ、ここで死んだら元も子もない。
だがどうする。水流に揉まれて息継ぎは困難だ。畜生、矢張り駄目か?
流れがあまりに急すぎる。水中で暴れても無意味なことはすぐに判った。だが無駄な体力を消費するだけだと判っていても、何もしないまま溺れ死ぬのだけは嫌だった。誰か、誰か気付いてくれッ……!!
祈りは、果たして通じた。突如、水面が赤く染まる。驚きで、ぼやけていた思考が回復していく。
赤い何かはそのまま僕を全方向から取り囲み、僕の視界は光を遮られて暗闇に染まる。水は隙間から漏れていき、僕はようやく息をすることが出来た。どうやら僕の身体は水面から出たようだ。
赤いカプセルの内側の壁に顔を近づけると、かすかに鉄の匂いがする。成る程わかった。この繭は、血だ。
その瞬間、僕は血の繭ごと地面に叩きつけられる。
衝撃で、壁に頭を打つ。
「大丈夫朔馬、まだ息してる?」
理恵の声が聞こえたかと思うと、血の繭は水になって溶けていった。血でできた繭で捕縛され、川岸に打ち上げられたようだ。びしょ濡れではあるが、黒猫と遼はすでに川岸へ上がっている。彼女らも僕と同じように救出されたらしい。水が絡む場所では、理恵の異能は相性が良いようだ。
「ああ……ありがと、理恵」
礼を述べ、差し出された手を掴んで立ち上がる。
少し落ち着いたところで、辺りを見渡してみた。その異常さにはすぐに気が付いた。
いわゆる『異世界』にでも来たのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。何年後かは判らないが、地球はいずれこうなる気がしたのだ。黙示録の後の世界とは、ここのような場所を指すのだろう。
一見すると、地球上どこにでもあるような荒野のよう。いや、砂漠といった方が正しいだろうか。どちらにせよ無残にも荒れ果てている。空には紅い月が浮かび、かつての繁栄を示すかのような、高層ビル軍の廃墟が遥か遠くに見える。また、そばに川が流れているのにもかかわらず、空気は乾燥している。全てが噛み合っていない、奇妙な違和感が僕を襲った。
「うわ……こりゃ、結構奥地に飛ばされたな」
遼が服を絞って水気を吐き出させながら立ち上がる。彼のその口ぶりからも確信を得た。ここは、アネクメーネだ。
「ああもう、水は嫌いなのになァ……」
黒猫が自分の髪の毛から滴る水をぼんやり眺めながら、うんざりそうに呟く。すると、嘆きを聞いた理恵が薄ら笑いを浮かべた。どうせロクでもないことを思いついたのだろう。
「へえ……だったら祓ってあげるわ」
理恵が立ち上がり、黒猫の頭をぽんと叩くと、黒猫の服についていた水が血に変わる。一瞬にして、水に濡れた猫は血塗れの猫になった。
「ぎゃああああああああああ」
慌ててごろごろ転がる黒猫を見て、理恵が可笑しそうに笑い転げる。
「ざ、ま、あああああ〜。私は貴女の注文どおりにしたまでよ?」
吹き荒れる荒野の風。周囲の世紀末っぷりと、通常運転の理恵と黒猫の掛け合いがなんともミスマッチで、僕と遼は思わず苦々しげに笑った。
「あの馬鹿……あとで絶対復讐してやるわ……ッ」
血まみれの黒猫が、苦々しげに毒を吐きながらこちらににじり寄ってきた。
「一応、せ、説明要るかしら」
「お、お願いします」
僕の目の前でちょこん、と正座をする黒猫。つられて僕も正座をする。
「アネクメーネは現実の裏側にあるっていう話は覚えてるよね。常識の境界線より上ならば表層。下ならばアネクメーネ。つまり、境界線から離れれば離れるほど、現実の乖離度は高くなっていく」
顔についた血を指でぬぐい、乾いた地面に模式図を書く黒猫。砂は良く血を吸いこんだ。
「そしてここはおそらく、アネクメーネの中でも特に異質な場所。君が前回、現実と異界が入り混じったような裏世界に行ったのならば、ここはその時よりも現実から乖離しているという事。地面に空いた虚構の穴をくぐって、私たちは下へ下へと落ちていった」
黒猫が境界線より下に線を引っ張っていく。鹿の絵が添えられた矢印よりももっと下に、下に下がっていく。そして最後にhereと添えると、ニヤリと笑い、鋭い犬歯をチラつかせた。
「衛星写真にうつしてみれば、私たちはさっきからほとんど動いていないはずよ。変わったのは深度だけ。ここはあまりに現実からかけ離れてしまった、私たちの住む街よ」
思わず天を見上げる。そこには、ついさっき見たときよりも随分と大きく見える紅い月が、嗤うように浮かんでいた。




