空白の所在
通学路を歩く僕は、視界に映るもの全てを信じられなくなっていた。視覚から入る情報の全てを無視して、僕はただ歩き続ける。思考は未だ、転校生の存在と、それに反する僕の夢に囚われたままだった。
曰く、人は誰しも夢を見る。昼夜を問わず、目を閉じて意識を落とせば、次に目を覚ますのは夢の世界だと。そこでは空を飛ぶこともできれば、魚のように海に潜ることもできる。空想と虚構に彩られた、自己完結の絵空事こそが夢だと教えられてきた。だがしかし、僕にとって夢とは、また違うものを指す。それはすなわち、未来だ。
僕は夢の中で自分の未来を見る。時間にして六十時間後の僕が体験するはずの未来を、夢の中で疑似的に『体験』し、その後僕は起床して、夢の追体験をする。原理もわからなければ、その原因すらわからない。わからないがわからないなりに、僕はこの能力と生まれた時から付き合ってきた。未来の先行体験か、ないしは予知夢か。的確に言い表す言葉は見つかっていないが、ともかくその類いの現象だ。
寝れば寝るほど、夢の中で未来を知ることが出来る。授業中の居眠りの間だってその例に漏れることはないのだ。まあ、真っ昼間の六十時間後といえば、ちょうど2日後の真夜中−−−−−−つまり目を閉じているであろう自分の視界を観測するわけで、真っ暗な闇の中に落ちるだけなのだが。
ここまで聞くと、僕の体質はただ利点だけで構成されているようにも思えるかもしれない。なにせ未来に起こる出来事を、事前に知ることができるのだから。だがしかし、世界はそんなに甘くない。この力のせいで、僕はもどかしい思いを強いられているのだ。なぜなら、僕は『その夢を見たからといって、その後の行動を変更できるわけではない』からだ。
例えば、明日数学の抜き打ちテストがある、ということを夢で『知っていた』とする。でも、夢の情報を踏まえたテスト勉強をすることはできない。その時の僕は、『夢の中で僕がしていたこと』しかできないのだ。つまりテストの存在を頭の片隅に置きながらも、変わらぬ日々の行動に従事する。夢を踏まえて、新しいタスクを追加する余裕は日常生活には存在しない。簡単に言うと、僕はあくまで未来の観測しかできず、そこに干渉することは不可能という訳だ。僕は『知っていること』しかできない。
他人には世迷い言と思われるだろう。打ち明けたところで信じてもらえる訳がない。だが隠し通せるものでも無いのも事実だ。打ち明ける人数は最小限に。家族や親しい友人たちなど、理解を示してもらえる人のみに留めている。
そんなわけで、不思議なこの力のおかげで2日先の未来を『観測すること』だけはできる僕は、大概のことには驚かない……はずだったのである。
が、今日はいつもと違う。一昨日の夢によれば、今日は避難訓練があるだけで、転校生なんて来なかったのだ。今まで未来の夢が間違っていたことは一度もない。それゆえに僕は、自分の『夢』に対して絶大な信頼を寄せていたのである。だが『予定外の出来事』が起こってしまった以上、僕は夢の内容に疑心暗鬼にならざるを得ない。それぞ今日の夕方に捕まるはずの殺人犯だって、本当に捕まるか信用できない。
僕が今日の登校に不信感を抱いている理由はまさにそこなのである。自分の夢が信じられない。だから、生まれて初めて、次の瞬間何が起こるか分からない。
歩きながら、今度は明日に対応する夢の記憶を掘り起こそうとしたが、まるでノイズが混じっているようで、よく思い出せない。
……では、今朝の夢は?
