人生で一番長いうたた寝
記憶は過去そのものではなく、その解釈に過ぎない。人々の記憶が少しずつ、でも確かに積み重なれば、過去はやがて歴史へと姿を変える。歴史はさしずめ、記憶の糸で織られた一枚の布だと、いつだったか本で読んだことがある。
過去を巻き戻すということは、歴史を巻き戻すということだ。布の織りなおしはとても難しいだろう。でも万が一過去を変えることが出来れば、それは同時に歴史を変えたということを意味する。同じ仕上がりには二度と出来ず、同じ紋様もまた作れない。全く別の布を織ることもできる。織りなおす決断をした今なら、使う糸さえ変えることも出来る。
「どんな些細な違いでも、未来は連鎖的に変化していく。ちょうど1羽の蝶が大きな竜巻を起こすように。同じ糸を使っても、同じ布は二度と縫えないように。……いえ、私の家は人形師の家じゃなかったね。専門外の話には口をつぐんでおくわ」
布の出来具合は、その日の天気にさえ左右される。布はそれ単品で用いられるのではなく、幾重にも折りたたまれ、層を為して使われるというのだから尚更だ。もし万が一、万が一過去をやり直せるならば、現在を大きく変えることが出来る。
「……歴史とは縁を紡ぐ行為よ。どこへ行き、誰と会い、何を話すか。良い縁に出会うのはとっても難しいけど、だからこそやりがいがあるんじゃない」
少女が指先にふっと息を吹きかけると、湧き出るように赤い糸がこぼれ落ちる。あれは血だ。血の糸だ。
地面に落ちる糸の先を目で追っていると、また声が降りかかる。
「人の繋がりは、人の脈は。きっと貴方を助けるわ。私はそれを知っているから」
僕を悟す女性の声が響く。聞き覚えのある声色だ。
いつも見ていた霧のイメージの向こう側には、いつもと違って歯車仕掛けの巨大な機械は無かった。よく目を凝らしてみると、霧のすぐ先で、先ほどの和服の少女が微笑んでいる。金色のかかった長い髪を後ろで束ねたその姿に、僕は見覚えがある。−−−−−−理恵だ。理恵が和服を着るなんて、なんともまあ珍しい。鮮やかな吉祥文様の紅に目を惹かれる。彼女の姿に色を見出した瞬間、ぼやけた霧のイメージの中で、彼女の姿だけが際立って目に映る。
「私は異能で血を操る。でも血が繋がってなくたって、ヨスガは結べるはずだから」
彼女の姿が、水に溶かした絵の具のように溶けゆく。モノクロの世界に混じりゆく彩色は、また一箇所に集まって形を成した。今度の彼女は私服姿だ。
「……朔馬はね、あんたみたいにお気楽ヤローじゃないっていつも言ってるじゃない!」
楽しそうに、でも少し寂しさをその目に宿し、彼女は横の空白に笑いかける。隣に誰かいるかのように。そう、まるで会話の一部が切り取られているかのように。僕は間違いなく、この台詞を聞いたことがある。この風景は、僕自身の記憶の一部だ。彼女の姿はまた溶けていき、そして新たな風景を再生していく。
「貴方は自由意志を以ってここに立っている。それが意味することを理解しなさい」
「血縁関係っていうのはね、血のヨスガと書くのよ。魔術の家に生まれたのも、私にとって縁が有ったと、ただそれだけのこと。魔術が使えない体質だったんのは結果に過ぎない」
「所有者の自殺で効果が発動する魔具だなんて正気じゃないわ。やめなさい、朔馬。貴方がそこまで傷つく必要はない。おとなしくこの運命を受け入れるという選択肢だって……」
忘れていた記憶。忘れるべき記憶。しかるべき時に思い出せるよう、錠前のついた鉄鎖で封印されていた記臆の断片が、今ひとつずつ、解き放たれている。
その諱は、白取 花凛。森賀さんは僕にそう告げてくれた。彼女が昨日まで決して明かしてこなかった出自の情報を、僕は既に知っている。このことが意味するものを、次の理恵がちゃんと理解してくれると良いのだが……。
彼女の姿はまたぼやけ、今度は霧の中に溶けてゆく。やがてその霧さえおぼろげになり、視界は完全な闇に包まれる。ちょうど、まるで夢を見ているような、そんな微睡みへと姿を変えて………………。
