記憶の錠前
「猫が......喋った?」
思わず足を止め、路地裏の入り口にちょこんと座る猫を見つめる。真っ黒な体毛に、琥珀の中の真っ黒な瞳。正真正銘、ただの黒猫である。
「気のせいか」
そう思い直して歩き始める。猫が人語を操るなど、そんな馬鹿げた話に付き合っているヒマはない。なにせ今日は朝から大忙しなのだ。御伽噺は時間と心の余裕がある時にするものだ。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ」
無視だ無視。幻聴だ幻聴。タイムリープなんてするから頭が混乱しているに違いない。だがしかし、結論から言うと僕は寝ぼけている訳ではないようであった。視線を感じて後ろを振り返ると、そこには先ほどの黒猫が、後をつけながら少し後ろで僕を見つめていたのだ。もしかするとこの黒猫、ただの猫ではなのかもしれない。もしかするとこの猫こそが、僕が探していた件の『猫』......。
いやいや、それは考えすぎな気もする。この猫がただの猫であり、この声も僕がついには狂ってしまったが為に聴こえているだけのまやかしに過ぎない......。その可能性の方が大きいとも。そうであるならば、このまま話し続けている方が僕の精神衛生上よろしくない。
ちょっと足を早めて学校に急ぐ。振り返ると、まだいる。今度は後ろを振り返らないように、少しづつ、少しづつ足を早める。走る。ちらっと振り返ると、黒猫は全速力で追いかけてきていた。何度角を曲がって遠回りをしても、付き纏ってくる黒く小さな影。
「おいおいなんでだよ、 マタタビなら持ってないぞ!!」
**
学校に着いた。ぜえぜえと息を切らしながら、靴を上履きに履き替えて校舎内に入る。振り返ってもついてくる影は無い。あの猫は追跡を諦めたのだろう。
廊下に足音を響かせる。左に曲がれば教室。まっすぐ進めば中庭に結びつくこの分岐点で、僕は立ち止まった。
視界の奥にぼうっと見える中庭。朝日が差し込み、柔らかい表情をみせている。途端、視界が暗くなる。夜の冷たい、血で染まった中庭の記憶が重なってぼやける。僕は袖で涙を拭った。
違うだろう。僕はまだ涙をこぼすべきではない。今の時間軸ではまだ発生していない事象なのだろう。そうであるならば、これはただの幻に過ぎないのだから。惑わされるべきではないのだ。首を振って気の迷いを振り払う。歩みを進めよう。
**
「朔馬が遅刻とは珍しいな。なにかあった、というのは本当のことのようだ」
教室の扉を開けるとすぐ、遼の鋭い声が飛ぶ。
「ああ、不測の事態というヤツだ。ちょっとした鬼ごっこをしててさ」
まだ少しだけ荒い息を整えながら、僕は鞄を机の上に置いた。僕自身猫は嫌いではないが、追いかけられると
「あら......それはまた難儀だったわね。で、お相手は?」
理恵だ。教卓の上に腰掛けている。僕がわざと使った不測の事態という言葉に、彼女はやはり敏感に反応していた。僕はそれに気付いていないふりをしながら、言葉を続けた。
「とんだ笑い話だが、鬼の役は黒い野良猫でさ」
ははは、と自嘲してみる。だが僕の笑い声は静寂の中に吸い込まれるのみだった。猫という単語が出た瞬間、教室の空気は硬直する。
「クロネコ、だぁ?」
理恵が殺気立った声を出す。理恵はネコが嫌いだったのだろうか。そんな記憶は無いのだけれども。
「アイツ、この街に戻ってきたのなら私に連絡くらいよこしなさいよ……!」
「ああ、この街に存在し得る黒色の猫は唯一アイツだけだ。これ以上事態が複雑になる前に、とっとと話の大枠だけでも……」
遼までが少し声色を変え、僕の方を見る。そしてその直後、彼の顔色がサッと変わるのと、僕が後ろに強引に引っ張られるのはほぼ同時だった。
「むぐ......むむんんんん! むぐぐぐぐぐ」
頑張って声を出そうと息を吐き出したが、声にならないうめき声しか出ない。後ろから誰かに羽交い絞めにされているようだ。
「だめよ、私にも私の事情があるんだから」
