世間知らず
昨日は波乱の1日だった。事情を話した森賀さんから聞き出した情報もなかなかに衝撃的だったし、家に帰って遼と理恵とした通話では、細かい話を伝えることを諦めて無知を装った。彼らをだますようで少し心苦しかったが、すぐに打ち明けることではあるし、仕方ないと割り切った。前回と違って衝撃は無いに等しく、睡眠もしっかりとることが出来た。以前夢で見る世界は、ただただ暗闇が広がっているだけであったが。
待ち合わせの時間までの時間調整を兼ねて、僕は今、家で眠気覚ましのコーヒーを飲んでいる。既に母さんには外出すると告げてある。しばらく今日の予定について思いを巡らせていたが、このままぼうっと座ったままというのも勿体ない。折角の空き時間ということで僕は、自分の《異能》で色々と試してみることにした。自分で自分のスペックくらい把握しておかないと、いざという時に自分を過信しすぎるか、自分を軽視しすぎるかのどちらかだ。
筆箱から消しゴムを取り出し、指先で軽く触れる。
すると消しゴムは重力に逆らい、ゆっくりと、真っ直ぐ上に浮かんで行く。『速く』と念じれば、そのまま加速し、天井にコツンと当たった。
意識を集中させないと、すぐに不安定になりそうだ。完全に意のままに操るのは多少の慣れが必要な気がする。いつもは使わない脳の部位を酷使しているような感覚に、疲れがどっと押し寄せた。
他の機能は無いのだろうか。僕は消しゴムを天井近くで静止させ、コップに入っているコーヒーの水面を、指でちょんと触った。
コーヒーは表面張力により綺麗な球体を保ったままゆっくりと、カップの中から浮かび上がる。
その瞬間、僕の背中に焦燥感が駆け巡る。宙で固定していた筈の消しゴムに意識が届かない。制御を外れた、と気づいた時には、位置エネルギーを消費して落下している最中だった。真下には、言わずもがなコーヒーの球がある。
−−−−やばいッ!
咄嗟に、異能に意識を集中させる。コーヒーは瞬時にドーナツ状に変形し、消しゴムを貫通させた。消しゴムはといえばそのままカップの中に落ち。こと、と乾いた音を立てた。
僕はほう、と息をつき、気を取り直して宙に浮いたコーヒーに意識を集中させる。
金平糖のような星型、王冠型、蛇の形、人の形など、考えただけで様々な形に変形させることができた。
『軸に沿ってモノを動かす』ということが基本ならば、おそらく様々な方向に『軸』を取り、引き伸ばしたり動かしたりしているのだろう。そういった細かいプロセスは『能力』の方が勝手にやってくれるらしい。
呼吸における全身の筋肉の動きは複雑だが、それら全てに意識せずとも、ただ『呼吸をしよう』という起動の合図のみを以って、全てのプロセスが自動で行われる。それと感覚は同じだ。
異能はどこまで自律的に動くのか。色々なパターンを試してみようかと、さらにコーヒーに注意を向けようとした矢先、なんと、想定外の事態が起きた。
「......んん...おはよ、朔馬。ちゃんと寝れた?」
階段を降り、母さんがリビングルームに姿を現した。
絶妙に悪すぎるタイミングだ。僕は今、奇妙な形をとったコーヒー(液体)を空中に浮かべているのだ。当然のことながら、母さんには今僕が置かれている状況について、何も話していない。
「......手品師にでもなるのかしら、朔馬」
少し驚いた表情で、問いかける母さん。
........あー、これはマズい。第六感などという曖昧なものに問いかける必要すら無い。これは取り返しのつかない、マズい事になった。
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今、僕の右手の上空三十センチほどには、ぬらぬらと黒く輝くコーヒーが重力に逆らって浮かんでいる。もちろん母さんに説明しているのは『夢』の話だけ。異能や魔術、それにアネクメーネのことまでペラペラと母さんに打ち明けて、巻き込んでしまうわけにはいかないというのに、この体たらくだ。失態。何故近づく足音に気づかなかったのだ僕……。