**
目が開けると、昼下がりの授業中だった。授業は四限目だろうか。教壇で教師が話す授業の内容は、どこか聞き覚えがある地理の一ページ。机の上で開いたノートには、赤文字でアネクメーネの文字。テストに出るとでも先生が口走ったか。
はたと気づいて顔を上げれば、目の前で、金色のかかったポニーテールがはらりと揺れた。その鮮やかさに、不意を突かれて目を奪われる。
「……と、アネクメーネはこのように、人を寄せ付けない未開の地です。では対義語として、ヒトが居住できる区域を指すドイツ語がありますが、これは前回の復習事項ですね。……じゃあ良須賀さん、答えて下さい」
はい、と凛とした声が響く。その声でようやく僕は我に返った。
長い夢を見ていた。目は一瞬で冴えた。ここから一瞬も無駄にしない。ここからは誰も死なせない。
**
「どうしたの朔馬、なんか今日は元気がないけど」
12月29日、土曜日の放課後。午後の授業から突然神妙な顔をして黙り込んでしまった僕を心配してか、理恵が話しかけてくる。
「いや.........ちょっと考え事をしていてさ」
適当にはぐらかしながらも、僕は良須賀___少なくともそう名乗っている少女____をまじまじと見つめた。
「……ん?」
戸惑う彼女の瞳の奥に、僕は最期の別れを思い出していた。
時間遡行は成功したようだ。記憶は、確かに残っている。
いまだ謎多き禁書エリアも、紫の空に陰を落とす鵺も、視界を彩る氷と雷の乱舞も、狂気を繰る禍の少女も。
そして、白取 花凛という、この少女にまつわる記憶も。
「ごめんだけど、今日は先に帰ってくれないかな。 あとで電話かけるから、その時に遼と三人で話そう」
挙動の怪しさから、僕が何か隠しているのはバレているだろう。だが今は、一人になりたい。前回もそうだった。限りなく同じ状況を作り出せば、限りなく同じ結果を生み出せるのだ。僕は理恵を、やんわりと教室から退散させた。
しゃりん、と彼女の鞄についたストラップの鈴の音が遠のいていく。今教室に、人影は無い。
黒板の上に据えられた時計に視線を移す。秒針は、止まることなく回り続けている。
僕は机の中に入れておいたメモ帳を開き、思考を整理する。いつのまにか勝手に書かれていた謎の文字群。今ならようやく、その意味がわかる。
音、猫、クトゥルフ、禁書、アドゥム……なんとか。いや、以前最後のワードは判読できないままである。
猫。カノンの口から出てきた言葉だ。3周目の僕__つまり前々回の僕が協力した誰か、または何か。クトゥルフ。これは、カノンが喚び起こそうとしていた邪神。ルルイエという名の島に住む、封印されし水の神。禁書。人の手によって歪められた叡智の結晶。異能と魔具に並ぶ、もう一つの鍵。
ここは、前回と同じだ。記憶を掘り起こすまでもなく、深く印象に残った場面だから良く覚えている。ふと前回を思い出してページをめくっていくが、あの時に見た、僕から僕にあてたメッセージはどこにも書いてなかった。そして僕は手帳から目を離さないまま、教卓の上に座る人間の存在に気付いていた。視線の先に記された、森賀花音の四文字から目を離さずに、僕は彼女よりも早く口を開く。
「やあ森賀さん。今日はいい天気だね」
空には、雨を連れてきそうな曇天が広がっている。そう、僕は覚えているのだ。まだ自分が事件に巻き込まれいていると気付く前、彼女から聞いた話を一言一句に至るまで、僕は心にしっかりと刻んでいた。今思い返せば、あの押し引き問答は一つの基点であり非日常の起点だったと言えるかもしれない。
顔を上げると、意外そうな顔をした森賀さんが僕を見つめていた。僕はペンを止めて話しかける。下校時刻までまだたっぷり時間はある。彼女には聞きたいことは山ほどあるのだ。それに、僕はお礼も言いたかった。
あの瞬間、時間稼ぎをしてくれた彼女のおかげで、僕はここにいるのだ。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」