今朝見た夢は、つまり明後日の昼間に相当するものだ。でもその内容は、不可思議な世界で起こった非日常の夢だった。二日後の未来において、僕は走って、刺されて、そして倒れてしまう。もちろんこれも、予知夢が真実ならばの話だが------。
通学路を歩きだしてしばらく経った。立ち止まって見まわしてみたが、特にいつもと変わった様子はない。だが全身に駆け抜ける不安は拭い去られることはなく、しきりに背後を気にしながら歩いてしまう。何かが違うのではないか、と直感が根拠もなくささやくのだ。
すれ違うバス、街灯、街灯に留まるカラス、信号、路地裏に入る小さな黒い影、あれは…………なんだ猫か。
『−−−−−−全て猫に託している』
今朝の夢での僕の台詞だ。まさか、ね。
「ねえ君、なにかその……託されたりしてる?」
僕は暗い路地の向こうに話しかけた。他の通行人から見たら、ただの変人である。猫も声に惹かれて一瞬こっちを見た後、すぐに奥へ逃げていった。なんだ、ただ恥ずかしい思いをしただけじゃないか。
深く考えすぎなのかもしれない。僕はようやくこの不思議な体質から解放されて、空想めいた夢を見るようになったのかもしれないじゃないか。それはたぶん、きっと喜ばしいことに違いない。
学校に近づくにつれて、あたりがどんどんと騒がしくなってきた。立ち止まって深呼吸する。少しだけ心が落ち着いた。
さて−−−−−−。
僕が通っているのは、私立の七丘学園だ。学校の歴史としては比較的浅く、学校全体が大きな六芒星を描いているのが特徴的だ。中学1年生から高校3年生までの校舎がそれぞれの角の三角形のパーツに分かれて設置されてある。学年が上がるごとに、校舎を時計回りに変えていく仕組みになってるのだ。中央の六角形のエリアには、生徒会室と職員室、中庭、食堂などの施設が揃っていて、人通りも一番多い。この合計七つある区画が、そのまま学園の名前の由来となっている。
校門は全部で三箇所あり、中学一年の校舎と二年の校舎の間、中学三年の校舎と高校一年の校舎間。そして高校二年の校舎と三年の校舎の間にそれぞれ設置されているので、生徒は自分の家から最も近い、又は自分の校舎から最も近い門への道を通学路とする。
門をくぐり、向かって右手にある高校1年生用の昇降口に歩き出そうとすると、突然、後ろから声が降りかかった。
「お、黒乃じゃないか。おはよう。こんなギリギリに登校するなんて珍しいな」
声の方を見やると、先ほど通り抜けた校門の陰に人影が見えた。柱にもたれかかるようにして僕の方を向いているのは、僕のクラスの担任教員だ。どうやら、今日の校門挨拶の担当は彼らしい。
「あ……先生おはようございます」
「『あ』は余計だぞ。そういえば聞いてくれよ朔馬。俺さ、昨日脚折っちゃった。バキって」
「大変ですね。にこにこしながら言う事じゃ無いですよそれ……ってうわ、ホントに包帯巻いてる。お大事に……」
「ドライだなお前……」
「ちょっと自分の事で頭が一杯でして。すみません」
挨拶も程々に、校舎に向かって数歩歩いたところで、ふと用件を思い出した。
「あ、用事ありました先生。今日って、避難訓練ありましたっけ?」
「避難訓練? お前よく知ってるな。確かに職員会議に抜き打ち訓練の話は上がったが、結局今日はやらない事になったんだが…………いや待て、どうしてお前がそれを知っているんだ」
「いや、無いなら良いんですよ。無いなら……」
軽く頭を下げ、先生と別れて昇降口に入る。電気が煌々と照らす靴箱で、数人の学生が駄弁っているのが見えた。夢では昇降口は無人だった気がする。やっぱり、少しづつ違うところがあるのかもしれない。
「なあ、A組に転校生来るらしいよな」
「聞いた聞いた、やべえめっちゃ楽しみ」
彼らの会話が耳を掠める。やっぱり転校生が来るのは本当なのか。母さんの思い違いじゃないという事だ。靴を履き替えながら、僕の中の不安は確信へと変わっていた。
ああ、畜生。やっぱり−−−−−−。
なにか大事なことを忘れている。もう何も信用できないが、その確信だけは間違いない。それにこれは気のせいかもしれないが、必死にそれを思い出そうとするたび、耳の奥で金属音が鳴るのだ。まるで、鉄の鎖を揺らしているように。