背後から、にひひひと笑い声が聞こえる。ため息をついている遼と理恵を視界に捉えていると、後ろの誰かは腕を離したようで、ようやく自由の身になれた。二、三歩よろめくように前に踏み出して振り返ると、そこには真っ黒な旗袍に身を包んだ、背の高い少女が立っていた。
はじめは理恵がもう一人現れたのかと思った。だがよく見ると似ているのは顔立ちだけで、そのほかは違うものばかりだった。長い黒髪を括らず素で下ろした彼女は、醸し出す雰囲気もどこか動物のような強さを感じる。だがそれらの差はあれど、彼女は理恵にも負けないほどの美形であった。目が合ったその一瞬、見惚れてしまうほどには。
「............って、あなた一体誰です?」
慌てて首を振り記憶を辿るが、こんな女子と出会った記憶は無い。だが困惑する僕をよそに、背後から飛んだ遼の声は呆れ半分であった。
「おい猫、ふざけるくらいならちゃんと挨拶しとけよ。お前、朔馬とは初対面だろ?」
その言葉で我に返る。そうか、彼女が『猫』か。遼に促された少女は僕をちらりと見やると、罰が悪そうに口を開いた。
「えっと、今更挨拶するのも恥ずかしいんだけどネ。アザナは黒猫。諱はまだ内緒。事情があって隣町にいましたが、昨日からこっちに戻ってきています。そこのいけすかないヒトは私の妹です」
「え、いけすかない人ってどっち」
「遼じゃない方」
「なるほどね」
「何がなるほどねだよ。いけすかない人と言われて迷ってる時点で俺は悲しい」
「さらっとみんなで私をディスるんじゃないわよ。それと黒猫、私はあんたよりも早く生まれてきたんですけど」
「では証拠をご提示願おうかしら。私の方が高身長だし、私の方が発育良いんですけどー?」
黒猫がビシッと理恵を指差す。確かに黒猫の方が高身長だし、黒猫の方が……否、これ以上は言うまい。
「はーん。だったら朔馬に聞いてみたらいいんじゃない?」
「待て待て、ここでトロイア戦争を起こす気か。朔馬はパリスじゃないんだぞ」
遼が二人の間に割って入り、両手で制止する。そしてそのまま黒猫に話しかける。
「で、君がここに来た事情とは何だ。そしてさっきの、朔馬と知り合いかのような口ぶりについても説明してもらおうか」
「おや怖い怖い。私は私の為すべきことを、為すべき時に果たしにきただけよ」
黒猫が僕に近づいてくる。そしてまるで何かを見定めるように僕を見つめると、静かに口を開いた。
「朔馬、かつての君に預かっているものがあるんだ」
彼女は小さな金属製のカギを見せつけるように近づけた。
「合言葉が必要なの。次の貴方が良い縁を結べるよう、自分で決めた合言葉が」
閃いた。これだ。これこそが、次の一手だ。僕は確信をもって、視線を理恵へ向ける。
「シラトリ、カリン」
「……信じていたわ」
黒猫は短く頷くと、僕の額のすぐそばで、空中に錠前か何かがあるかのように。カギを回すしぐさをする。すると驚いたことに、彼女の動作は、僕の心の中に張り巡らされた鎖を繋ぎとめる錠前を、文字通り開錠していった。
記憶を掘り返そうと努力すればするほど、それを阻むように張り巡らされていた鎖があった。それがほどけていく。ああ、そうだ、そうだ。
思い出した。やっと思い出せた。
「……そういうことか、随分と手が込んでいるな」
「我慢して。私の異能、《忘れ形見の備忘録》はセキュリティが厳重なのよ」
僕と黒猫は笑みを浮かべて視線を交わす。そこに割って入るように口を開いた人物がいた。理恵だ。様子を見るに少し怒っている。
「全ッ……然わけわかんないんだけども。なんで一昨日まで隣町にいた黒猫と朔馬が記憶管理を依頼していたような仲で、そもそもなんで異能も何も知らないはずの朔馬が、私のイミナまで知っているのよ」
「ああ、それはね」
僕は率先して口を開く。今一番説明役に適しているのは僕であり、僕にはその義務がある。なぜなら前回、僕は森賀さんと約束したのだ。
「少々危険な橋でも渡らなきゃ、ハッピーエンドは訪れないってことだよ」
はぁ、と首をかしげる遼と理恵。ああそうだ。反撃は今から始まる。