「あー......いや、なんのことかな」
僕は大慌てでコーヒーをカップの中に戻す。ちゃぷん、と音を立ててコーヒーが綺麗に器に収まり、小さな波を立てた。よし、バレてない。
「今絶対コーヒー浮いてたでしょ」
「まままままっさかぁ……」
視線をそらして誤魔化しながら、僕は平静を装ってコーヒーをすする。だめだ、ここで認めてはだめだ。無理を通して道理を引っこませろ。
「まあ親に話したくないっていうのであれば、詳しく追及したりしないけどさ......」
思春期だしね、とウインクを投げる母さん。いや、どう考えても思春期と何の関係もないだろ、と心の中で突っ込みつつ、僕は安堵のため息を小さく漏らした。とはいえ心臓はバクバク言っているままだし、未だ冷や汗が滝のように流れているわけだが。
「......朔馬、今日も図書館に行くんだっけ」
軽く伸びをしながら、母さんが問う。
「ん、まあね。司書の人と仲良くなって、今日も少し話をしに」
嘘ではない。僕は飲み干したカップを机に置き、メッセンジャーバッグを手に取り椅子から立ち上がる。その様子を見て、母は何かに納得したような素振りを見せた。
「市立図書館の司書…………はーんなるほど、今のは真司の実験道具か何かってワケね」
はーい、と間の抜けた返事をしようとして、一瞬で我に返る。
「し、真司ってどの真司よ」
「そりゃあ綿津見君よ。あの人は昔っからずっと超能力だかなんだかの再現に熱心だったからね。朔馬と真司が交友あるなら、さっきのコーヒーも彼の仕掛けってことか。納得納得」
まさか彼の名前をここで聞くことになるとは思わなかった。偶然の符合。世界は狭いと捉えるべきか、穿った見方をして全て繋がっていると捉えるべきか。勝手に納得してくれるのは構わないが、まさか母さんと綿津見が友人だったなんて思いもしなかった。
「彼は高校の同窓でね。私も真司も、卒業した後もこの街に残った組ね。こっちの図書館で働いていて、懲りずに超能力の研究してるって話は何度か聞いたことがあったからさ」
「『懲りずに』ってことは、高校時代から?」
綿津見と母さんの高校時代。想像することすら難しいが、そんな時代があったのは事実なのだという。時間の流れはかくも奇妙か。いや待ってくれ。綿津見はどう見ても三十付近にしか見えない。母さん、あなたおいくつ…………?
「そそ。超能力と神話の関係とかを大真面目に調べてさ。里帰りだかなんだかで九州まで行ったり」
「へぇ、九州……」
九州といえば、綿津見神社の総本社である志賀海神社が有名だ。となると綿津見は、高校時代には既に自力で、自らの異能力の謎を解き明かそうとしていたのかもしれない。それはそれで彼にとっては充実した青春だっただろう。
「と、とりあえず詳しい話は後で聞くよ。急ぐから。じゃ、行ってきます」
僕は綿津見の高校時代に思いを馳せ、家を出る。冬の冷たい風は前回と違い、今度は少しだけ心地よかった。
「謎が……多すぎるッ!!」
通学路を歩きながら、つい声に出してしまう。人気が少ないのがせめてもの救いか、近くにいた通行人たちが驚いてこちらを振り返り、独り言にしては大きすぎる叫びにくすくすと笑う。
恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になったので、俯いて黙って歩き続けることにした。
さっきから、新情報が多すぎる。おかげで僕の頭は混乱してばかりだ。整理するべき情報が、あまりに多い。
「悩める高校生男子……絵になるね。そーゆーのはキライじゃないにゃ」
突然、路地裏の暗闇から声がかかる。はたと立ち止まって目を凝らすが、人影らしきものは見えない。
「今回でははじめまして、だね朔馬君。いやはや捕まって良かった。では単刀直入に問おう。今回の君は、何回目かな?」
間違いない。言葉と共に、暗がりからゆっくりと姿を現したのは、一匹の黒猫だった。二つの瞳が僕を凝視する。




